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「主への賛美」

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2001年3月25日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書エペソ5章17節—21節より
牧師 吉田耕三

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子我等の主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者としにたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン

本日は、“使徒信条”からご一緒に学ばせて頂きたいと思います。使途信条は歴史的に教会が正しく歩む為に告白し続けてきたものです。いつの時代になっても教会の教えが変わったり、曲がったりする事がないように多くの人を通し神様が定めて下さった教えであります。私達は教会がいつでも健全さを失うことがないように、これらのことをしっかり押さえていく必要があると思います。

“使徒信条”の始まりがどの様な状況下で出て来たかと言いますと、初代教会の時代、キリスト教は大変迫害された宗教でした。キリスト教徒であると分かっただけで、大変な危害を加えられる危険性がありました。ですから自分達は“クリスチャンである”という事もなかなか告白出来ませんでした。そんな時に彼等は一つの印を持ちました。「イクスース(ギリシャ語の魚の意味)」といいます。

これはギリシャ語で「イエス・キリスト」、「神の一人子」、「救い主」のそれぞれの言葉の頭文字をとった言葉が「イクスース(魚)」という言葉です。魚を描く事によって、「私はイエスが神の御子救い主である事を信じます」と告白したのです。その様にして使徒信条の基本ようなものが出来た様であります。聖書はこんなに分厚い書物であります。多くの事が記されています。全てを覚えるの大変ですが、少なくともこれだけを覚えておけば聖書の中心的メッセージがしっかりと残っていくという訳で信条が段々と築かれていったのです。私達は色々な時にこの“使徒信条”を心から思い出し告白させて頂ける者にならせて頂きたいと思います。

『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。』

ただ読んでしまうと何も残りません。でも心からその事を考えつつ告白しようとする時に、その思いが感じられる様になります。(この方は全能だ。どんな事でも出来る)という事を朝ごとに夕ごとに覚えておられるでしょうか?私達は(あれは出来ない。これはダメだ)と思い煩いますが、「我等の主は全能だ!」と思う時に、「そうだ主には道がある。」という信仰が開かれてくるのではないでしょうか。そして「この方は天地を造られた大いなるお方だ。」と心からこの事を告白するべきではないかと思います。

『我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。』

あなたはイエスが「主キリストだ。」と告白しておられるでしょうか。これが健全な信仰の土台である訳ですが、私達はどこまで真剣にこの事を考えているかと問われると、はっきりと答えるのが難しくなるかもしれません。ある牧師が教会で「われらの本当の主人」というメッセージをしたのだそうです。内容は「全ての者の本当の持ち主は我々ではなく、主である」というメッセージだったのですが、その時にこのメッセージに応答して多くの人が家やアパートその他の物を捧げてきたそうです。教会では処遇に困った訳です。ある人は、「全部売却して、大きな教会を建てたらどうか」との意見もありましたが、彼等は六ヶ月間祈った結果、捧げられた物の全てをそのまま返すという決断を出したのだそうです。その際に「しかしこれだけは知って下さい。皆さんにそのままお返ししますが、それが主の物である事に変わりはありません。今まではご自分の物として使っていたかもしれませんが、これからは主に捧げたその時から主の物だという事は忘れないで下さい。」その時から一つの事が起こったそうです。誰かがその家に来ると、お客さんがイエス様であるかの様に、その人にしっかりと仕えお世話をする様になっていったのだそうです。私達はどうでしょうか?どこまで本当に「イエスを主」と信じているでしょう?“主”には「これは全てあなたの物です」との意味もあります。そんな思いが私達の内にもありますでしょうか?私達も心からこの告白出来たら幸いだと思います。

『主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり』

『聖霊によりてやどり』とあります。多くの人は「おとめがどうして子供を産むのか。有り得ない事ではないか」と思います。私達は超自然的な神様を信じています。そしてそれが出来る神様を信じているのです。「神様に出来ない事はない」と私達も心から信じて『主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ』と告白していきたいものであります。

次にイエスはこの地上で素晴らしい業を沢山成しました。愛の業、癒しの業、友なき者の友となりました。しかし使徒信条では、イエス・キリストは『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ死にて葬られ、陰府に下り』との告白をします。それはイエスの主なる働きが、“人に捨てられて十字架に付けられる”事であったからです。

中国に遣わされたハドソン・テーラーは、一生懸命に福音を伝えたのですが誰も信じない。ある時に(イエスは神であられたのに、人間の世界に来て下さった。そして十字架にまでかかって下さった。)その事を思った時に、今までの自分の伝道方法が間違っていたと思ったそうです。以前彼は自分が西洋人である事に一つの誇りを持っていました。しかしその時から、中国人の当時の髪型“辮髪(べんぱつ)”にして、中国人と同じ服装にし、中国人の名前を使う様になった。そして福音を伝え始めた時に今まで誰も寄りつかなかった人達が、次々に神様を求めてやってくる様になった。イエス・キリストは自らの神の栄光を捨ててこの世に来て下さった。私達も、いつもここに思いを馳せるべきではないかと思います。その時今度は私達が何を成すべきかということが示されていくのではないかと思います。更に『陰府に下った』とあります。イエス様は苦しみの地にまでも下って下さり、私達を救い出して下さったのであります。

