2001年6月10日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ9章51〜62節より
牧師 吉田耕三
“クリスチャン”という言葉は何時頃から言われる様になったかご存知ですか?じつはこれは結構古く使徒行伝11章の中に既に出てくるのです。
「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(使徒11章26節)
ギリシア語で「クリスティアヌス」。これを英語で“クリスチャン”と言っているのです。意味は“キリストに従う者”です。ですから“クリスチャン”の語には「従う」という意味が含まれていると思います。私達は初め、様々な必要、求めが有りそれを“助けて下さる”から“無代価で与えて下さる”からイエス様を求めたかと思います。でもイエス様はそこに私達を導いただけでなく、もう一歩進んで“弟子として導こう”としておられる事を知って頂きたいと思います。主は私達を弟子として召し遣わそうとしておられるのです。ではどうしたら、そうなっていくにのでしょうか。共に教えられていきたいと思います。
弟子になる為の準備
「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐに向けられ、ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町に入り、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び出して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。」(51〜55節)
彼等はガリラヤからエルサレムに向かう途上にありました。多くのユダヤ人は、ガリラヤとユダ、エルサレムの往来に、わざわざ遠回りをしてサマリヤを通過しないで行くのです。ユダヤ人とサマリヤ人は同じユダヤ系でありながら犬猿の仲だからです。この時イエス様はサマリヤではなくエルサレムに向かっていたので、サマリヤ人はへそを曲げてしまったのです。この時弟子達は『私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』と言うのです。弟子達は病気を癒したりす、ごい事を経験してきましたから、つい高ぶってしまって、自分達にそれが出来ると思ったのでしょうか。旧約の第預言者エリヤがやったように、今度は自分がやろうと思ったのです。(イエス様にこんなひどい事をする彼等にはこうする事が良いのだ。イエス様もきっと喜んでくれるに違いないと思ったのでしょう。)イエス様に「そんなに私を思ってくれるのか」と褒められるかもと思ったかもしれません。しかしイエス様は、それは間違った考え方であると戒められたのです。
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5章43〜44節)
イエス様は『敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい』これが「主の僕の道です」と教えるのです。言葉としては知ってても、(こんな人までですか?)と思う事があるのではないでしょうか。そして正直(それは出来ない)というのが、私達の本音ではないかと思います。では、どうしたらその様になれるか。それはまず第一に「主よ、そんな事は出来ません」と正直に祈る必要があるでしょう。次にもう一つ必要な事として、
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3章13節)
私達は互いに様々な弱さを持っています。だからそれを忍び合う事。赦し合う事。受け入れ合う事が必要なのです。では、どうしたらその様になれるのでしょうか?『主があなたがたを赦してくださったように』これがキーポイントです。もし神様が皆さんのした悪をことごとく指摘されたら、私達は立っていられないのではないでしょうか?神様の基準は、『あなたの隣人をあなたと同じように愛せよ』というものです。この基準で言うなら、私達は常に赦され、憐れまれなければ、生きていく事が出来ない存在です。主は一切を無罪放免、赦して下さったのです。ですから私達も主が私達を赦して下さった様に隣人を赦す事。私達は『互いに』と読むと直ぐに(相手が先に)と思うのです。『互いに』を“自分から”と読み替えて下さったらと思います。自分からまず赦しなさい。受け入れなさい、耐え忍びなさい。そうする時に、相手も(赦してくれて)良き関係が開かれていくのです。
弟子としての道
「さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」(57〜58節)
