2000年12月17日 日曜礼拝メッセージ
アドベント(待降節)第3週第Iペテロ2章21〜25節
牧師 吉田耕三
アドベントも第3週に入って参りました。12月に入ってから"クリスマス"について、少しずつ学ばせて頂いております。第1週は"預言"という観点からキリストについて、第2週は闇から光に移して下さったお方としてキリストを学びました。今日は罪なき神の一人子が、私達の"救い主"として来て下さった事について考えさせて頂きたいと思います。
人として来られたキリスト
"イエス・キリスト"と聞くとどの様なイメージを浮かべますか?
ある方は、「羊飼いの様な姿」ある方は「病人や疎外された者を訪ねて下さる優しいお方」ある方は「律法学者達を責めている厳しい姿」色々な姿があると思いますが、忘れてならない姿、それは"十字架にお掛かりになった姿"です。彼のした事は、
「人の為に犠牲を払った」「真理の道を語り伝えた」「弱い人の友達となった」「病の人を癒した」
などでした。何も悪いことなどしなかった。けれども彼は、頭にいばらの冠が被せられ、背中に鞭打ちの痕がつき、唾が吐きかけられ、頬が打たれ、馬鹿にされ、除け者にされ辱めを受け続けたのです。更に彼が3年半も愛し導き続けた弟子達さえも最後の十字架の時に彼から離れてしまった。彼は誰にも理解されず、その悲しみの淵で何を叫んだでしょうか。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分で分からないのです。」ルカ23章34節
全てのものを与え尽くしたにも関わらず、多くの人が離れ去っていく中で彼は最後まで「彼らを赦してください。彼らは何をしているのか分からないのです」と叫んだのです。彼は十字架上で、手足に釘打たれ、血が流れ出、ずっとその苦しみを耐えていました。全ての痛み苦しみを受けたのは、私達の罪を赦す為であったからです。何故イエスはそんな所に来たのでしょうか?そうしなければならない責任があったからでしょうか?
イエスは天の御国で神として全ての尊厳と栄誉を持っていました。人間の為に苦しみを受ける必要は微塵もありませんでした。でも彼は来られたのです。何故ですか?それは私達を愛されたからです。人間を思う心が(ほおっておく訳にはいかない)それが汚れと罪に満ちたこの世に自らが赤子して生まれ、その地で人々から捨てられ、除け者にされ、遂に十字架に掛けられて死んでいく事さえも良しとされた。それは神様が私達を本気に愛しているからです。
イエス・キリストは2000年前に、本来は責任も必要もなかったその方が来て下さったのです。それは私達を本当に愛しておられ、何としてもその魂を救い出したいと願ったからなのです。汚れ罪に満ちた醜き世界に生まれ、自ら私達の全ての罪の重荷をおって永遠の救いの道を備えて下さったのです。そして今やこの方を信じ受け入れるならば誰でもその人の内に永遠の神の祝福が注がれる様にされたのであります。
復活の勝利
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ7章37〜38節
イエス・キリストはこの様に語られました。あなたの内に渇きや憂い、悲しみ、弱さ、ふがいなさ、惨めさ、孤独、習慣的な罪や不安、恐怖があるでしょうか。どんなものをもっていたとしてもこのお方は全てに清めをなして下さるのです。たとえあなたの罪はどんなにひどくても、『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。イザヤ1章18節』と語って下さるです。あなたの罪を赦す為にキリストは汚れたこの世に来た。そればかりでなく、私達に赦しと清めの確証までも与えて下さったのです。
イエスは死んで3日目に墓から蘇られたと記されています。この"復活"こそが罪の赦しの確証なのです。聖書は『罪からくる報酬は死です。』ローマ6章23節
と語ります。イエス・キリストは私達と同じように死んだ。しかし彼は蘇ったのです。蘇ったという事は「この方は罪がない神の一人子である」という事を証拠づけているのです。イエス自身は罪のない方でしたが、私達の罪を背負った為に、罪人とみなされ、あの十字架の上で死んだす。でも死から蘇られました。イエスは罪のないお方ですから、死の中に置かれる事は有り得なかったのです。彼が私達の身代わりとなり死んだので、私達の罪はイエスの十字架で結ばれ、そこで解決がなされた。例えその罪がどんなものであったとしても、もうそれは解決された事を現しているのです。
ですからイエスを救い主として信じる時に、だれでもこの恵み、復活の力、神様の勝利の御力に与る事が出来るのです。イエスは私達を救う為に、私達を愛してこの世に来て下さった。その為に十字架に掛かって下さった事をもう一度新たに受け止めさせていただきましょう。あなたがこのキリストを、十字架を、我が為と信じ受け入れる時に、あなたの内に喜びの泉が湧きあがってくるでしょう。