『三日目に死人の内よりよみがえり』

死人が蘇ったのです。そして今は全能なる神の右の座に座しておられる。そして私達の為にとりなして下さっている。イエスが十字架につけられる前に、ペテロはイエスに『主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。ルカ22章33節』と言いましたが、イエスは『サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかしあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。ルカ22章32節』と言いました。ペテロはその後「イエスを知らない」と言い、信仰がなくなるギリギリの所にまで落ち込んでしまった訳ですが、そこからもう一度立ち直り多くの人を励まし慰める器に変えられていったのであります。イエスはその様に今も我等の為にとりなしていて下さっている。その事を思う時にどんなに慰めであり、励ましでありましょうか。あなたの為にイエスは祈っていて下さっているのであります。

『かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを審きたまわん』

地上では良い事をしているのに、報いられない。或いは悪い事をしているのにあまり悪い目を受けない。不公平に見える事がいくらでもあります。でも知って下さい。最終の日に全ては平等になります。全てに正しい審きが成されるからです。私達はこの事を覚えるからこそ、人が見ていようが、人から何と言われようが、真実で忠実な生き方が出来る。私達はいつも主こそが正しい審き主である。その主の前に私達は歩んでいる事を覚えておきましょう。そしてこのお方が罪の救い主となっている事実にしっかりと思いを留めていきたいと思います。

『我は聖霊を信ず。』

あなたは三位一体の神の第三位格としての“聖霊”を信じていますか?あなたに慰めを与え、励ましを与え、導きを与え、力を与え、喜びを与え、多くの事をあなたの内になさる“聖霊”を信じていますか。皆さんがイエス・キリストを主と告白しているのなら、その人の内に既に聖霊様は宿っています。

「ですから、私はあなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」という事はできません。」(コリントⅠ 12章3節)

皆さんが「イエスを主」と信じておられるのならば、あなたの内に既に聖霊は宿っているのです。でも心のドアは開いて迎え入れたとしても、そのまま玄関に立たせっぱなしという人は多くないでしょうか?心の中にお迎えはしてイエスを信じたのですが、他の戸を開ける気配はない。これは「私の世界」自分で自分の人生を握って自分の道を歩もうとして聖霊に明渡そうとはしない姿です。ですから聖霊の語る言葉も慰めも、励ましも喜びも力も何も味わえない。そういうクリスチャンになってはいないでしょうか。私達は全ての部屋のドアを開いてイエスをお迎えしていく事が大切なのです。「もう少し部屋が綺麗になったら、イエス様をお迎えしましょう。」と間違った方法を取っている事が多いのです。まず、神(聖霊)をお迎えする。汚れも醜さも正直に神にお見せする事。「これが私です。なんとかして下さい。」とお願いし、委ねる。神には神のやり方があるのです。

私達にはどうしようもない汚い部屋に聖霊をお迎えする時に、神の力を体験していくのです。その様な方として聖霊をお迎えし、委ねているでしょうか?名前だけ知っているではなく、今そのお方が来ていて下さっているとの告白を毎朝する事が大切ではないでしょうか。その時に「私は私を強くしてくださる方によってどんな事でも出来るのです」と言える様になっていくのではないでしょうか。

「また酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5章18節)

クリスチャンにとって、これはなくてはならないメッセージです。「たまに満たされたらよい」ではありません。御言葉は御霊に満たされ続けなさい。これが聖書の言葉です。御霊に明渡し心から従うという事。クリスチャンは御霊に満たされてこそクリスチャン生活を送る事が出来るのです。御霊に満たされる事をいつも主に求めていきたいものです。

『聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。』

教会というのは多くの弱さを持っています。また過去において間違った事をしてきた事もありました。けれどもなおその弱さの中に神がこれを公同の教会として尊ばれている。なお愛している。なお清め様としている。そうならば私達も尊ぼうとする思いが出てくるのではないでしょうか。神との縦のつながりも大切ですが、信徒同士の横のつながりもまた大切です。私達はイエスを信じ、聖霊を頂いていても罪を犯す者です。弱さを持つ者です。しかしイエスが再び来られるその時に、私達の体は栄光の体に変えられるです。その時には二度と罪を犯すことはありません。神の御心をいつも行う事が出来る。病気になる事も、死ぬ事もない。涙や悲しみもない。物質や時間に制限される事もない。栄光の身体に変えられる。その事を信じて望んでいるでしょうか。永遠の神の祝福の中に生きる事を信じているでしょうか。

神様は分厚い聖書の中で多くの事を語って下さいました。私達はこれらの事柄をいつもいつも新たに思い起こし、告白し主に感謝を捧げていく事が我等の信仰生活にとって大変役にたつのです。ただ単に唱えるのではなくて、全身全霊をもって主に告白する事が大切なのです。その時私達はもっともっと主を喜び感謝を捧げていく者に変えられていく事ができるでしょう。そして私達は主の御心が何であるかを悟り、いつもその中に歩ませて頂く事ができるのです。折角私達が祝福の基として召されているのに、祝福をもたらす管とならず、却って災いをもたらす器になってしまう事がないように、私達はしっかりと主の御旨を覚え、使徒信条を告白し続けたいものです。

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