2001年2月4日 日曜礼拝メッセージ
ルカ章8章1〜15節
牧師 吉田耕三
前回は"罪深い女"という箇所から、私達がいかにして神の愛に生きる者となる事が出来るかを事を学ばせて頂きました。それは、主の赦しをしっかりと受け取る時に、イエスを愛する者へと変えられていく事が出来るのだとお話をさせて頂きました。
さて今日は私達がどの様にして"豊かなクリスチャン"となっていく事が出来るか、実を結ぶ者となっていく事が出来るかを学びたいと思います。
種蒔きのたとえ
神様の素晴らしい恵みを日々味わっているクリスチャンがいます。恵みの中にスクスクと成長していくのです。その反対に中々恵が分からず自分のものにならないという事もあります。これは何処に違いがあり、何が問題なのでしょうか。実はその違いは御言葉の受け取り方にあるのです。
「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。」5〜8節
ここで覚えるべき事は、イエスの語られた『「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた』という所ではないかと思います。イエスは「あなた方は、聞く耳を持って、この事を聞くのですよ」と何度も何度も語られた。私達は聖書の言葉、或いはメッセージや話しを聞いても、それを正しく聞く事が出来るか、それとも表面的な意味でしか受け取る事が出来ないかを注意するべきではないかと思います。
御言葉をサッと通り過ぎる様に読むと、何も残らない事がありませんか。聖書を一回読んで閉じます。閉じた瞬間に今何が書いてあったのか思い出す事が出来ない。これは私だけの経験でしょうか?実はそうではない様に思います。このイエスの例えの中に第1番目の例が出てきます。
「このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。」11〜12節
もしかすると小説の言葉はもっと入ってくるかもしれない。でも聖書の御言葉は私達の心からどんどん取り去られていく危険性があるというのです。御言葉に関しては、それを取り去ろうとする悪しき働きが絶えずあるのです。ですから私達は殊更にそれを自分に留め様としない限り、消えていってしまうのです。では御言葉をどの様にして読めば良いのでしょうか?自分にとって(どういう意味かな)と読むと心に残ります。そうでなければ御言葉は私達の内から消えてなくなってしまうという事なのです。
豊かな実を結ぶ人と結ばない人
第2番目の御言葉の聞き方があります。「岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。」13節聖書の中には素晴らしい約束が沢山あります。『恐れるな私はあなたとともにいる。たじろくな、私があなたの神だから。私はあなたを助け、あなたを強め義の右の手であなたを守る』『すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます』
『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたが耐えることのできないような試練にあわせることはありません。いやむしろ試練とともに脱出の道をも備えてくださいます。』
などです。是非ともこれらをしっかり覚えて、自分に当てはめて頂きたいと思います。しかし、『岩の上に落ちる』とはその素晴らしい部分については受け取り「素晴らしい。素晴らしい」と喜ぶのです。でもそうではない御言葉もあります。良き部分は受け取るのですが、嫌なものは「要りません」と言ってしまう。そうすると結果として根が張らないのです。私達は神様の与える試練の時にも、御言葉に従っていく。そうすると根が張っていくのです。
根が張らなければ根からもらえる養分(祝福)を頂く事が出来なくなってしまうのです。私達は良き所だけではなく、嬉しくない時でも御言葉を受け取っていく。そこに立たせて頂く。御言葉に立たせて頂く時にそこから豊かな命が出てくるということであります。
第3番目の姿があります。「いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。」14節
これは枯れずにかろうじて命は保っています。しかし豊かな実を結ぶ所までは到りません。他の物が生え出てしまい、神様が結ばせ様としている豊かな実を結ぶ事が出来ない。"この世の心づかい"、"富"、"快楽"が私達を支配してしまう。
「神様に従うよりも、こちらの方が素晴らしい。こちらの祝福の方が良い」
いつもこの様な誘惑の中に置かれている気がします。どちらを選びとっていくかとても大切です。神様の御言葉を選び取る時に、豊かな実を結んでいくのです。そう言うと苦しい事の様に思いますが、御言葉に立つという事は決して私達を不自由にする事ではないのです。もし私達が御言葉に生きる様になっていくならば、御言葉が私達に本当の自由を与えるという事なのです。
「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネ8章31〜32節
神の御言葉を受け取ると何が起きるか。"自由"が与えられるのです。「不自由になる」とは御言葉を自分の上に重石の様に置いて、律法的に自分に当てはめてしまったという事です。御言葉に従うと本来私達は自由になっていくのです。これをしっかりと受け取っていきたいと思います
「しかし良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」15節
その特徴は第1に『正しい、良い心でみことばを聞く』という事です。"正しい良い心"とは何でしょうか?私達の中に、偏見や裁き、敵対心、妬みそういうものがある時にはなかなか御言葉が入って来ません。「主よ、どうぞこれを清めて下さい」と祈っていく事が大切だということですね。正しい、良い心になる時に私達の中に御言葉が住む様になってくるのです。具体的に良い心とは何でしょう。
『・・純真であり、平和、寛容、温順、憐れみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、みせかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和を作る人によって平和のうちに蒔かれます』ヤコブ3章17節
この様な素直さや、真実さや、誠実さや裏表のなさや裏心のないそういう心が良い心だというのです。そういう心で御言葉を聞く事が大切だという事であります。そしてそれをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。"しっかりと守り"というのはしっかりと結びつけるという事です。結び付けなければ神の言葉は私達の力とはならないのです。御言葉を聞き流すのではなく、自分に結びつけるこれが大切です。
力になるまで御言葉を当てはめる作業を是非なさって頂きたい。加えて日毎に御言葉に結び付けていくという作業をしていく必要があると思います。それが本当にクリスチャンが元気になっていく力の源です。神様はその時にそれぞれに力づけ強めて下さる。
私達は日ごとに御言葉の光を頂き、神様の悟りを頂いて歩んでいく者とされていきたいと思います。その時に私達は様々な聖霊の実、優しさの実、人々をイエスに導いていこうとする重荷、熱情などが出て来るのではないかと思います。イエスは『聞く耳のあるものは聞きなさい』このことを何度も話されました。私達も御言葉を聞こう、御言葉に学ぼう、御言葉を自分自身に結びつけようという決意を新たに主の前にしていきたいと思います。