2001年8月26日 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書第I列王記17章1〜16節より
メッセンジャー流山福音自由教会栗原延元牧師
今年も休暇を教会から頂いて仙台の方にやって来ました。当初は別の所に行く予定でしたが、どうしても吉田先生の子供達の引力が強いもので、こちらに来てしまいました。何処かに遊びに行きましょうとなり、台風が去った後の金曜日に、吉田家の子供達と一緒にプールに行く事にしました。プールで遊んだ後、イタリア料理のレストランで昼食をとりました。そこは非常に景色が良く、三方がガラス張りで仙台の町がずっと見渡せる場所でした。そこで「ここに沢山の人が住んで、沢山のお家があるけれども、神様はどうやってここに住んでいる人達を知る事が出来るんだろうね?」と聞きました。そして「神様は天におられるけれども、いつも全ての人を見る事が出来て、例えそこに家があり、屋根があったとしてもその中にいる人達の考えや行いもよく知っておられて、そして特に神様とその心が一つになっている人に神様はお力を現して下さるのです」とお話をした訳です。今日、そのような神様と心が一つになっていたエリヤの事をご一緒に学びたいと思います。
主は生きておられる
「ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」(列王記I17章1節)
この“エリヤ”という人物の家族関係は出てきません。『ギルアデのティシュベの出』であったという事だけが記されています。“エリヤ”という名前は、『主は神である』という意味です。そのエリヤがアハブ王の前に出て『私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。』と言うのです。イスラエルは当時南北に分かれていました。この時はイエス様が来られる900年程前の時代です。アハブは北イスラエルの王でしたから、本来はイスラエルの神を信じ、イスラエルの言葉の人に腰を低くして歩まなければならなかったのですが、彼は「神が立て、神が導き、神が支えておられる所の王である」事を忘れた状態であったのです。いや、意図的にイスラエルの神“主”に背を向け、“主”にしてはならない事を次々続けていったのです。
「彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルの仕え、それを拝んだ。」(列王記I16章31節)
ヤロブアムは北イスラエルを支配しました。支配する中で一番困った事は、神様を礼拝する場所が南イスラエルのユダの地にある。ですから人々がエルサレムへ礼拝を捧げに行き、生贄を捧げる事がずっと続くなら、いつか北イスラエルの民は私(ヤロブアム)を見捨て、南ユダに支配されてしまうであろうと考えた。そこで彼は金の子牛を作り、「金の子牛こそが奴隷状態のイスラエルをエジプトから導きだし、この地に住まわせて下さった主だ。」と言ったのです。それは明らかにモーセによって与えられた“十戒”最初の2つの戒めを破る事でした。これが『ヤロブアムの罪』です。
「あなたがたの主はこの私であるのだから、この私にだけ仕えよ」という神様の戒めです。そのイスラエル国家の根底、土台それ自身をアハブは粉々に打ち砕き、国家存亡の危機に差し掛っていたの。その時にイスラエルの神“主”は、預言者エリヤをアハブ王に遣わしました。『私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる』これをアハブは忘れてしまっていたのです。即ち『主は生きておられる』ということは、アハブのし続ける背信行為の一つ一つを主が覚えておられるという事です。バアル礼拝とはを自然を支配するバアルを神として拝む事ですから、神が造られた被造物を命の源として拝むという事です。そしてその宮も北イスラエルの中に作った。
アシュラ像も作った。アシェラとは、木の柱を立てその木が人間の子孫繁栄のシンボルとして拝んでいた。イスラエル以外の国ならばいざ知らず、神がご自身を現し、ご自身の民として御言葉を与え、御言葉を通して神がどの様な方であるかを教え続け導いてこられたそのイスラエルの中にバアル像とその宮を作り、アシュラ像を立てそれらを拝んでいたという事は、正しく主の目の前に悪に悪を重ねていたという事です。それ故に主はこらえにこらえていた怒りを預言者エリヤを通して現していったという事だと思うのです。「主は生きておられ侮られる方ではない」事をアハブに伝え、彼が身を持って悟り悔い改め主に立ちかえる為に主はエリヤを立て、『私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨が降らないであろう。』この具体的な事象を通してアハブの愚かさ、罪を気が付かせようとさせたのです。
しかしそれと同じ様な事を私達人間は積み重ねてきているのかもしれません。「神なき時代に生きるキリスト者」という本をシェーファーが記しています。私達の周囲にいる人々は、いや私達もかつての自分の姿を振り返って見る時に、神なき世界が当然であるかの様に生きてきて、歩んできたのです。ですからその様な中で私達が恐れるべきは何かというと、まず“神”ではありません。人の眼差しであり、人の評価であり、人の言葉であった訳です。そして特に日本の様に、人間の絆が深く強い中にあっては尚更であります。ですから(人が見ていなければ、自分だけであれば)そういう思いは私達の中にも強いです。本当に気を付けないと、『神が生きておられる』という事が私達の骨の髄までしっかり入っていかないと、私達の内側にある罪と悪への誘惑はとめどめなく私達を滅びへ滅びへと引き込んでいってしまうのです。
