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「信仰の真髄」

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2001年4月29日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ9章18節—27節より
牧師 吉田耕三

イエス様が地上で歩まれた生涯の多くの時間が弟子達の為に使われた事をご存知でしょうか?一人でも多くの人に福音を伝える事が大切な役割でありますが、同時にイエスは一人の人が神を知り、神のしもべとなる事を求めておられるのです。今日の箇所には、私達が主の僕としてしっかりと持たせて頂くべき信仰の土台、真髄が記されています。

わたしをだれだといいますか

「さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。「群集はわたしのことをだれだと言っていますか。」彼らは、答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人人は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだといいますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」(18節—20節)

これからイエスは十字架に向かって進んでいこうしています。ですから弟子達が今どの様な信仰を持ち始めているかが関心のある所であったと思います。まずイエスは「人々は何と言いますか?」と聞きます。イエスは地上で不思議な事を、素晴らしい事をしてきました。それを見て人々は、『バプテスマのヨハネ』、『ある者はエリヤだと言い』、『昔の預言者の一人が生き返った』と考えた訳です。

でもイエスは『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ここに一番の関心があるのです。人々が色々な事を言うのは、仕方がない。でも私はあなた方(弟子達)には自分を現してきました。さてあなた方は私を誰だと言うのか?というのです。その時の彼等の答えは、『神のキリストです。』という表現です。“キリスト”とは、もとの言葉では「油注がれた者」という意味です。ユダヤの国では“任職”を受ける時に油を注ぐのです。特に王、預言者、祭司の職に就く時に油を注ぎます。ですから、“キリスト”とは「任職した」という意味があります。当時ユダヤには、“王・預言者・祭司”として全ての任職を受ける者が現れる。

要するに“救い主”が現れると言う考えが定着していました。“キリスト”とは「イエスは“キリスト(救い主)”なり」という意味なのです。人々が「イエスは優しいお方」「良い人だ」と色々な表現をします。でも弟子達にはそこに留まらず、“任職された者”、“神の全ての権威と権限を持った方”、“私達が従うべきお方”という王の王主の主として認識して欲しいと願ったのです。ペテロは、「あなたがその方であると信じます」と言った訳です。イエスはそれに満足した訳です。ところが、イエスは不思議な事を言います。

「するとイエスは、このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた。」(21節)

イエスが「黙っていなさい」というのには、幾つかの理由があったと思います。一つは弟子達がまだイエスに対しての理解を十分にしていなかったことがあると思います。

この話のすぐ後にイエス様が十字架についての話しをしていますが、その時にペテロは『主よ。神の恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』(マタイ16章22節)と言うと、『しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』(マタイ16章23節)と語ったのです。イエスがキリストであると告白は出来ましたが、まだ正しく認識出来ていなかったのです。

もう一つはこの“キリストである”という告白は、人からの強制や、皆がそう言うから自分もそう言うのだというものではなく、自分自身の信仰として告白するべきものであるという事があったからだと思うのです。しかし。不十分とは言いながらも、この信仰告白を答えを聞いたイエスは弟子達に新しいことを話し始められます。

「そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」(22節)

彼等がイエスを“キリスト”と告白したその時から、ご自分が苦しみを受け、十字架に掛からなければならない事を話し始められたのです。“イエスはキリストなり”の信仰がなければ、十字架や蘇りの話しを受けとめられない事をイエスは知っていたからではないかと思います。

わたしについて来たいと思うなら

「イエスはみなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手にいれても、自分自身を失い、損じたら、何の得があるりましょう。」(23節—25節)

次にイエス様ご自身が十字架に掛かるだけではなく、“イエスに従う”弟子達がどういう歩みをすべきかを語り始めます。それは自分を捨て十字架を担って歩む生活です。私達は、多くの場合「自分が助けられる為」や「自分が救われる為」にイエスを信じたのです。イエス様は本当に優しい言葉を沢山語られました。それによって私達が、本当にこの方が信頼出来る。私はこの方に従っていってよいという確信に到る事が出来たわけです。又その為にイエスはご自身を現して下さったという事もできるでしょう。しかし同時に、本当に“主の僕”として歩む為には、『自分を捨て、日々自分の十字架を負い』、イエスについて来るのが本当の道であると教える必要を感じたのだと思います。マタイ7章21節には、「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父がのみこころを行う者がはいるのです。」と言う御言葉があります。

