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「弟子の派遣」

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2001年4月1日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ9章1節—6節より
牧師 吉田耕三

今日から新しい年度に入りました。年度が変わりますと、なにか清々しい感じがあります。気候はまだまだ寒いのですが、土からは新しい芽が出ています。季節の変わり目を感じます。本日のルカの福音書9章は、イエス様の伝道面においても新しい局面をむかえてきます。今まではイエスご自身が語り、ご自身が成した訳ですが、これからは弟子によって御業がなされていくという段階に入っていく事を見る訳です。神様は現在私達が見ている様に、この弟子化により全世界に福音を宣べ伝える御業が成し遂げられてゆくわけです。

イエス様から弟子達へ

「イエスは、十二人を呼び集め、彼らにすべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威をお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」(1節—2節)

イエス様はこれまで、弟子達にご自身を一つの“模範”として見せてきました。しかしこれらかはイエス様自身ではなく、弟子達にそれをさせようとしたのです。イエス様がご自分の力を見せるのではなく、弟子達を通してその業が成され、神の御名が崇められる様になさっていったのです。だからこそ、今こうして全世界に福音が宣べ伝えられ留ようになったのです。弟子が、その弟子が、そのまた弟子が……とどんどん広がっていった時に、『この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終りの時が来ます。マタイ24章14節』と預言されている事が実現していったのです。秘訣は、ご自身ではなく弟子を遣わされたという事であるということを心に留めておきたいと思います。

私達は様々な事情の中でイエス様を信じてまいりました。そして私達は(救われて良かった)と思う訳ですが、神様は私達を救うだけが目的ではなかったのです。一人一人が救われるだけでなく、更にその一人一人が生かされ、用いられるようにと願い、計画されておられる事を知って頂きたいと思います。神様は私達を救っただけでなく、そこに意味と目的を持っておられるのです。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。——主の御告げ。——それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29章11節)

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2章10節)

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15章16節)

あなた方が救われたのは、実はあなた方を通して実が結ばれていく為だというのです。そしてイエスはその初穂として弟子達に力と権威を授けられたのです。ここにおいて、弟子達はすぐにイエスの願っておられる理想的な弟子になったのでしょうか?いいえそうではありません。イエスの受難が近いのに、十二人の中で誰が一番偉いか等と話し合ったりする弟子達ではありました、ところが、このような弱い又種の心を十分理解していない弟子達に悪霊を追い出し、病を治す力と権威を授けられたのです。そしてそれにより神の国の福音を宣べ伝え、病気を治そうとなさったのです。そして同じように、神様は、皆さんにも、とてつもない力が与えられている事をご存知でしょうか?

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。」(コリントⅡ 3章6節—8節)

私達はモーセが果たした務め以上のものを託されているのです。その権威と力がイエス・キリストを信じた私達に備わっている。皆さんの為に、神様の銀行には大変な宝が預金されているのです。私達はそれをイエスの御名によって使う事を許されているのに、それが預金されている事を知らないので殆ど引きおろさない事が多いのです。。私達の内に与えられている資格は大変な資格なのです。もっとこの事を知るべきであります。イエス様は私達一人一人を訓練し、主の働きをする様に計画し、願っておられる。一人一人が成長して小さなキリストになる。これが神の御心です。その為に何が必要でしょうか。

まずは自らが「本当に救われた」事をはっきりと理解する事が大切でしょう。イエスの救いがはっきりと分かり、鮮明になる時に心から喜べるのです。イエスの十字架をしっかりと見上げられる時に、喜んでいられるのです。そしてこのイエスの恵みに、御霊に満たされて歩ませて頂く時に、私達もまたその証人として立っていく事が出来るのです。

神の働きを成す者

第2にイエスは神の福音を伝え、病気を治す力と二つの働きをはっきりと語っています。

「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ5章15節—16節)

あなたは今、力がないと感じているでしょうか。神様は弟子達を遣わされたように、私達も遣わそう、用いようとして下さっている。それを妨げるものが罪であります。私達は主の前にまず自らの中にある罪を告白する。そして清めを受け取り主の御霊に満たされる必要があるのです。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1章8節)

もし私達がこの御霊の注ぎを受け、御霊に満たされていくならば、力がないと感じている私達も、力ある者になる事が出来る。それを求めるならば神様は誰にでもその恵みを下さるのです。第1に大切なのは、私達が罪を告白する事。第2に自らの持てる物全てを主に明け渡す事です。自分の将来、自分の問題、なかなか解決がつかないのは自分の力で解決しようとしているからではないでしょうか?「私の持てる問題を主よあなたにお任せします。私には出来ません」その様にして一つ一つの問題を主に明け渡していく時に、主ご自身が手を下して御業を成して解決して下さるのです。

神様はその様な方法をもって宣教の業をなさろうとしています。それは力ある者や権威ある者ではなく、主の前にへりくだり、弱く愚かな者であることを自覚する者達を通してこの業をなさろうと定められたのです。弱さがある事、自分が汚れた小さな器である事。これは問題ではないのです。イエスは私達を清め造り変える事が出来るのです。問題は「あなたに従います。主に明け渡します。」と心から決断をする事が出来るか否かです。主は従う決断をした者に、実を残して下さるのです。

この朝主に応答して、イエスの働きが12人に広がり更に全世界に広げられていったように、私達も自分自身を主に明け渡すことによって主の働きが更に広げられていく者とさせて頂きましょう。一人一人が主に「この私を、この家で、この職場で、この学び舎で、この近隣の中で用いて下さい」とお捧げしたいとおもいます。神様はその為の備えは既に終わったと言っています。私達に必要なのは、罪を告白し聖めて頂き、自らの持てる物を主に明け渡し、従いますと決断する事だけなのです。

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