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「主の思い」

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2001年1月7日 日曜礼拝メッセージ
ルカ7章11〜17節
牧師 吉田耕三

前回はカペナウムの町でローマの百人隊長がしもべの病気をイエスによって癒して頂いた、彼の信仰から学ばせて頂いたきました。彼はユダヤ人の為に会堂を捧げた素晴しい人物でした。ところが彼自身は「私は神様からの恵みを受ける資格はありません」と言うのです。彼自身の願い事ではなく、奴隷の癒しを願いました。イエスが家に近づいて来た時に、「異邦人の私の家にあなた(イエス)をお入れする資格はありません。ですからお言葉を頂ければ必ず成就しますから言葉だけで十分です」と言うのです。この百人隊長は本当に言葉だけで信ずるという素晴らしい信仰を持っています。私達もこれに倣う者になりたいと前回は学ばせて頂いたのであります。

主が私達を理解してくださる

このカペナウムから40km程離れた所にナインという町があります。イエス達が町に入った時にある一行と出会った訳です。

「イエスは町の門に近づかれると。やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されるところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見て、かわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。」12〜13節

"やもめ"ですから既にご主人は亡くなっています。そればかりか、一人息子までが亡くなってしまった。どんな悲しみがこの女性をおおっているか計りしれない事であります。さてそこに来られたイエスがどう思ったか?

『その母親を見て、かわいそうに思い・・・』

"かわいそう"という言葉の元々の意味は、「はらわたが揺り動かされる」という意味です。これがこの時にイエスが感じられた思いです。本日是非皆さんに覚えて帰って頂きたい事。それはイエスは"はらわたが揺り動かす様にして私達を理解して下さるお方"という事を分かって頂きたい。

今年の年頭の御言葉はホセア書を開かせて頂きました。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」ホセア6章3節

皆さんは主を"どの程度"知っておられるでしょうか?私達は知っていると思っています。でもどこまで知っているかというと"?"がつくのではないでしょうか。神様の憐れみということをどの程度知り、理解しているかでしょうか。私達は「主よ、あなたの憐れみを知る者とさせて下さい」と共に祈る事が出来たらと思います。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、全ての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」ヘブル4章15〜16節

イエスは罪は犯されませんでしたが、全ての試み、全ての悲しみを通ったのです。"孤独"という事を考えたらどうでしょうか?3年半も手塩に掛けて育てた弟子達が逃げさってしまった。自分が命を掛けて救おうとしている人々は自分を馬鹿にして、唾を吐きかけ、あざけ笑っている。イエスはありとあらゆる悲しみを通って下さいました。ですから神様は私達の悲しみ、苦しみ、寂しさを全てご存知なのです。神様は、はらわたを動かす様にして私達の思いをくみ取って下さるお方なのです。もし誰も自分の事を理解してくれないと思ってもこのお方だけはあなたを理解して下さるという事を是非知って下さい。

神様はどんな悲しみの中、苦しみの中にあったとしても、私達がこの方に心を開くならばそこに来てそれを癒す事がお出来になります。またそれ程に私達の悲しみを理解して下さるという事なのです。他の誰も分からなくても、この方だけは分かって下さる。それがイエス様です。だとするならば「どんな悲しみの中でもイエス様だけは癒すことが出来る」と神様に祈る事が出来るのではないでしょうか。

死を打ち破るお方

「そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ、あなたに言う、起きなさい。」と言われた。するとその死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。」14〜15節

イエスは亡くなった青年の棺に手を掛けています。ユダヤの律法によれば、死んだ者は汚れているので、それに手を触れた者も汚れた者とみなされるのです。という事はイエスはわざわざ自分で手を伸べて触れて汚れの中に入って下さった。そして青年に向かい

『青年よ、あなたに言う、起きなさい。』

と言われた。ここに今日のもう一つのポイントがあります。この、神様は"死"をも打ち破るお方であるという事です。このことをしっかりと心にとめさせて頂きたいと思います。「死んだら終わり」と思うのが私達です。ところがイエスはその"死"を打ち破って下さったのです。そして"死"と共に全ての呪いや崇りを全部打ち破って下さった。或いは"死の恐怖"も打ち破って下さった。ですからクリスチャンにとって"死"とは絶望ではなく、はっきりと言うならば天国への入り口です。これは喜ばしい事なのです。パウロは語っています。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることのことが、あなたがたのためには、もっと必要です。」ピリピ1章21〜24節

パウロにとって死ぬ事は「恐ろしい事ではなく、願いであり望みだというのです。早くそちらの方に行きたいが、今この地上に生かされて私があなたがたの役にたつならそれも喜んでさせて頂きましょう。」と言うのです。死をも打ち破って下さったお方は、先ほども申し上げました様に全ての呪いや崇りからも私達を解放しています。イエスは棺に触りました。イエスは自らすすんで汚れた訳です。それはどうしてですか?イエスが"汚れ"を身に受けると決めていたからでしょう。イエスは自らそれを決めてたから、喜んでその汚れのただ中に来て下さったのです。神様は私達の全ての汚れ、呪い、重荷も何もかも受けて十字架に掛かって下さった。私達はこのお方の力をもっとはっきりと受け止めていく必要があるのではないかと思います。

けれどもイエスは"死"を残してある場合もあります。それは神様は私達の益の為に敢えてその様な災いも残している訳です。神様が試練を残されている理由は、私達が変えられていく為なのです。別な言い方をしますと、試練が残されているという事は"私達はまだ変わる"という事です。この事を私達がはっきりと知り、受け取る事が出来るならば、私達が出会う様々な事に関しても(神様は無意味にしているのではない。これも益にして下さるのだ。神様はこれを越えられないのではない。越える事も出来るし支配する事も出来るけれど、でも敢えてこれを許されているのだ)と受け取っていく事が出来るのではないでしょうか。

「神様は死に負けてしまう方ではない。死を打ち破った方。どんな事でも出来る。」この事をもっと大胆に信じていく事が大切ではないかと思います。その時に神様は私達一人、一人に大いなる祝福を注いで下さるでしょう。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」ホセア6章3節

私達が本当に主を切に追い求めるならば、暁は光の様に現れ、大雨の様に私達の所に来、後の雨の様に潤されるのです。あなたはどの程度に神様の憐れみ深さを知っているでしょうか?あるいは神様の力をどの程度知っているでしょうか?「神様、あなたをもっと知らせて下さい。本当に憐れみ深い方であるのを知らせて下さい」と求め始めるならば、神様の光は暁の様に確かに現れてくるのです。この新しい年、神の憐れみ、神の御力をもっと大胆に求めそれを知っていく者にされていきましょう。そして神様の祝福が豊かに注がれていく様に祈っていきましょう。

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