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「復活」

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2001年4月15日 イースター礼拝 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ22章1節—8節より
牧師 吉田耕三

私達の人生には嬉しい事だけではなく、悲しい時も苦しい時も事も必ずある事を認めない訳にはいかないように思います。長い人生の中に、何も問題がないと言うことはないのです。しかし聖書は、その様な中に留まり続ける必要はないと語っています。

復活のキリスト

キリスト教会の歴史は“殉教の歴史”と言っても過言ではないでしょう。人々がその苦しみの中でキリストを信じ従い通し、時には殉教にも、なお主を崇めつつ喜びながら召されていく姿に人々は感動し、迫害を覚悟してもイエス・キリストの救いを求める。そんな事があり得たのだと思います。その秘訣が今日学ぼうとしている“復活”にあった事を是非知って頂きたいと思います。

“教会”と聞くと、直ぐに「クリスマス」と思い浮かべる方が多いと思います。しかし、内容を考えるとき、クリスマス以上に力あるのが、“復活”です。今日その秘訣を暫く御一緒に学ばせて頂きたいと思います。イエス様は金曜日の朝の9時に十字架刑に掛けられ、夕方3時に息絶えました。イエス様の体はアリマタヤのヨセフという議員が自分の墓に葬らせました。次の日は安息日でしたので、墓に入れて帰らなければなりませんでした。でも安息日が明けた早朝(日曜日)、女達は重い心を引きずりながら、(身体に香料を塗って差し上げるのだ)と墓に行ったのです。墓の前には大きな石が立てかけられていたので、それを動かしてくれる人はいるだろうかと考えながら行ってみますと、墓石が既に動いていました。墓の中を見ると、そこにイエスの身体はなくなっていたのです。彼女達は(遺体が盗まれた)と思いました。ところがその時、燦燦と輝く光の中に包まれた2人の人物が現れ、

「『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人の手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。』と語られたのです。」(5節—8節)

彼女達はイエスの言葉を全く忘れ去ってしまっていました。彼女達が復活を思う事が出来ない程に十字架の刑は悲惨であったのだと思います。この“復活”は、私達の理解や想像も飛んでしまうような出来事でした。弟子達は何度も何度も“復活”の話を聞いていました。でも(そんな事は有り得ない)と思うと自然に考えから消えて無くなってしまっていたのだと思います。ですからイエスが復活したにも関わらず、彼等は悲しみの中、嘆きの中にあったのです。

今日初めてお話しを聞かれた方は(“復活”とは何か変な事を言い始めたな?)と思うかもしれません。そう思っても仕方のないと思います。理性や考えをあまりにも超越した出来事、普通では全く有り得ない事であります。でも実際にその事が起きたという事を同時に知って頂きたい。何故ならば、もしそれがなければ、今キリスト教なるものは、世界には存在し得ませんし、実際500人以上の人が証人として、生きていたのですから。

人々は「あなた方が十字架につけたイエス・キリストは蘇りました。生き返りました。キリストは今や私達の救い主となったのです」と言って宣べ伝えていったのです。又様々な反対の中で、「私はキリストを信じました。そして、イエス様は私の救い主としてこんな事をして下さいました。」とあかししながら、人々は信仰を守り続けてきたのです。

皆さん今朝、この復活の主の力を味わって味わっておられるでしょうか。私達に必要な事は、この復活の主を本当に自分のものとして結びつけ信じるという信仰です。

「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生れたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生れた者をも愛します。ヨハネⅠ 5章4節—5節 なぜなら、神によって生れた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(ヨハネⅠ 5章1節)

皆さん、もし私達がこのイエスを神の御子として信じるならば、この勝利は私達の内にも与えられるという事なのです。

「そこで。子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人人を解放してくださるためでした。主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。」(ヘブル2章14節—16節)

イエス・キリストは十字架の死によって3つのものを滅ぼしたと語っています。第1は私達の罪をその十字架で赦し滅ぼしました。たとえ私達がどんな罪を持っていたとしても、イエスはその十字架で私達の罪を本当に赦して下さいました。十字架はどんな罪でも本当に赦し、そして赦しの確信と平安を下さるのです。第2に十字架は私達を死の恐怖から解放しました。人は誰でも1度死ななければならない。そして死んだ後はどうなるのか誰も知らないのです。私達は未知の世界に行く事は本当は恐ろしく不安なのです。でもイエス・キリストは、“死んでも死なない命”を与え、“永遠の命”を与えてくださいました。これからは祝福から祝福へと広がり行く“永遠の命”。ですから死の恐れが消え去っていくのも当然です。

第3は、この世では方角とか、姓名判断や運勢とか色々な事を言い、又気にする方がいますが、、そんなものは有りません。あるのは、この世を惑わし支配しようとしている悪霊がいるのです。悪霊は確かにいて、私達に様々な悪しき事をします。しかしその事も既にイエスは十字架で破って下さった。一切の呪いは消え去ったのであります。最早何も恐れる必要はないのです。名前も家風も方角も何も恐れる事はない。全ての悪の業を打ち壊して下さったのです。ですから不安や恐れるものは何も無くなったのです。イエス様は十字架によって本当の勝利を私達に下さったばかりか、どん底の様な状況の中から蘇ったということにより私達にも蘇りの命を与える事が出来るようにして下さったのです。。

「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11章25節—26節)

本当にイエスを信じる事によって、あなたの内には蘇りの命が宿るのです。あなたが神を信頼すればするほど、その神の栄光、神の御力を見る事が出来る様になるのです。神様はこの様な恵みを復活以来、私達一人一人に与えようとして下さっているのです。この神様に心を開き、神様を受け入れ私達もまた同じ様に復活の恵みに与からせて頂きたいと思います。イエス・キリストは昨日も今日も永久までも変わる事はありません。イエスは蘇り40日間人々に現れました。そして皆の見ている中で天に上げられていきました。そして約束が伴いました。

「そして、こう言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1章11節)

この約束、再臨が成就する時に、私達もイエス・キリストと同じ様に、この疲れる身体、病気に成る身体ではなく、栄光の身体に変えられるのです。その期待をしっかりとにぎっていなさいと言われて天に帰られました。

イエスは今も生きておられる。そして求め信じる者に、今も応えて下さる。あなたはこの復活の主に既にお会いしたでしょうか?イエスを救い主として信じるならば、あなたの内にもその御力が与えられのです。あなたの罪が赦され、あなたが(不可能だ。絶望だ)と思っていたそこに神様は道を開いてくださいます。どうぞこの朝、一人一人が「主は生きておられる。私の人生にも、私にも触れて下さった」とそんな恵みに与ってくだされればと願います。

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