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「愛の理由」

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2001年1月28日 日曜礼拝メッセージ
ルカ7章36〜50節
牧師 吉田耕三

分厚い聖書の中で何が一番大切な戒めであるかご存知でしょうか?有名な"十戒"、申命記、レビ記には様々な教えが沢山出てきますが、その中で何が一番大事なのでしょうか。それは、「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。」マタイ22章37〜38節ということです。聖書の中で一番大切な事は"神様を愛する"と言う事だというのを気付かれると思います。皆さんは自分の心を顧みる時に、本当に"神様を愛する"という心が育っていますでしょうか?

愛の故に

私が゛神様を信じたばかりの頃、何も分かりませんので、祈る時に、よく人の言葉を真似て祈りました。その中に「愛する主よ」という言葉がありました。私もよく「愛する主よ」と祈っていたのですが、段々その言葉が嘘っぽく感じられてきたのです。神を"愛する"という思いが自分の内にはなく、大変むづかしい事だと気づいたのです。結構長い期間そう感じていました。しかし、今お話しました様に、聖書では"神を愛する"という事は何よりも大切にするべき戒めなのです。ではどうしたらこの様な信仰になって行く事が出来るでしょうか?その秘訣が今日のこの箇所。特にこの罪深い女の中にあらわされている様に思います。

「さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたいと、イエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼをもって来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。」36〜38節

シモンという名のパリサイ人がイエスを食事に招きました。ユダヤでは寝転んで食事をするのです。左手で身体を支え、足を投げ出し右手で食物をとって食べるのが習慣でした。ここで私達が目を留めたいのは、この女性です。彼女は一口に「罪深い女」と呼ばれています。どういう行状が過去にあったのか分かりませんが、まともな扱いを受けた経験がない様な人ではなかったかと思います。それが何故シモンの家に来ようとしたのでしょう。

この女性は以前イエスに出会った事があったのです。そしてイエスに自分が受け入れられ、愛されており、『私の目にあなたは高価で貴い』というその事が直ぐに分かる様なイエスの言葉か態度があったのだと思います。ですからイエス様に対し、この女性は大変大きな感動を覚えて喜びを心の底から持っていたのではないかと思います。パリサイ人の家ですから、他の人以上に汚れや罪人を毛嫌いするでしょう。自分が行けばきっとものすごい勢いで、罵声を浴びせかけられるのは分かりきっているけれども、そのような厳しい状況にも関わらず、この女性はシモンの家に出掛けて行きます。

「あのイエス様にもう一度会いたい。あの優しさ、愛のほとばしる目。イエス様に会いたい」様々な妨げがありましたけれども、彼女のその思いを打ち消す事は出来なかった。彼女は香油を持ちイエスの所に向かいました。イエスの側に立つと言葉も出ず、ただ涙だけが流れる。涙が足に落ちたのを見て、「いけない!」と思ったのでしょう。彼女は自分の髪の毛でイエスの足に落ちた自分の涙を拭った。普通なら泥に汚れた足を汚いと思うでしょうが、彼女はその足に何度も何度もくちづけをした。「イエス様に会えて本当に嬉しい」そんな思いを伝えたかったのであろうと思います。ところがそれを見たパリサイ人はどの様に思ったか。「イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるかを知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。」39節「預言者ならば直ぐにこの女がどんな者であるかわかるはず。それをしないのはやはりこの人は本物ではないのではないか?」そんな思いをシモンは持ったのかと思います。シモンの思いをイエスは見ぬいて言いました。

赦された者の思い

「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。ではふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。」41〜43節

分かり易く言いますと、1デナリを一万円と考えるならば、片方は500万円の借金を抱え、もう片方は50万円の借金があった。「何とか許して頂けないでしょうか?もう少し待って下さい。」と必死の願いに、貸主は「それでは払わなくても良いよ」と赦してくれた。どちらの方が金貸しを愛する様になりますか?当然500万の借金を赦されたのですから、その思いも深かったであろうと思います。実はこの女とシモンの事を語ろうとしていた。

当時人を食事に招くともてなしとして手を洗い、足も洗う。そしてくちづけして、油を塗るのが礼儀でした。ところがシモンはそれをしなかったのです。この辺に彼の本音、喜んでお迎えするというよりも、疑いながら迎えている姿を見る様な気がします。

「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。」47〜48節

イエスはこの女性の『罪は赦されています。』と言いました。過去において既に赦されていると語っているのです。ともすると"愛したから赦された"と読んでしまいがちですが、赦しが先なのです。赦された結果として、愛の行動が彼女から出て来たのだと説明しているのです。しかし少ししか愛さない者は少しの行動しか取る事が出来ない。そして女に『あなたの信仰があなたを救ったのです』と語りました。

「イエスが自分の事を愛し、受け入れて下さっている。」

その事を受け取った信頼の心があなたを救ったのです。「安心しなさい」と言われたのです。私達がこの様な愛の人に変えられていく秘訣。それは『あなたの罪は赦されています』ここにポイントがあります。喜びに満ちる生き方。愛に溢れる生き方。与えざるえない、それをせざるをえない。それはこの女性が「イエス様は私を受け入れ、愛して下さっている」、その事を心底受け取っていたからではないでしょうか。"神様を愛する"事が出来るかどうかは、自分が受けた恵みと慈しみの理解にかかっています。すなわち私達の心の目が開かれ、どれくらいすばらしさが分かっているかにかかっています。

私達は自分の弱さをなるべく見ない様にしてきました。なぜならばそれを見ていたら元気に力強く前に進む事など出来なくなってしまうからです。しかし神様にある歩みはそうではありません。かえって、その惨めな自分の姿をじっと見て、(惨めな私が赦され、愛され、受け入れられている。)ここにしっかりと目を向ける時に私達の心に愛が芽生え始めるのです。この女が非難される事が分かっていてもイエスの所に走った様に、私達もイエスの為に喜んで犠牲を払う事が出来る者に変えられていのです。

「自分の罪がいま一つ分からない」「自分はそんなにひどいとは思わない」

そういう方は祈って下さい。神様は必ずあなたの心の目を開いて下さいます。そしてそこに留まらずにその自分が「赦されている」という事をも受けって下さい。私達がこの確信に立たせて頂く時に、私達の心に主に従う心、主を愛する心が湧き出てくるのです。私達はその様な愛を持って神様に仕える。それを神様は喜んで下さるのです。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。ローマ12章1節

私達がこの神様の愛に感動し、神様の赦しを確信する時に、

「こんな私でよかったら私自身をお捧げします。立派でもなく、素晴らしい訳でもなく、それどころか汚れや醜さや多くの弱さを持っています。でもこのままお捧げします。どうぞ私を通してあなたの計画を成して下さい。」

と祈ることが出来るのです。そして神様の祝福が御一人一人に注がれこの女性の様に人々に麗しい愛を与える歩みが私達の内にもわき上がってくることでしょう。

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