人から“クリスチャン”とみられている人が天の御国に入る訳ではなく、天の父の御心を行う者が入るのだというのです。これは私達の中でイエスをどういう思いで受け入れているか、信じているかを問われていると思います。私達は「イエスを信じた。」でもその信仰がどの様なものであるかもう一度を吟味してみなさいという事なのではないでしょか。神を信じたといっても、自己中心の生き方を平気で続けている事はないでしょうか。私達はそれを捨て、その生き方に死ぬ必要があるのです。イエス様の十字架や、イエス様の愛が分かって来る時に、私達はそれを捨てる力が出てきます。そして、そこから永遠のいのちの泉、力が湧き出てくるのだと聖書は語っています。

神は私達に恵みを下さる方です。“恵み”とは、「資格のない者に与えられるもの」です。しかしそれはイエス様がいのちをかけて与えて下さったものです。それなのに、私達は軽く扱ってしまう事があるように思います。イエス様がどんなに大きな犠牲を払って私達を救って下さったかを知る時に、私達は自ら「この方に従っていこう。イエスにならって主の道、十字架の道に歩んでいこう」という気になるのではないでしょうか。そしてその時から、永遠の命の水が私たちの心から湧き出る様になると伝えて下さったのではないかと思います。

キリストを救い主としてお迎えする

“キリスト”は私達が生涯をかけて従っていくべきお方です。しかし私達はイエスを「利用するだけのもの」にしてはいないでしょうか。イエスはあなたを救い出す為に、永遠の滅びに到る事がない様に、あなたの身代わりとして十字架の苦しみを受けて下さいました。イエスは私達の代わりに罪の借金、代価を払って下さったのです。ということは本来私達は誰のものでしょうか?私達はイエスによって買い取られた者という事に気がつきませんでしょうか。イエスが私達の救い主になってくれたという事は、私達の主であり、本来は私たちの持つ全ての権限の真の所有者なのです。でもイエスは強引にそれを要求は致しません。私達が自らその事に気がついて「私の人生は、あなたのものであったのですね。私の人生をあなたにお捧げします。」と自らの意思で捧げる時を待っておられるのです。

私達が自分のやりたい事、自分の願いではなくて、まず「神様あなたは何を願っておられますか?何をなさろうとしていますか?」神を第一にする事ですね。そして私達は自分のプライドや、ねたみ、嫉妬、憎しみや恨みなど色々なものに日々死んでいく。十字架を担うとは、そういう事です。そして私についてきなさいというのです。

イエスはまず「あなたはわたしをだれだと言いますか」と問うておられます。やさしく愛を注いで下さり、病を癒して下さった、ただ素晴らしいお方なのでしょうか、それとも2000年前にあなたの為に十字架に掛かり、死んでよみがえって下さったあなたの救い主なのでしょうか。もしあなたが救い主と信じておられるのならば、その人の内には既に神の力が働いていると聖書は語っています。(1コリント12:3)

あなたが心の中で「イエスが神であり、私が従うべきお方である」と思うならば、あなたの上に聖霊の力、神の力は働いているのです。イエスは弟子達に敢えて自分がキリストである事を黙っている様に言いました。一人一人が自分の信仰として告白する様になる為です。私達は神様が働いて下さるのでその事が分かるのです。ですから、もしまだよく分からないのであれば、「それが分かる様にして下さい」と祈るだけで十分です。

しかし既に分かっている人は、正しくこの方を“キリスト”として迎えて頂きたいと思います。今まではイエスを奴隷の様に、又便利屋のようにして利用してきたかもしれません。でもこれからは、「従います」という祈りをして頂きたいと思うのです。そして自分の思いを通すのではなく、心から神様に委ねますという祈りをして頂きたいのです。それぞれが一歩前に進み委ねる事を始める時に、今まで知らなかった命の泉が湧き出てくるのを気付かれるでしょう。力強い生き方が可能になっていくのです。もしあなたがイエスは“キリスト”であるという思いが与えられているのであれば、あなたは日々自己に死ぬ事が出来ますし、日々キリストにあって生きる者となっていく事が出来るのです。「どうぞその様にさせて下さい」と祈っていきましょう。その時に、新しい自分が生き始める事に気がつくと思います。最初の段階のちっぽけな恵みで満足するのではなく、この豊かな命にしっかりと生きていく者、深い恵みに生きる者とされていきたいと思います。

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