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「不信仰から信仰へ」

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2001年5月27日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ9章37節—50節より
牧師 吉田耕三

聖書全体を通して私達に語っている真理の一つが“信仰”ではないかと思います。普通、神を喜ばせるのは“良い行いをする”事だと思っている方が多いと思いますが、実は信仰が重要であることをご存知でしょうか?

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であられることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11章6節)

私達は、様々な生活の中で、不信仰になりがちですが、主の喜ばれる信仰者にに変えられていく者とならせて頂きたいものです。その為の具体的な道がこの中に記されています。

主の三つの嘆き

「次の日一行が山から降りて来ると、大ぜいの人の群れがイエスを迎えた。すると群集の中から、ひとりの人が叫んで言った。「先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」(37節—41節)

前回はイエスが祈りの中で姿変わりをされ、神の栄光をペテロ、ヨハネ、ヤコブは垣間見たのでした。しかし山から降りて来た時、一つの問題が起きていました。すなわち、悪霊にとりつかれた人がいましたが、お弟子達には癒されなかったのです。この人は悪霊によって引き起こされたてんかん症状の様であったと思われます。この人が『お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした』の言葉にイエスは反応します。イエスが嘆く事は、数多くはないのですが。イエスはここで具体的に三つの人達の事を嘆いておられると思います。

「さて彼らが、弟子たちのとろこに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。」(マルコ9章14節)

恐らく普段から律法学者達はイエスを責める事を考えていたでしょう。そして弟子達が「『悪霊を追い出す』とか色々と言ったけれども、結局出来ないではないか、力がないではないか」と責めたのでありましょう。弟子達もそれに反論したのかもしれませんね。

私達が不信仰に陥りますと、色々な出来事が出来ないからと言って議論を始めたり、争いを始めたりするのです。『あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと…争ったり戦ったりするのです。あなた方のものにならないのはあなた方が願わないからです。ヤコブ4:2』建設的な議論であれば問題はありません。でも『目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論テモテⅠ1章6節』に入りこんでしまう危険性があるのです。そしてイエスは律法学者達のこの不信仰を嘆いたのではないかと思います。

第2番目の不信仰は、この息子の父親に見られるように思います。

「イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もしおできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものならというのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9章21節—23節)

父親の言葉は『もしおできになるものなら』彼は(神に出来るかどうか分からないけれども)という思いです。本当に信頼しきった祈りではなかったのです。出来るかどうか分からないけれど、(出来ればいいな!)。そういった程度の信仰であります。これを“不信仰”或いは、“信仰が薄い”と言われた訳であります。私達もしばしばこのような信仰になっていることが多いのではないでしょうか。

さて第3番目の不信仰は何か。これがここで言わんとした一番中心的なものだと思いますが、それは弟子達の不信仰であるという事が出来ると思います。

「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もしからし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはないのです。」(マタイ17章19節—20節)

弟子達の信仰が薄い、或いは小さいというのですね。もう直ぐイエスはこの世を去らなければならないのに、未だに弟子達はこんな不信仰な道を歩んでいる。本当に嘆かわしい事であった訳であります。そしてイエスはその後に、

「人々はみな、神のご威光に驚嘆した。イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」(43節—44節)

この事をしっかりと心に覚えておきなさいと不信仰に陥っている弟子達に示唆したのです。

「しかし、弟子たちは、このみことばの意味が理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのです。また彼らは、このみことについてイエスに尋ねるのを恐れた。」(45節)

私達が不信仰に陥りますと同じ事が起こります。御言葉の意味が分からないのです。語られていてもその真髄が届かないのです。全然見当はずれの理解しか出来なくなってしまうのです。

「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかしイエスは、彼らの心の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」」(246節—48節)

不信仰になる時に私達は全く肉的になってしまい、神様の世界とは全く違う、勝つか負けるか。誰が偉いか、自分が上か下か。優劣の世界でしか生きられなくなってしまい、愛の世界、神の世界、真理の世界とは全くかけ離れたものとなってしまう訳であります。それに対してイエスは、支配したり、偉ぶる者ではなく、本当に仕える者、小さくなる者が本当の意味で神の世界で富む者であり、素晴らしい者だという真理を説くのであります。

神の信仰に生きる

今日学ばせて頂きたい事はこの信仰に生きると言うことです。聖書が一貫して語るのは、“信仰”です。『信仰から出ていないことは、みな罪です。ローマ14章23節』と語られている位です。あなたは今本当に信仰に立っていると言えるでしょうか?「神に出来ない事はない、どんな事でも出来る。」この神様への信頼、この信仰に立っているかどうかです。私達は自分の頭で神を小さくしてしまいがちです。「山でも動く」という信仰を私達はいつも持って歩むべきなのです。

しかしながら、現実の私達の生活では不信仰になってしまう事が多いのではないでしょうか。即ち、まず第1に求める信仰がなくなってしまいがちです。律法学者達の様にすぐに議論したり、争いをしてしまい、本当に神に祈り求める事が少なくなってしまうのです。如何でしょうか?私達は神に求めれば良いのに神に求めず、文句をいったり、争ったり、呟いたりしている事が多いのではないでしょうか?大胆に神に求めたら良いのです。でも律法学者達はその様な信仰を持っていませんでした。不信仰だったのです。私達はどんなものでも大胆に求めましょう。「あの事」、「この事」応えられなかった時の事を心配して祈らない方もいるかもしれませんが、そんな心配は無用です。私達は大胆に「神様、下さい」と求めたら良いのです。『求めよ、さらば与えられん』もっと大胆に求めましょう。不信仰を囲って、不信仰を誤魔化す為に求めないという事が私達の内にないようにしたいものです。

2番目は先ほどの父親の姿です。『もしおできになりますなら』私達もこのような信仰になりがちではないでしょうか?この不信仰の故に神様の力や、恵みを受け取る事が少ないのではないでしょうか?私達はいつも「もしおできになるなら…」と考えてしまいます。知って下さい!神にお出来にならない事はないのです。神様が御心でいので、なさらないことは有ります。でも神に出来ない事は何もないのです。私達はこの信仰をしっかりと持っていきたいものです。

そして最後に弟子達の不信仰の姿ですが、私達が日々主と親しい交わりの中に生きていなければ私達は弟子達と同じように不信仰になってしまいます。日々私達が主との生きた交わりをしていく事で、(主には出来る)という信仰に生きていく事が出来るようになっていくのです。でも御言葉から遠ざかり、祈りから遠ざかり、教会から遠ざかっていく時に私達の信仰はどんどん萎えていってしまいます。ですから日々の戦いに勝利して、本当に主との交わり、御言葉を読み、祈りこの戦いに勝利していくものとなっていきたいと思います。その時に私達も力ある主の僕、主の栄光を仰ぎ見る事が出来る者になっていくのです。

神様は私達一人一人の信仰が成長して行くことを願っておられます。あなたはふだんの生活の中で「神には出来る」という信仰を働かせているでしょうか?それともその反対に、祈りもせずに、不平や呟きを言っている事が多いでしょうか?又もし「おできになるのなら」という信仰になっていないでしょうか?神に出来ない事は一つもない。この信仰をしっかりと持たせて頂き、大胆に神に求めていく者、神の栄光を見させて頂く者にならせて頂きたいものです。

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