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「心の目を開いて」

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2001年8月5日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ11章29〜36節より
牧師 吉田耕三

諺の中に「石橋を叩いて渡る」という言葉があります。これは慎重さを表す時に使われます。石で作った頑丈な橋が大丈夫かと叩いて渡る人の事を言います。信仰の世界に入る時には、石橋を叩いてもなお渡らないという事もあるようですが、本日はイエス様が人々に本当に心を素直にして、御言葉に聞くべきことを教えて下さっています。

心を素直に

「さて、群集の数が増えて来ると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なざなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てからきたからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」(29〜32節)

イエス様が旧約聖書に登場してくるヨナ人とソロモンの知恵を聞きに来たシェバの女王の例を用いながら、この時代は人々が神様を信じ様としない悪い時代であると、その愚かさを語っています。ヨナは預言者でした。ニネベの町の人々は悪い事をしていたので、このままであれば「神の裁きが来る」事を預言しなさいと言われたのですが、彼等がその言葉を聞いて悔い改め、神の裁きがニネベに下らなくなくなったら嫌だという勝手な理由でそれに従わず、結局タルシシュ行きの船に乗りこみます。ヨナが船底でぐっすりと眠っている間に、大暴風にさらされます。普段はこの季節に大きな暴風になるはずはないのです。

そこで人々は誰かがとんでもない事をしているから、この被害にあっているのだと考えた。そこでくじを作り引いていった所、最後の一本がヨナにあたりました。人々がヨナに「あなたは何をしたのですか?」尋ねると、ヨナは「神の命令から逃れてタルシシュに向かうのです」と答えます。そこで人々はこの被害にあった事を納得し、天地の創造主の裁きが恐ろしくなった訳です。ヨナもそこまできて覚悟をして、「私を海に投げ込んで下さればきっと、波もおさまるでしょう。」と語ります。

しかし人々はすぐ投げ込むこともできなかったのですが、暴風雨はなかなかおさまらないので、ついにヨナを海に投げ込んだ訳です。その時に大きな魚がヨナを食べてしまった。魚の腹の中でヨナは一生懸命に悔い改めました。3日の後にヨナは魚の腹から出され、陸に戻った。悔い改めた彼は、ニネベに行き神様の福音を宣べ伝えました。結果としてニネベの町の人々は悔い改めました。というよりも、

「彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思いなおし、そうされなかった。」(ヨナ3章10節)

とあります。彼等が努力したのを見て神様は裁きを下すのを思い留められたのです。また神様はヨナ自身を通して神様の業を預言していました。彼は3日3晩魚の腹の中にいました。これは丁度イエス・キリストの死から蘇りまでの日数と同じです。ヨナも同じ様に三日目に蘇った。そしてこのしるし以外はない。彼等が見ようとしなければ、それは分からないといかたったわけです。

もう一つの例えはアラビア半島にある国の事です。シェバの女王が神の言葉、神の知恵を語るソロモンの噂を聞いた。そして彼の知恵を聞きたいと思った。現在の様に交通が発達してはいませんから、大変な犠牲を払って彼女はやって来ました。彼女が自国でソロモンに関して聞いていた噂は、実際のソロモンの姿の半分にも満たないと言っています。

シェバの女王は素直に心を開いてソロモンの言葉を聞き入れました。ですから彼女は本来ならば異邦人でありますが、素直に心を開いた故に、今神の側に立つ者となっている。にも関わらず神の民であるはずのイスラエル人達は、神の言葉を素直に聞かないので裁かれる者となると語っているのです。さらにもう一つの話しが続きます。

健全な目を

「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。からだのあかりはあなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」(33〜36節)

蝋燭を点けてそれを囲ってしまう人はいません。蝋燭は光を放つのですから、燭台か若しくは目立つ所に置きます。それはその光が見える為です。ここで言おうとしている事は『あなたのうちの光が、暗やみにならないように気をつけなさい』です。もし私達がイエス・キリストを信じるならばその人の内には神の光があるのであります。

「イエスはまた彼らの語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8章12節)

イエス様を信じる人の中にはイエス様の光が輝いているのですが、それが輝かせ続けられる様に気をつけなさいと言っているのです。

どの様に気をつけるのか?それは“目”です。目から様々な汚れたものや不純なものが入ってくるのです。目を健全にしていないと、物事を正しく見、判断出来できなくなります。結果としてあなたの光も隠れてしまって、あなたの光もなくなってしまう。そういう生き方でなく、あなたの光が輝く様な生き方をしなさいと言っているのです。この事から何を学ぶ事が出来るでしょうか?

“健全な目”これは英語では、「singleeye」“一つの目”という言葉で訳されています。私達は色々な目、色々な思いで物事を見てしまう事があります。しかし大事なのは“神様だけを見る目”が大切である。色々な目で見たり、色々な事を心配したりする結果、神様を見る事が出来ない。その為に不安や恐れにいつも苛まれてしまう歩みになってしまうかもしれません。

私達は神様の言葉に目を向けて、神様の言葉に留まるならば一歩前に進む事が出来るのです。石橋を叩いても渡らないのは、神の御言葉ではないもの、「あれを。これを」と心配して思い煩ってしまうと、私達は前に進めなくなってしまう。私達は神様の多くの約束に目を向けて、神様に委ね任せる。神様はそこに道を開いて下さる。是非その様にして石橋を叩いても渡らない人種から、信じて委ねて神の恵みを体験していく者にされていきたいと思います。

“目”の他にも私達に神様を見させない様にするものがあります。

「金持ちになりたがりる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの良くとに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根源だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(テモテI 6章9〜10節)

イスカリオテ・ユダは“お金”に騙されて、イエス様を裏切った訳です。私達も十分にこれに気をつける事が必要がありましょう。知らず知らずの内に私達に神を見る事が出来なくさせている1つの大きな原因が富みやお金である事を覚えましょう。それと同時に

「その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、」(テモテI 6章4節)

第2に気を付けなければならないものは“高慢”です。私達は高慢に陥りますと、また神様が見えなくなってしまいます。そしてそこから様々な悪が生じてくるのです。私達はこの事にも十分注意したいと思います。高慢が“悪意”を引き起こし、他人の行動や言動を悪く見させてしまうのです。

「他の人を裁かせようとする悪い力」は常に私達に働きかけてきます。そんな時に、直ぐにイエス様に「清めて下さい」と祈って下さい。祈った瞬間にその思いが消え去ります。ところがこの事に気がつかずに、(そうだ。そうだ)と頷いていますと、その思いが心にぐっと深く入りこんできます。そしてしっかりと根を張り、今度は祈っても簡単には取れなくなってきます。私達はそういった思いをいつもいつも清めて頂く必要があるのです。そして神様を見る目がいつも透き通っているならば、神様の言葉を正しく受け取る事が出来るようになるのです。

悪い心になると、どんなにその人の為を思って成された事であっても、悪くしか見えません。ですからこの汚い目を取り去って頂く必要があるのです。(そのためにこそイエス様は十字架で取り除いて下さったのです。)この恵みをしっかりと受け取ると、神様が見え、神様の御言葉に喜んで従う事が出来るようになるのです。すると私達の内にあるイエス様の光は赤々と燃え始め、人々が私達の内にある光を見て神を見る事が出来るようになるのです。その秘訣は“目”をクリアにする事です。不純なものを一つ一つ取り除いていく事。イエス様の言葉を知り、体験し輝き、人々がそれを見る事によって主の証人になっていく事が出来る。神様だけを見て、神様の言葉に従っていく事が出来ることこそ本当の幸いなのです。

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