この弟子は『あなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。』と言うのですね。イエス様は「良く決断した。」と褒めてくれるかと思うと違うのです。狐も鳥も眠る所もないかに見える彼等であっても巣がある。しかし人の子イエス様は枕する所もありませんでした。本当に休む事が出来たのは、あの十字架の上であった。これこそが主の歩まれた道なのです。そして弟子の道はその主に伴う道であります。それは決して簡単な道ではないのです。イエス様はここで私達に弟子としての心構えを教えて下さったのです。私達は最初から「弟子になろう」とイエス様を信じた人は少ないと思います。「助けてもらいたい。励ましてもらいたい。慰めてもらいたい」そんな気持ちでイエス様を信じたのです。しかしここで、イエス様は、本当に祝福された者となる為には、“弟子”となっていく事が必要であり、それには覚悟が必要である事を語っているのです。
「イエスは言われた。「まことにあなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、父、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠の命を受けます。」(マルコ10章29〜30節)
私達が「全てを捧げて主に従います」という決断が出来たなら、その者には神様が百倍の恵み、百倍の祝福を与えると言っておられるのです。それこそがあなたにとって本当の祝福又安全な道なのではないでしょうか。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14章26〜27節)
(助けてくれると言うからイエス様を信じたのに、そんな事まで求めるのはの約束違反だ。)と思う方がいるかもしれません。でも私達が主の祝福に与る者となるには、“弟子”となる必要があるのです。表面的には「あなたに従います」と言った弟子ですが、実際従う時になると、「やめた」と言って離れるかもしれない弱さが彼の中にあったのです。イエス様はもう一度“主の弟子”となる決意を新たにするべきですと言ったのです。私達も最初はそこまでの決意はなかったかもしれません。でもイエス様は、あなた方は救われただけでなく、主の弟子となる中でこそ、神はあなたに本当の祝福を与え様としておられる。だからあなたがたはその為に弟子となりなさいと語っている事を覚えたいのです。「そんな事は出来ない」と言うかもしれません。しかし私達に求めておられのは「弟子にして下さい」と祈っていく事だけなのです。否その前に「主を愛する愛を私に与えて下さい」と祈る事が必要かもしれません。
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(第Iヨハネ5章3節)
もし私達が主を愛する思いになっているならば、主に従う事が重荷ではなく、喜びなのです。主の愛が私の心に満ち溢れる時に私達は自然に主に一切の物を捧げる様になっていくのです。私達の心に神の愛が満ち、神様を愛する愛が私達の中に満ちていく時に、私達は喜んで主に従う者、主にお捧げしていく事が出来る者になっていくのです。
決断の時は今
「イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」(59〜60節)
この箇所は、お父さんの葬儀も出さないで、「福音を伝えなさい」と言っているのでしょうか。そうではありません。この人は今イエス様と共に歩いているます。もしお父さんが瀕死の状態ならば、看病しているはずでしょう。ここで言わんとするのは、「何年か何十年か後に父親が召されて葬儀を終わらせたら、私はあなたに従います。」と言っているのです。10、20、30、40年後かもしれません。私達はあれをやってから、これをやってから。それも聖書か大切にしなさいと言っている親を盾にして言う訳です。
あなたは「今、主よあなたに従います」との決断をしているでしょうか。私達が神様の命令を良心の呵責なく永遠に延ばす方法があります。それは「明日やろう」です。「やらない」のではない。明日やるのです。でも“明日”は永遠にやってきます。だから「明日ではなく今、神に従いなさい。」と語っておられるのです。これが私達に必要な事なのです。その時に本当の意味で主の僕となっていく事が出来るのです。イエス様は私達は多くの実を結ぶ事が出来ると言われました。あなたを通して神様は豊かな実を結ばせることができるのです。救われる人が起こされる事もあるでしょうし、皆さんの内に御霊の実が結ばれるという事もあるでしょう。でもそこに必要なのはあなたが“弟子として歩む”という決断をすることなのです。
私達に必要なのは“主に従う”、“弟子となる”決断。私達を救うだけではなく、本当に豊かな者となる為に弟子となるように召して下さった事を知ることなのです。今まで私達はそこまでの決断がなかったかもしれません。しかし今もう一度新たに「私は弟子として召されているのだ」との確信に導いて下さいと共に祈ろうではありませんか。でもその前にもしかしたら「あなたの愛をもっと分かるようにして下さい」と祈る事がもっと必要かもしれません。神様の愛が分かる時、神様に従っていきたいという気持ちになるのです。そしてそれはまた人に仕え、人に奉仕が出来る力を生み出します。そして、イエス様が命じられたとおり人の罪をも忍耐を持って忍ぶ事が出来る者に変わっていくのです。無理な事ではなく、今あなたが出来る一歩を踏み出して主の道に従っていく者となるために「弟子としての新たなる道に私達も一歩ずつ導いて下さい」と共に祈ろうではありませんか。