「ヨハネの迷い」

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2001年1月21日 日曜礼拝メッセージ
ルカ7章18〜35節
牧師 吉田耕三

皆さんは主イエス・キリストを信じて以来、何の迷いもなく順調に信仰生活を続けて来られたでしょうか?それともあちらに行ったり、こちらに行ったりと歩んで来たでしょうか?順調な人もいるでしょうが、多くの人は上ったり、下ったりしながら歩んできているのではないかと思います。今日は信仰の勇者と言われた「バプテスマのヨハネ」が迷った箇所から学ばせて頂きたいと思います。

私達の思いと神の思い

イエスはバプテスマのヨハネを『女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません』と言わしめた人物です。そんな彼がイエスの事が分らなくなってしまったのです。

「さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。すると、ヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送り、「おいでになるはずの片は、あなたですか。それとも、私はほかの方を待つべきでしょうか。」と言わせた。」18〜19節

ある時、バプテスマのヨハネは、ヘロデ王(兄弟の妻を妃として迎えた)に対して「あなたは間違っている」と言った結果としてヨハネは投獄されてしまいました。その時自分が投獄されているのをイエスが知り、正義のわざとして何かすごい事をしてくれるのではと思っていたと思うのです。彼のメッセージがルカ3章に書いてあります。

「ヨハネは答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし私よりもさらに力のある方がおいでになります。私はそのかたのくつのひもを解く値打ちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」ルカ3章16〜17節

正しい者には正しい神の裁き。悪者には悪者に対する裁きがあると語った訳です。バプテスマのヨハネは人々からも尊敬されて認められました。そしてイエス自身も『女から生まれたもので、彼よりもすぐれたものはいない』とまで言っているのですから、彼が素晴らしい人格者であったことは間違いないと思います。

ところがその彼が捕まったのですから、直ぐにイエスが正しい裁きで彼等を打ち砕き、イスラエル国の真の王として君臨してくれるのを待ちっていたと思います。しかし投獄されて何日経っても何の変化もない。噂をでは、病人を癒されたり、孤独な人の友達となったりはしている。

「それは悪い事ではないけれど、イスラエルの国を頂点の国とし、神の支配をもたらす仕事はどうしたんですか。一体何もしてくれないあなたが、本当にキリストなのですか?」

という迷いが出てきてしまったのです。ヨハネはイエスに洗礼を授けた時に、聖霊が鳩の様に下ったのも見ているます。だからこそ彼は『私はその方のくつのひもを解く値打ちもない』と言えた訳です。それ程にイエスを知っていたヨハネが迷ったのです。何故でしょうか?実は彼も私達と同じように"自分の思い"が強かったからだと思います。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。——主の御告げ。——天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」イザヤ55章8〜9節

私達は何でも"自分の考えが一番良い"と思っています。だから「それ以外の道はない」と思っているのです。でも神様は「それはあなたの思いであって、意外な道がある。神の道はあなたの考えよりもっと高いという事を知るべきだ」言うのです。ここに私達の"自己中心性"が現れているのです。バプテスマのヨハネも恐らく

「自分は神様の前に真実に歩んだのだから、無実の罪で捕らえられているのだから、当然イエスが正しい裁きをなさり、今こそ神の国を建てあげるのだ」

と思ったに違いありません。それをしないのは"おかしい"と思ったのだろうと思います。でも神様の御心は違った訳です。私達の中にはいつも(自分の考えが正しい)と思う考えがあります。これが私達に神の恵みを奪わせ、疑わせてしまうのだという事を覚えたいのです。

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」箴言3章5〜6節私達は自分の思い、考えにこり固まってしまうのではなくて、神様に拠り頼み、神の導きに従っていく時に、神はその道をまっすぐにされる。この事を覚えさせて頂きたいと思うのです。

清い目でみよ

「そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり、聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」22〜23節

疑いを持ったヨハネに対し、イエスは冷たく言い放す様に「事実だけを伝えなさい」と言うのです。ここに大切な真理が示されている様に思います。それは私達は自分で悟らない限り受け止める事は出来ません。イエスが言われた言葉をヨハネが真剣に受け止めて聞いていく時に、段々と自分の過ちに気がついていったと思います。自分は"裁き主"としての神様だけを描いていたが、預言書によると、救い主が来るとこういう事が起こると書いてあります。聖書の中には裁き主とは違うキリスト像も書いてある。そして自分の過ちにも気が付き、自分の思い込み、偏見が取り去られていく。それがヨハネには必要な事であったのでしょう。

もし私達が心の偏見を取り除いて、悪い思いを消し去っていくならば、私達は"神を見る"のです。私達の中からそれらの物が取り去られていく時に、「この出来事にも、この悲しみにも、この戦いにも、実は神がおられた」のを見る事が出来るという事です。もしも心の汚れ、不純物を取り去っていく時に、神様が見える様になっていく。だから「事実だけを伝えなさい」とヨハネが清純な正しい思いになった時に、彼は神の事が分かるでしょうという訳です。

イエスはヨハネを「預言者よりも優れている」と言います。今ヨハネは信仰的につまずいてはいますが、イエスはヨハネの姿をきちんと見ています。私達が迷った時にも、色々な時にも神様は全部分かっていて下さるのです。

愚かな者こそが神の恵みを受ける

「ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちでさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からのバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。」29〜30節

神様からもっとも遠いと思われた取税人が神の言葉を受け入れて天国の市民となりました。神様に一番近いと思われていた律法学者やパリサイ人達が神の言葉を退けた。バプテスマのヨハネがナジル人(神の特別な民)として厳格な生き方で歩んでいると「あいつは少しおかしい。悪霊に憑かれている」と言うし、イエスが人々と一緒に食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていると「あいつは大食いの大酒飲み」とどちらにしても悪口を言って裁く心、非難する心でしか聞こうとしないのです。

神からもっとも遠いと思われていた取税人達は、神の言葉を受け入れた時に、本当に変えられていって神様の御業、栄光を証明したのです。「十字架のことばは、滅びに至る人々に愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それはこう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを滅ぼす。」第Iコリント1章18〜19節

『十字架のことば』、これは自分を知者だと誇る人は、その意味を悟る事が出来ないと言うのです。しかし単純にそして素直にその言葉を聞く人は、力を受ける。本当に見捨てられ、罪人に思われて非難される側の取税人は真実な知恵、真実な力を頂きました。知恵があり、力があると思われていた律法学者やパリサイ人は本当の神の恵みに与る事が出来なかったのです。

私達が聖書の言葉、イエスの言葉を素直に受け取るならば、その御言葉は私達の内にあって力となり罪から解放し、死の恐れから解放し、私達を様々な恐怖や不安から解放して下さる。ある時は神の言葉を素直に喜び受け入れ、神の恵みを喜んだかもしれません。しかしある時にヨハネの様に疑う事がなかったでしょうか。そしてその時から神様の力を味わう事が出来なくなってはいないでしょうか。もう一度(私達の心の目を綺麗に色々な不純物をとって頂き、本当に神の言葉を素直に受け取れる者に変えて下さい。)と祈っていく事が必要ではないでしょうか。

私達はしばしば疑いが出てくるかもしれません。しかし私達は御言葉を素直に受け取り、真理に導き、様々な縛りから私達を解放する真の力となる御言葉の恵みにあずかっていくお互いにされていきたいと思います。