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「忌むべきもの」

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2001年8月19日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ11章37〜54節より
牧師 吉田耕三

「木を見て森を見ず」という諺をご存知でしょうか?小さな事にとらわれてしまい、肝心の全体を見る事が出来なくなってしまうという意味です。信仰においても、どうでもよい事や議論でも小さな事だけ議論して、肝心要の部分を忘れてしまう事がしばしばあるかと思います。その様な姿がパリサイ人や律法学者の中にあった訳です。しかしこれは彼等だけではなく私達も持つ弱さではないかと思います。御言葉から私達自身も照らされていきたいと思います。

体裁だけを繕う人々

「イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家にはいって、食卓に着かれた。そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。」(37〜38節)

これはユダヤの習慣で食事をする時には必ずする「清め」についての記事です。卵の殻一杯半の水で手を清めてから食卓につくのが彼等の礼儀、というよりも“律法”と考えていたのです。聖書にはその決まりは書いていません。彼等はそれをする事はユダヤ人ならば、ユダヤ教徒ならば、当然の事であり、しないほうがおかしいと思う訳です。ところがイエス様は食事をする時にそれをしない。彼等は(まさかイエス様がそれをなさらないはずがない)とびっくりした。イエス様にもその驚きが分かったのでしょう。

「すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側は清めるが、その内側は、強奪と邪悪でいっぱいです。愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。」(39〜40節)

彼等は「神の清き民」に相応しく清めの儀式はきちんと行っていました。特にパリサイ人はユダヤ教の信徒運動であり、「自らを神の前に真実に歩もう」とするグループです。彼等は真剣に神の律法を守ろうとしていたのです。ところがその師と崇めようとしていたイエス様が手を洗わない。「手を清めない」出来事の故にそれ以上イエス様を受け止める事が出来なくなってしまったのです。

イエス様は、「あなたがは一生懸命に外側は清めているが、神様は内側も造ったのです。心の内側も清めなければならない事を忘れているのですか?」と問うているのです。彼等は心の中に裁く思い、傲慢な思い、醜い思い、汚い思い、ずるい思い、色々な思いがあるのに、それらには蓋をしてただ外側だけを綺麗にした。それを見てイエス様は心の中も見なさいと語るのです。

「とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。だが忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛とはなおざりにしています。これこそ、実行しなければならない事がらです。ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。」(41〜42節)

神様の戒めは、「神の前に清くなる」事だけではなく、『あなたの隣人を自分と同じ様に愛せよ』これも同じ位重要な戒めとして下さった。ですからもし神の前に清い歩みをしようとするならば、あなたは隣人を本当に犠牲を払って愛するべきだ。あなたの持っているもので隣人を満たすべきだというのです。

神様の戒めの一つに「十分の一の捧げ物」が非常に重要視されいます。神様が私達に全てを与えて下さっている感謝の証として十分の一は神様にお返ししなさいと聖書は語っています。あなたがそれをするならば、神様はあなたを祝福するから試してみなさいと語っています。(マラキ書3章8〜10節)

彼等はきっちりとそれを守ろうとしたのです。ここには、『はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一』と書いてありますが律法の中にはこれらの物まで十分の一収めなさいとは書いていないのです。細かく十分の一を気にして守ってはいる。でももっと大事な事、『公義と神への愛』は守っていない。神様を愛する故に律法を守るのは素晴らしい事ですが、そちらをなおざりにして、律法だけを守っている。「しなければならないから、している」という生き方を彼等はしていた訳です。それに対してイエス様は『忌まわしいものだ。』というのです。

「忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがは、会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。忌まわしいことだ。あなたがたは、人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」(43〜44節)

彼等はいつも人の前に正しい生き方をして「立派な人だ。」「素晴らしい人だ。」「きちんとした人だ」と評価されたいという生き方をしてきました。ですから人々が集まる所では、人から褒められる事を期待する訳です。人の集まる場所では、少しでも上にいたい。人と比べて(自分の方が上だ)という心がいつもあった訳です。ところがイエス様は彼等に対して『人目につかぬ墓のようで』と表現しています。これはどういう意味かと言いますと。

「また、野外で、剣で刺し殺された者や死人や、人の骨や、墓に触れる者はみな、七日間汚れる。」(民数記19章16節)

『墓に触れる者は七日間汚れる』のでユダヤでは、人々が間違って墓を踏まないよう、墓に白色のペンキを塗る。しかしペンキを塗られていない墓を人々が間違えて踏むと、その人は知らない内に汚れてしまう。あなたがたの歩みが知らない内に人々を汚しているという訳です。そういう者になってしまっている。

「すると、ある律法の専門家が、答えていった。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」しかしイエスは言われた。「あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分はその荷物に指一本さわろうとしない。」(45〜46節)

イエス様の批判に律法学者が「少し言いすぎではないですか」と言うとイエス様は彼等律法学者にも「いやあなた方も問題なのだ」と言われる。あなた方は「聖書はこうだ」「神はこうだ」と言うが、どんどんと重い物を肩に担わせるだけで、その事を実際に助けてあげてはいない。彼等は神の教えに勝手に自分達で色々な取り決めを作り、それを守れない人達を責めた。自分達も厳しく律法に従っているがあなた方は人々の苦しみや、痛みをどれだけ分かっているのか?本当にそれを担おうとしているのか?と彼等を責める。今日はここから何を学ばせていただけるでしょうか?

まず自分の内側を清める

第一に“パリサイ人”とは誰の事でしょうか?私達は(こういう人いるかしら)と思ってしまうのですが、

「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正をする者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいていった。『神様さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18章11〜14節)

この箇所を読んだある人が「私達はこの様なパリサイ人でないことを感謝しましょう」と言ったそうです。しかし(自分は人を裁くようなパリサイ人ではない)と既に自分を高くしてしまっている。これが正しくパリサイ人の姿です。私達はパリサイ人、律法学者を“自分である”と読んでいく必要があると思います。イエス様が言われたのは、人からの評価だけを一生懸命に気を使っていても、肝心の心の内側にどれ程気を使っていますか?という事でした。

私達は自分が“頑張っている”と「正しいのだ、間違っていない」と思うのです。頑張っていなくても“罪は罪”なのです。私達は『自分と同じ様に隣人を愛しなさい』もし愛していないならそれは“罪”なのです。或いは意地悪な心、妬み、恨み、嫉妬…色々な汚いものがあるのではないですか?(思ってはいけない)と頑張っているという事は実際は思っているという事です。「私は醜い心をもっている。」といつでも認める事が大切です。それを隠したり、おし留めたりするのではなく、その醜い汚れた心を持っていることを認め、その罪を告白する事です。そうすれば『神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』

神様は「私はあなたのその罪を解決したよ」と言って下さる。そしてイエス様がその為に十字架に掛かり、赦してくれた事を感謝しますと進むべきです。その時にこそ私達は神様の恵みに歩む事が出来る訳のです。パリサイ人は外側を清める事だけに気を取られ、内側を清める事に気を配らなかった。私達は御心を内に向ける者になっていきたいと思います。律法学者は人に重荷を負わせながら自分はその事に平気でいる。私達も人に負わせるだけの人ではなく、自分の内側に目を向けて、それを誤魔化すのでもなく、正直に告白し、イエス様の十字架が罪を赦し、栄光の道へと導いて下さり、作り変えて下さることを受け取っていきましょう。

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