2001年9月9日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ12章13〜34節より
牧師 吉田耕三
先週、私達が正しく信仰の生涯を歩むために気を付けつけるべき心の一つが“偽善”であると学びました。今週は“偽善”と同じ様に私達の信仰を台無しにするものとして、“貪欲”と“心配”について学びたいと思います。
貪欲
「群集の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように兄弟に話してください。」と言った。すると主は彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、そのいのちは財産にあるのではないからです。」(13〜15節)
財産の問題には根深いものがあります。「子孫に美田を残さず」と言います。私が生れ育った所も土地を持っている人がおられ、それまでは仲良く暮らしていた家族が、遺産相続をきっかけに裁判沙汰になり、犬猿の仲のように悲しい関係になってしまう事がよくありました。ここでは何があったのか詳しくは書かれていませんが、『遺産を分けるように私の兄弟に話してください。』とイエス様に訴えてきたのです。イエス様は少し冷たい言い方で、『貪欲に注意しなさい』「本当の問題は、あなたの内にある貪欲ではないですか」と指し示しているわけです。そして一つの例えを話します。
「それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(16〜21節)
パーマーと言う方が「あなたがもしお金をしもべとしないなら、お金はあなたの主人となるであろう」と語りました。またソンダースという方は「お金は世界最大の奴隷所有者である」と語ったと言います。
もし私達が“貪欲”をきちんとコントロール出来なければ、私たちは「お金を持っている」と思っていますがそれは勘違いで「お金に所有されている」という事になるのです。“お金”に目が眩む。それはまさに金銭の奴隷です。「世界最大の奴隷所有者」それは“お金”だとも言います。私達はそれ程“お金”に気を付けなければならないのです。
ここで出てくる例えの問題は、たくさんの穀物が出来た時、彼がもっと大きな場所を作りそこに蓄えればよいとだけ考えた事でした。ですからイエス様がここで言っているのは、『「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」』ということでした。
私達は“お金”に対して正しい捉え方をしていく必要があるのです。普通は「人間はお金さえあれば幸せになれる」と思ってしまっています。ところがどれ位あれば人間は幸せになれるのでしょうか?私達はいくらあっても、(あの場合は、この場合は)ときりなく心配が出て来るのです。ですから、問題は私たちの内にある“貪欲”に注意することです。この人はこれで自分の将来は安泰だと思ったかもしれません。しかし神様の声は『愚か者。お前のたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたらおまえが用意いた物は、いったいだれのものになるのか。』でした。私達はこの地上での歩みをどの様にするのかを真剣に考える必要があるのです。ここで『神の前に富まない者はこの通りです。』と言われている様に、この地上でどんなに蓄えてもそれは誰の物になるのかと言えば、最終的には自分の物にはならない事を知っているべきなのです。
「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行いに富、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。」(Iテモテ6章17〜18節)
私達はついつい“富み”を頼りにすしてしまうのですが、それは本当には頼りにはならないのですから、あなたがたはその様な物を頼りにせず、却って神の前に富む生き方を求めていく事が大切ですと教えているのです。
「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(Iテモテ6章7〜10節)
私達も自分の中にある、どん欲、むさぼる心に注意してゆく必要があるのです。それが私達に「神様にある幸いな生き方」を妨げさせているのです。ここで言っているのは具体的にはこの世に執着する心を言っています。私達が“この世の物”に執着し、そればかりに目がとらわれてしまう為に、本当の価値あるものが何であるのか、自分はどう歩むべきであるのかがわからなくなってしまっている。この世の事にとらわれて(もっと、もっと)と思ってしまい、神の前に真剣に正しく歩む生き方を忘れてしまい、私達が召されるその日の用意も何も出来ていない。そんな状態になってしまう事が無いように忠告を与えて下さっているのです。
心配
今までは富める人たちへの注意でしたが、次にはどちらかと言うと貧しい人達への注意です。それは“心配する”という事です。
「それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物より大切であり、からだは着物よりたいせつだからです。」(22〜23節)
次に、財産のない人達が気を付けなければならないのは、“心配(思い煩い)”です。財産があれば“貪欲”になり、無ければ“心配”が出てくるのです。これは不信仰になる時の状態です。神様が守って下さる事をどこか忘れてしまうのです。思い煩いや心配が多くなってきたら、自分が不信仰になってきていると自覚して下さい。そしてこの不信仰から脱出させて頂く事が大切なのです。ではどうしたらこの不信仰から脱出出来るのでしょうか。
それは神様が人間を「神様よりいくらか劣るもの」としてお造りになった。動物と比べるのではなく、神様と比べ得る高価な存在として私達は造られた事を思い起こすことです。そんな素晴らしい者として造られている私たちを「何故ないがしろにする事があるか。もっと信頼しなさい」と言っているのです。神様を信じる人達に神様がどうして良き事をしないであろうか?私達は神様にもっと大胆に信頼していく事が大切だという事です。あなたは自分を造って下さった神様を信じていますか?ならばもっとこの神様に信頼する事が大切ではないでしょうか。
「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」(29〜31節)
「気をもむ」私達はいつもこれをやっていいるのではないでしょうか。?色々な心配があってもまず神様の前に祈って、神様が喜んでくださる事は何か、それをまず第1に求める事が大切なのです。ジョージ・ミラーは「心配の始まりは信仰の終りである。そして真の信仰が始まる時には、心配が終わるのだ」と言いました。「神様が守り、助け、導いて下さる」と信じたなら心配は消えていくのです。。その反対に心配が始まる時には神様への信頼が失われていく。私達はどちらの道を歩んでいるでしょうか?この思い煩いこそ私達が神様にあってスクスクと成長していくことを妨げるのです。
“貪欲”とはこの世の物に心を奪われてその支配下に置かれてしまう心です。自己中心の思いが私達をこの“貪欲”に駆り立たせます。そしてそれは神様に対する思いを消し去らせます。私達が神様に委ねるべき事を心配して、結果として神様への信仰を失い、神の恵みを失う事のないように注意したいと思います。
「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」(32節)
「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」(34節)
もしあなたが喜んで神様を求めていくのならば、喜んで神様はその恵みを、祝福をあなたに与えるというのです。この地上での物は、腐ったり無くなったりしますが、天に積む宝は決して腐ったり無くなったりはしません。そればかりか、あなたの心はこの世に執着する事はない。貪欲に陥る心配はないのです。だからあなたがたは神の国を求める生き方をしなさいという訳です。
私たちも神の国とその義とをまず第一に求め、この恵みの中に歩ませて頂きましょう。この恵みの歩みを妨げるものが“貪欲”であり“心配”です。私達はこれらの事を正直に神様に告白し主の聖めを頂き、本当に主に信頼して歩んでいくお互いになりましょう。その時神様は本当に神の国と必要な物を添えて与えて下さっているのです。