2000年12月31日 日曜礼拝メッセージ
詩篇103編1〜22節
牧師 吉田耕三
いよいよ2000年も終わりを告げようとしています。明日から新しいミレニアム(千年紀)です。その前に私達は何を知るべきなのか、年末の御言葉として祈りながら詩篇103編を学びたいと思います。
主をほめたたえよ
この詩篇103編は詩篇の中で、「もっとも麗しいもの」と言われています。ヴァイザーという方はこの箇所を「聖書の中に咲いた一つの花」という表現をしている程です。美しい信仰生活における姿であるということが言えると思います。この詩篇の103編の主題は1節、2節、或いは最終章から分かるように「主をほめたたえよ」という事かと思います。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。」1〜2節「主をほめたたえよ。すべての造られたものたちよ。主の治められるすべての所でわがたましいよ。主をほめたたえよ。」22節私達の信仰生活において非常に大切な事。それはこの"主を褒め称える"という事をこの朝しっかりと覚えて頂きたいのです。また年末に主を褒め称えて1年をしめくくって頂きたいと心から願う訳であります。
私達はともすると、直ぐに神様の恵みを忘れてしまう者ではないかと思います。恨み、つらみ、或いは人からされたひどい事については結構覚えているのですね。でも良かった事は、結構すぐに忘れてしまう。恵みに慣れてしまう面があるのではないかと思います。
ルカ伝の中にらい病に冒された人達の話しが出てきます。らい病は大変な病気です。イエスによって彼等は長年病んでいたらい病から解放されました。どんなに彼等が喜んだか。しかし癒された事を「ありがとうございました」とイエスの元に感謝しに戻って来た人は10人の内のたった1人であったというのです。イエスは「他の9人はどうしたんですか?他の9人も癒されたのではないですか」と言われている程です。人間の付き合いでも何か良き事があれば、感謝するのは当然の事であります。ところが病気が癒されていながら「ありがとうございました」と戻った人は10人の内たった1人であったというのです。
これは私達の姿によく似ていると思うのです。嫌な事は色々と思い起こしますけれども、感謝な事は(それは当たり前)と言って直ぐに忘れてしまう。人に対してはこれからの関係もありますから「ありがとう」と言うのですが、神様に対しては、10回応えられて感謝を祈るのはその内に1回位ではないでしょうか。私達は一つ忘れるどころか、"何一つ覚えていない"となってしまいやすいのです。『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな』私達はしっかりと言い聞かせる必要があるのではないでしょうか。
主はあわれみ深く情け深い
「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」3〜5節
私達が少し心を背けていますと、「神様が私達から顔を背けてしまったのではないか」と考えてしまう。しかし私達の方から顔をそむけたのであって、神様がそむけたのではないのです。
たとえあなたがそむいていたとしても、あなたの為に十字架があった事実は変わらないのです。そしてあなたの罪はその十字架によって赦されるのです。だとするならば私達がどんな状況にあったとしても「主よ感謝します」と祈る事が出来るのではないでしょうか。私達の為の"十字架"は何が変わろうとも変わらない。私達への赦しは厳然としてあるのです。私達を愛する神様の愛も変わらないのです。
私達自身は色々と変わります。感謝する時もあれば、神様に文句をしか言わない時もあるでしょう。でも神様からの愛、神様からの赦しは変わらない。だとするならば、どんな時でも神様を褒め称える事が出来るのではないでしょうか?自分の心が元気ではなくても、「主よ、あなたを褒め称えます。あなたは私の罪の赦しを成し遂げて下っていますから、私を愛いして下さっていますから感謝します」と祈る事が出来るのではないでしょうか。もし私達がこういう事を日々味わっていくのならば、私達は本当に主を褒め称えざるえないのではないでしょうか?また褒め称えるべきではないのでしょうか。
「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがってわたしたちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。」8〜10節
神様は私達が素晴らしいから恵みを下さるのではありません。私達がちりに過ぎない、神の前に多くの罪を犯す者であるにも関わらず、神の憐れみを注いで下さる。神様は私達の罪を責め立てられる方ではないのです。神様という方がぼやけて見えてきますと、神様は絶えず「頑張れ、頑張れ」といつも背中から叩かれているイメージを持ってしまう面があるかなと思います。でも神様は本当はそんな方ではなく、ここにある様に『主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。いつまでも怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。』のです。もし私達が自分達のしている事に従って扱われたならどんな目にあうでしょうか。私達はまともにここに生きている事が出来ないかもしれません。
聖書の中に次の記事があります。ある人が一万タラントの借金を抱えました。一タラントが六千デナリ。一デナリが一日の労賃(約一万円位)。ですから一タラント=六千万円×一万倍です。つまり六千億円の借金がある人なのです。
これは何を例えているかというと、私達の"罪"をたちえているのです。六千億円の金額は返し様がありませんね。私達の心の思い、考える事、妬み、憎しみ、高慢や嫉妬。悪い事ばかりではないですか?この話しの続きは、
王様が彼の一万タラントの借金を帳消しにしてくれたのです。しかし彼が自分がお金を貸した人に出会ったところ、彼は「確かに貸したんだから返せ」と、絶対に許そうとしないんです。それを聞いた王様が「自分はあれだけのものを許されたのを忘れたのか」と言われ、最終的には牢屋に入れられてしまったのです。
自分が赦された事を忘れて、人を赦す事が出来ない。でももし私達が「多くの罪を持っている者」と自覚し、そしてそういう者が赦されたのならば、「心から主よ感謝します」という事が出来るのではないでしょうか。神様とは憐れみ深く、情け深い方なのです。私達を叱って「お前はダメだ。」というのではなくて、本当に「赦そう。赦そう」として下さっている事を是非覚えていて下さい。
主を恐れる者への恵み
「しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ。」17〜18節
"主を恐れる"とは、どういう事でしょうか。ただ怖がるということでしょうか?そうではありません。神様がどんなに偉大なお方かをはっきりと認めるという事です。神様は天も地も全てのものも治めますし、私達の命をとる事も生かす事も出来るお方です。"全ての権限を持つ方"であるという事を認める事です。そうすれば主を恐れる者の上に神の恵みが注がれるといっているのです。私達は主が良くして下さった一つ一つを思い起こして感謝を捧げ、主を恐れて、主の御言葉に聞くものになっていきたいと思います。
私達が主を恐れて主の御言葉を思い起こす時に、神の恵みは私達の内に溢れ流れていくのです。あなたの生活の中に「主を褒め称える」という事があるでしょうか?もしないならば、神様が成して下さった一つ、一つの事を思い起こし、一つ一つに感謝を捧げては如何でしょうか?神様は憐れみ深い方です。その事を知る時に自分の中で「ごめんなさい」と言え、その時に私達を赦して下さる。そして私達の内に神への賛美と喜びが湧きあがっていくのではないかと思います。
私達も何があっても主を褒め称える心を主に捧げていきたいと思います。そしてその主の御言葉を反芻していきましょう。主の良くして下さった事を一つ一つ思い起こしていきたいと思います。