2001年2月18日 日曜礼拝メッセージ
ルカ章8章22〜25節
牧師 吉田耕三
12年前の4月2日、私は初めて仙台の地に向かって来ました。それまで、北といえば日光までしか来た事がありませんでした。車を運転して来ましたら、横風が非常に強かったので、絶えず1、2m横に動かされる様な調子で走って来ました。動かされると自然にハンドルを元に戻そうしますので、車はジグザグに走ります。そうするとますます恐怖心が募って怖い思いをしながら仙台にやって来た事を思い出します。大分長い時間そのような恐怖の中を運転してきた中で、弟子達が船の中で同じ様な体験をしたことが思い出されてきました。それが今日の箇所であります。
困難の中でこそ主を求める
「そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。そこで彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。イエスは。起き上がって、風と波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。」22〜24節
彼等はガリラヤ湖に舟を出しました。ここは地中海から約200mも低い場所にあります。周りに高い山々があり、そこから冷たい風が吹き降ろしてくるのです。一方、湖では暖かくなった空気があり、それが混ざり合って大変な突風が吹き荒れる事がよくあるそうです。山から吹き下ろす風が湖上の船を転覆されてしまうこともあった程です。
今船に乗っている人たちは、ガリラヤ湖の事なら端から端まで知っているはずのプロの漁師達です。その彼等が『先生、私たちはおぼれて死にそうです』と言うのですから、大変な状況であったことが分かります。彼らは大変な恐怖にかられていたのではないかと思います。ところが一方イエスは、船の隅でぐっすりと寝込んでしまっていたのです。
私はここにイエスの姿を麗しく思います。船は翻弄されているのに、ぐっすりと寝込んでしまっている程にイエスも疲れる事があるのです。地上に来られたイエスは、神ではありましたが、私達と同じ肉体を持つ人間でもあったのです。ですから疲れるのです。
「イエスは神だから疲れなくていいよね」
そんな事はないのです。地上におられた時のイエスは私達と同じ様に疲れました。船がどんなに揺れても目覚めない程にぐっすりと寝込んでいました。それほど疲れていたのです。弟子達が一生懸命に「先生、先生!」と起こしましたのでイエスも目を覚ましました。そして風と波を叱りつけられた瞬間から、荒れ狂っていた風がおさまり、波もなぎになったと記されています。特別静かな状態です。彼らはそこに驚くべきイエス様のなさった業を見たのです。
「イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」25節
このような状況の中、怖がるのは当たり前ではないかと思います。ところがイエスは彼らに「あなた方の信仰はどこにあるのです。」と語っているのです。それは「あなた方は、あるべき信仰からはずれています」と語っているのです。今日私達はこの中から、生活の様々な困難の中で、なお持つべき信仰の姿勢を学ばせて頂きたいと思います。
まず第1にイエスが一緒であっても、困難や嵐にあうのだという事です。ある方は「イエスが共にいれば、もう災い、困った事、苦しい事は起きない。全てが守られる」
と思っています。この時イエスも船の中に乗っていました。でも船は翻弄されたのです、いつ転覆するかそんな状態にまでなりました。ともすると私達は、神様が私達から離れてしまったので、こんな苦しい目に会うのだと思っていませんか。しかしイエスがいても困難や苦しみや試練に会う事はあるのです。この事を間違えないで下さい。
神様も時には苦しみを分かっていて、私達がその試練にあうことをゆるす事があるのです。実際に私達は何も試練がないと段々神様から遠ざかっていくと思いませんか?苦しい時には「神様、神様助けて下さい」と一生懸命に祈りますから、神様も非常に身近に感じます。ところが、平安がおとずれますと、「良かったな」と最初は感謝していますが、その内に感謝も忘れ、神様そのものまで遠くなっていく様な事があるのではないでしょうか。ですから、「少し目を覚ましなさい」と神様が私達に試練をお与えになる事がある事を是非覚えておいて下さい。試練は神様があなたから去った証拠でも、あなたを見捨てた証拠でもありません。却ってそこで私達を訓練し養い育てておられる業なのだとという事を覚えて下さい。
さてこの時にイエスはぐっすりと休んでいました。反面弟子達は恐怖の絶頂にいました。どうしてこんなにも違うのでしょうか。それはイエスが全ての事は神の御手の内にあるからと信じていたからです。何があっても心配がない。でも弟子達はその事を信じる事が出来なかった。ですからイエスがこの時に『あなたがたの信仰はどこにあるのです。』と言うのです。こういう状況下でも平安でいられるのが、"本当の信仰"です言うのです。
もし私達がしっかりと神様に信頼するならば、どんな困難にあっても平安に歩む事が出来るのです。言い換えれば私達が神様に信頼出来ないので、私達の心は動揺し恐れ惑ってしまうのです。私達はいついかなる時、どんな状況の中でも、私達を守って支えて下さる方、私達をおおって下さる方として神様を受け止めていくという姿勢が必要ではないかと思います。(詩篇91篇)
全てにおいて主をお迎えする
弟子達はイエスを信じていなかった訳ではありません。主と信じて従って来ました。でも彼等はここで恐れてしまいました。何故でしょうか?それはイエスの支配が風や波にまで及ぶ事を信じていなかったからです。救い主として信じてはいたでしょうが、それ以上の物を支配する事が出来るお方としては信じていなかった。ですから事実目の前で風を静め、波を静めるのを見た彼等は唖然としてしまった訳です。そして『いったいこの方はどういう方なのだろう』と彼等の信仰がもう一度新たにされたと思います。私達も自分で追い出し、否定してしまっている所に神様を迎え入れる事が必要ではないでしょうか。
私達は自分の弱い分野ではなく得意とする分野において神様の力を味わえない事が多いのです。弟子達はガリラヤ湖に関してはプロでした。ですから自分の経験や力以上の領域になると慌てふためくしかなかったのです。神様はしばしば"神様に頼る必要がある"事を私達に教える為に、敢えて困難な状況に導かれ、自分の力の限界を教えられる事があるのです。弱い分野には主を比較的受け入れ易いのですが、「ここは自分だけで大丈夫」と思っている分野に神様を迎え入れるのはなかなか難しい事です。私達は苦手な分野にも、得意な分野もイエスに来て頂く事が大切ではないでしょうか。そうする事によって私達は、もっと神様の恵みや祝福を頂く事が出来るのではないかと思います。
私達はこのような信仰生活に共に歩ませて頂きたいと思います。イエスはこのようにして弟子達の信仰を育ててきました。イエスは彼等を丹念に忍耐して養い育て、臆病な彼等12人を通してついに世界をひっくり返す様な御業がなされていったのです。
神様は今私達がどんな者であっても、そこから変えられていくのだと教えて下さっている様に思うのです。それぞれが今ある所において、自分の弱い部分を主に明渡し、主に来て頂いて安らぎを得る者にされていきたいと思います。神様は既にそれをして下さっています。ただ私達の心が「そこまでは神様の力が働かない」と制限してしまっている。弟子達は、イエスが共におられても"イエスに委ねた信仰"に歩む事が出来ませんでした。
私達は、「主は今ここにおられ、主は働いて下さる。」この事をしっかりと覚えたいと思います。私達はそれぞれ置かれた場所において信仰を働かせましょう。自分で頑張るより"神様が乗り越えさせて下さる"ここに進んでいきましょう。そして困難や試練の中にあってもなお平安に歩んでいくお互いにされていきたいと思います。