日本の国家がもし衰えて、或いは滅びていくとするならば、『主は生きておられる』というこの古今東西の古の昔からの本当の真理を真剣に私達が受け止めて信じて歩んでいないからであり、私達日本の国家は国民からも世界からも信用されていく国には成り得ないと思うのです。国家ということで大きく論じましたが、それは私達の家庭の中でもそうです。家庭の中で親がどのように子供に信仰を伝えていくのか、悩みうめき悶えます。ある方がこう言いました。「親が子供に信仰を伝える最もよい方法は、親が心から、鹿が谷川の水を慕いあえぐように、神様に祈っているかどうか。その姿が見られるかどうかだ」と言うのです。親のいい加減な姿を見てどうして子供が本当に信仰が「人生の中でなくてはならない大切なもの」であると理解出来ようか?親が子供に信仰を伝えるのには、親が乾く様に神に祈り求めているかどうか。そして子供が信仰を持つ時になったら、親には黙って見ていて欲しい。「信じろ」とか「洗礼を受けろ」とか口出しをしてはいけない。私達はつい言ってしまいますが、言いたい事を言わずに我慢しているのが大人だと思うのです。
一握りの粉
「それから、彼に次ぎのような主のことばがあった。「ここを去って、東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」」(列王記I 17章2〜4節)
主が生きておられる事をアハブに伝える為にエリヤが『私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らない』と宣告をします。この夏関東は7、8月殆ど雨が降らず利根川の上流ダムは干上がっていきました。ですから台風11号が来るまでは節水が始まっていました。わずか1ヶ月半だけでも大騒ぎです。これが2年も3年も降らないという事は大変な事です。でも預言者エリヤは敢えてこの宣告をしました。アハブに対して自然の森羅万象の営みはこの“主”の言葉によって営まれている事を伝えようとしているのです。そしてエリヤに対して神は『ケリテ川のほとりに身を隠せ』と続けます。
この預言者エリヤには背信の罪はありませんが、彼は罪なき者でありつつ罪人への裁きを共に苦しむ所に身をおいている。私達もイエス・キリストによって罪が赦され、祝福の中に生かされていますが、なお私達の同胞、私達の周囲には数限りない罪と悪が渦巻いている。それ故に私達も苦しみ悩む時があります。でも私達はその罪人への裁きを私達だけが逃れればよいというのではなくて、それを受け止め、苦しみ、癒すために神によって立たされているのです。この地域に教会が生かされているという事は、この世の人が犯すであろうあらゆる罪やあらゆる悪の様々な現実を受け止め、そして神様は教会を通して神の御救いの業をそこに現わそうとしているのです。それ故に神は町々、村々に教会を築きその地を癒そうとしているお方であると思うのです。
エリヤはケリテ川のほとりに身を隠し、エリヤが必要な時に、必要な物が神の方法であるカラスを通して与えられた。神様は不思議なお方です。でも私達は本当に試みられている時こそ神に従う生き方の基本が築かれるのではないかと思うのです。エリヤにケリテ川に身を隠させたのは、御言葉のみに信頼する器として訓練させるプロセスですね。その神の訓練をエリヤは守り通していった。こういう訓練は私達が信仰に入っていった時に必要ですね。ケリテ川の水は涸れました。
「すると、彼に次ぎのような主のことばがあった。「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」」(列王記I 17章8〜9節)
次ぎに神様はエリヤを一人のやもめによって養わせます。シドンのツァレファテとはアハブ王の娘イゼベルの出身地です。バアル礼拝の総本山です。そこに神様はエリヤを遣わします。そこに行きあなたは養われる。その意味は、真の神に対する信仰は全くなく偶像崇拝が満ちている地域。神の恵みの印が一点もないような町。でも神はそこでも神の僕を生かし支える事が出来るお方だ。ツァレファテのやもめ女は『かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけ』しか持っていませんでした。やもめはこの最後の食事を息子と共に終えた後に死のうとしている望みのない状態です。でも神様は彼女にエリヤを養わせる大切な使命を与えて下さいました。そしてこの女性はエリヤの言葉通りに、まずエリヤの為にパン菓子を作りました。自分達のパン菓子を作り余った物をエリヤに与えたのではありません。彼女はエリヤの言葉通りにした時に、そこに奇跡を見るのです。
彼女はイスラエルの神の事は知識としては以前から知っていたようですが、エリヤの言葉に従った事で神の言葉と直接関わる様になった。神と直接交わり、神の命に直接触れる様になった。それ故に『彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。』本来は一握りの粉、少しの油しかなかった。それを作って後死のうとしていた。しかし彼女は死ななかっただけではなく、彼女の家族も養い生かし支えた。正しく現代の教会のあるべき姿がここに描かれていると思うのです。私達の教会は持てるものでその働きを押し進めようとしているのではないです。百万と言われている仙台の人口から比べるならば私達の100人の群れはほんの一握りです。でも神はツァレファテのやもめ女のような私達ですが、この教会を用いてこの地を救う。それが敢えて選ばれた神の方法だということ。それ故に私達は主を崇め、主を賛美していきたいと思うのです。キリストの教会はキリストを栄光の頭にしているのです。そしてキリストの内に満ち満ちたものが豊かにあふれ出ているのであります。
教会は正しくイエス・キリストの持てるものにより、生かされ養われ支えられる故にキリストの群れ、神の群れなのです。そして主は本当に我等教会を用いこの地を贖い癒そうとしておられる方であることを忘れてはなりません。御言葉に生きること、或いは御言葉に従う事は自らが生きる事であり同時に他者を生かす事でもあるのです。御言葉に従う事はどんな困難や環境にあっても御言葉に従う事こそ平和であり安全なのです。エリヤはその事を証していると思うのです。