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「祈りを教えて下さい」

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2001年7月22日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ11章1〜13節より
牧師 吉田耕三

“祈る”事は皆さんにとって得意な事柄の一つでしょうか?そういう方もいるでしょうが多くの場合は(あー出来ない)と思うのではないでしょうか。弟子達も「自分が祈れない」という戦いを覚えていた様であります。

ジョン・ウエスレーという有名なクリスチャンは主の前に毎朝何時間も祈り、そこから出て来る時に、彼の顔は輝いていたというのです。モーゼが40日間神様と交わった後、彼の肌からは光が出て、ベールを掛けなければ眩しかった程でした。イエス様が主の前に静まり祈った後どんなに清々しく光輝く姿がそこにあったのかと思うのです。それを見て弟子達も「祈りを知りたい」と心から願うようになったのでしょう。

主の祈り

「そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」(2〜4節)

これは“主の祈り”と言われているものです。“主の祈り”は何度学んでも学び足りない程、本当に奥義が記されているように思いますが、今日はさわりだけ、簡単に見ていきたいと思います。まず『父よ。』で始まります。私達は天地万物を造られた大いなるお方であると同時に、本当に優しく包んで守って下さる「お父ちゃん」に祈るのだということを覚えたいと思います。

そして最初の祈りは『御名があがめられますように。』です。私達の祈りの多くは、自己中心な祈りが多いものです。「御名があがめられますように」と祈る事が出来たなら。随分と祈りの内容が引き上げられ、聖められ変えられて行くと思います。これが祈りの基調です。

次には『御国が来ますように』です。御国とは「神のご支配」という意味です。天国=御国と私達は考えてしまいがちですが、神のご支配のある所が神の御国なのです。私達の内にも(神の御心がなりますように)と祈る事が出来るならば、私達の祈りは本当に力強いものになるのではないかと思います。

そしてその様な祈りと同時に『私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。』です。本当に崇高な祈りと共に、非常に身近で現実的な事の為に祈るべきとも教えています。「明日の食事を下さい」と祈るべきなのです。イスラエル人は40年間の荒野生活期間中、毎日マナという特別なパンを頂きました。その様に私達も神様から日毎のパンを頂く。肉体的にも霊的にも、神様から頂く事が大切です。大胆にこの様な事にも祈ってい来たいと思います。

次に『私たちの罪をお赦しください』。私達が神様の前に出る時に、罪を無視して出る事は難しいことです。神様の前に自分自身を見るならば、誰も誇れる者はいないでしょう。「私こそ神の祝福を受けるに相応しい者だ」と言える人は殆どいないのではないでしょうか。「私の罪をお赦し下さい」とその様な祈りが出来る時に同時に『私たちも私たちに負いめのある人たちを赦します。』この祈りが出来るようになるのだと思います。私達はへりくだる祈りが必要なのです。(私は神の前に出る資格もない者)であると感じているのであるならば、皆さんは今神様のすぐ近くにいます。反対に(私は立派なクリスチャンだ)と思っているなら、実は大変神様から離れているのかもしれません。

さらに『私たちを試みに会わせないでください』。私達は正直に“弱い者”と認めてよいのです。私は霊的に調子が良い時には、高慢になり(どんな事でも神様に従っていくのだ)と燃える気持ちで(主よ、どんなご訓練でも受けます。どうぞ私を砕いて下さい)等と祈るのですが、忽ちに御訓練が始まると、「もう止めて下さい。何故こんな事をするのですか?」と「私を砕いて下さい」と祈った事を忘れてしまっていることが良くあります。私達は自分達が“弱い”者であること事を、もっと知っているべきだと思います。そして「この私を救って下さい」と大胆に祈ってよいのです。私達は弱く誘惑を受け易い者です。神様から引き離れ易い者です。ですからどうぞ「そこから救い出して下さい」と是非祈って行きたいと思います。この様な主の祈りを教えた後に続けてイエス様はもう一つの祈りの事を教えます。

あつかましく祈る

「また。イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締りもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』」(5〜7節)

イスラエル付近は気候が暑いですから、時には夜に客人がやって来る事があるそうです。旅人をもてなすのは当然しなければならない事で、それをしないのは、失礼に当たるのです。真夜中ですし、もてなす物も既に無い。それで友達の所にパンを借りにやって来た。友達は何度ノックをしても起きてくれない。それでも叩き続けたのでしょう。中から断りの返事が聞こえました。

(冷たい人だ)と思うかもしれませんが、当時の生活習慣は、多くの家は一部屋しかありません。日中は扉が空いていて出入り自由ですが、一旦戸締りをしたら「邪魔をしないで下さい」という印になるのです。寝る時も地べたの上に藁などを敷いて、家族全員が一緒に眠る事が多いようです。そして時には家畜も中に入れて休むのだそうです。ですから一人が起きると皆を起こす事になる。だから「面倒を掛けないでくれ」ということになるようです。ところが彼は

「あなたがに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしはあなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(8〜9節)

『あくまで頼み続けるなら』

これをどう読みますか?“しつこく求めるなら”と読むのも間違いではありませんが、この事の元来の意味は、注釈の「あつかましさのゆえに」です。夜中に人の家に出向きパンを借りるあつかましさがあるかどうかです。そして「迷惑を掛けないでくれ」と言われても「困っているのだから頼む」と頼み続けるあつかましさがありますか?という事なのです。その様に求めれば、『求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し。たたく者には開かれます。』これが神の原則だと言っているのです。

「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいというときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいというのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(11〜13節)

泳いでいる蛇と魚は一見すると見間違いますね。子供が「魚を下さい」と言うのに、似ているからといって蛇をあげますか?サソリがとぐろをまくと丸くなって、これも卵に似ているのだそうです。似ているからといって危険なサソリを与えますか?いくらあなた方が“悪い者”であっても子供にはそんな事をしないでしょう。ましてあなた方の神様がそんな事をするはずはないでしょう、と言いたいわけです。

あなた方はあつかましく求めたら、(神様は意地悪をするのではないか)(「求め過ぎだ」と怒られるのではないか)色々な躊躇があって、大胆に求められない。あつかましくなれなくなってしまってはいませんか?と言いたいのだと思います。私達はもっと大胆にあつかましく、求めてよいし、求めるべきだと言っているのです。

皆さんの祈りはどうでしょうか?考えてみると結構綺麗ではないでしょうか?もっとあつかましく求めてゆくべきではないでしょうか。私達は神の御旨に従って行くために、祈っていく事を躊躇しないでおきたいと思います。“主の祈り”とは簡単に申せば「主の御旨がなりますように」という祈りです。主の御心がこの地になりますように。この祈りであるならば、どんなに難しいと思っても、あつかましく神様に祈っていって頂きたい思います。その時に神様は確かに私達の内に御業を成して下さるのです。

私達がもっと厚かましく祈る様にとイエス様が教えて下さっているように思います。皆さんのうちに祈りの応えはどれくらい積み重ねられているでしょうか?(本当に主はこの私に応えて下さる。)心からそう言えるクリスチャンにさせて頂きたいと思います。そしてそれぞれの持ち場、立場にあって神様の栄光をあらわすお互いにされていきたいと思います。

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