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「癒される信仰」

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2001年3月4日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ8章40節—48節より
牧師 吉田耕三

私達のクリスチャン生涯の中には大変豊かな実を結ぶ神様の恵みを味わっていく生涯もありますし、あまりそういうものに触れる事が出来ない、クリスチャン生涯もあるように思います。その秘訣の違いに対する答えの一つが、今日の箇所にある様に思います。私達の持つべき信仰の姿勢をご一緒に教えられていきたいと思います。

長血の女

「ときに、十二年間の間長血をわずらっていた女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、イエスのうしろに近寄って、イエスの着物nふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。」(43節—44節)

12年という年月は決して短くはないですね。“長血”は、婦人科の病気であります。ここには幾つかのハンデがあります。この様な状態の女性をユダヤの法律では“汚れた女”とするんです。ですから社会的にも公の場所に出て行く事が出来ない。或いはその様な人に触れると、触れた人も汚れてしまうとされていたり。宗教的な意味でも差別される立場に置かれていたわけです。マルコ伝に更に詳しくこの場面が描かれています。

「この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」(マルコ5章26節)

ですから彼女は社会的にも経済的にも宗教的にも弱者、非常に苦しい思いを持っていた訳です。その様な状態が12年も続きますと、普通は諦めてしまう事が多いのではないかと思いますがこの女性は違いました。ここもマルコ伝ではこう語られています。

「彼女は、イエスのことを耳にして、群集の中に紛れ込み、後ろからイエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。」(マルコ5章27節—28節)

彼女はただ近づいたのではなく、(イエス様なら必ず治す事が出来る)という信仰を持って近づいたのです。そしてそのふさに触れた時に『たちどころに出血が止まった。』とあります。彼女には癒された事が直ぐに分かったのです。それ程の大いなる力がそこに注がれた事が分かった訳です。(やっぱり来て良かった。イエス様に触れて良かった)と女はほっと喜んだろうと思います。その時突然こう言われます。

「イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか。」と言われた。みな自分ではないといったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。」と言った。」(45節)

女は誰にも分からない様にこっそりと触れたつもりです。ところが、イエス様から『わたしにさわったのはだれですか』と言われた。彼女は大変驚いたと思います。その時群集は「自分ではありません」と言う。それに対して「こんなにも人がひしめき合っているのだから、誰でも触る可能性があるではないですか」とペテロは言ったのです。しかしイエスは

「しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力がでていくのを感じたのだから。」と言われた。」(46節)

確かに沢山の人が触れたら、袖や着物どうしが触れ合ったかもしれない。でもイエス様はそういう事を問題としていなかった。そうではなく「自分(イエス様)から癒しを頂く事が出来る」という信仰を持って触れた者がいる。少しだけ考えると、ここで特にその事を問題にしなくても別に良いではないですかと思いませんか?今までもイエス様は沢山の人を癒したのだから、誰が癒され様ともよいではないですか。でもイエスはずっと見渡したのです。それでこの女性は

「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第を話した。」(47節)

女はイエス様の前に出て来てひれ伏しました。自分の恥ずかしい事は言いたくないですね。本来汚れている者ですから、そこに出る資格もない。そしてそういう自分が人に触れる事も本来はいけないと言われるかもしれない。でも彼女は正直にイエスに話し、同時に今病気が癒されたと言った訳です。さてその時にイエスは何と言ったか。

「そこでイエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」(48節)

「『あなたの信仰があなたを癒したのです』それをしっかりと伝えたかった、そしてあなたが私との深い関係において、この恵みに与った事をはっきりとさせたかったのだ。これからは安心して生きなさい」とこう言って下さったのです。さてこの中で神様は私達に何を語って下さっているのでしょうか。

まず第1には12年間も長血を患っていたという事です。私達も(もうこれはダメなのではないか。どうしようもないのではないか)と思う事柄を持っているのではないでしょうか。自分の性格、或いは悪い習慣や色々な罪です。彼女は12年間です。多くの方は諦めて失望するのではないでしょうか。でもこの女性は(イエス様に触れさえすれば)という希望をその中で持ち続けていたのです。これが素晴らしい所です。諦めてはならない。神様だけには希望があるという事を是非知って頂きたいのです。

「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」(コリントⅡ 4章8節)

色々な苦しみがありますが、絶望することはありません。私達はそこから立ち上がっていく事が出来るのです。私達はイエス・キリストへの希望を見失う事がない様にしていきたい。そしてこの女性は希望を持っていただけではなく、実際の行動に移した。私達は本当に信じるならば、当然その結果としての行動がそこに伴うと思うのです。本当に神様を信頼するならば、そこで委ねる事が出来ますし、そこで平安を持つ事が出来るでしょう。

「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」(ヤコブ1章6節—8節)

私達は(いくら神様だって)という思いがあって、全面的に信頼し委ねていく事が出来ない。その為に私達は結果を見る事が出来ないという事が多いかと思うのです。この女性は(着物の房にさえ触ればきっと治る)と考えていた。私達もこの信仰に立たせて頂きたい。私達に必要な事は不信仰を払拭して頂く。「自分の中の疑いを清めて下さい」と祈っていく事が大切です。それが私達が神様から答えと大きな恵みを頂く事が出来る秘訣であります。私達はもっと大胆に神様を信頼していく恵みに与っていきたいと思います。神様は私達を恵もうとして待っておられますし、その力もお持ちなのですが、私達が信仰を持って受け取ろうとしない結果として、恵みに与る事が出来なくなってしまっている。私達はもう一度“真実に神を求めていく信仰”、“神には出来る”という信仰を持って一つ一つの事に立ち向かっていく事が出来たらと思います。私達が本気になって信じて祈っていくならば、神は応えて下さる。こういう姿勢を真剣に持たせていただいて、その様な神様の恵みに共に与っていく者になりたいと思います。

癒される信仰

ところで、イエス様はなぜ「誰が」を見つけるための追及を何故止めなかったのでしょうか?もしもそれで終わってしまっていたならば、この女性とイエスの関係は、“少し助けてもらった”、“恵みを頂いた”だけの関係でしかなくなってしまうのです。彼女が癒されたのは、イエスに対する信仰ですし、それはこれからも用いられ、生かされるものでもあります。またその様に神様は彼女を変えて下さっているのです。その深い関係、交わりの中でこの事が起きたのだという事を伝える必要があったからだと思います。彼女はこの時イエス様の前にひれ伏しました。本当にイエスを恐れ、主と崇めた事でありましょう。彼女は堂々と人前で信仰を告白する事が出来て、これからの生涯に主と共に歩む事が出来るようになっていったと思うのです。神様はまた私達にもその信仰を自分のものとしなさいと語って下さっている様に思います。

私達も“癒される信仰”主に応えていただける信仰を持って歩んでいきたいと思います。疑う心を神様によって潔めて頂き、主の恵みの道にまっすぐに歩ませて頂きましょう。そしてこの女性の様に信仰旗印を鮮明にさせていただき、イエス様との深い関係に導かれる様に歩んでいきましょう。多くの人がイエス様の傍に来ていたのに、イエス様から力を頂ける信仰を持っていたのは彼女一人だけでした。如何でしょうか?私達もただ傍によるだけの者でしょうか?それとも恵みと力をもらえる信仰を持って近づく者でしょうか?