2001年11月4日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ13章31〜35節より
牧師 吉田耕三
聖書にはとても素晴らしい言葉が沢山あります。と同時に所々で(何と言う酷い言葉)と思う個所もあります。今日はそんな言葉の一つをイエス様が語った箇所からです。
神の愛された滅びゆく町—エルサレム
「ちょうどそのとき、何人かのパリサイ人が近寄って来て、イエスに言った。「ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。」イエスは言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目に全うされます。だが、わたしは、きょうもあすも次ぎの日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』」(31〜33節)
一見パリサイ人がイエス様に救いの手を伸べている様にも見えますが、どうやらそうではなく、ヘロデとこのパリサイ人達は行き来があったのではないかと思われます。ヘロデとしてはイエス様にこの場所から出て行って欲しいと思ったのでしょう。イエス様は彼にに対し「きつね」(貪欲とかずる賢い意味で使われている)と言っている。ヘロデは策略を持ってその地位を得た人物であります。イエス様は、ここでただ悪口を言っている訳ではなく、それなりの理由がある事を学び取らなければならないと思います。
13章を通しイエス様が語っておられた事は、「救いの道は限られている。神様の救いの道は無限にある訳ではなく、それはいつしか閉じられる時があるから遅すぎてしまう事がないように気をつけなさい」という事でした。今までは人々に対して語っていましたが、今回は町に対して語りました。“エルサレム”=「神の都」、「シオンの山」など様々な表現がなされています。神様の祝福の町という事が出来ますが、この町が滅びなければならないと語っているのです。
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」(34〜35節)
ここにエルサレムに対する“愛の慟哭”があるのです。本当に嘆きと叫びがある。「エルサレムよ、お前達は滅びてしまう。」何とも言い難い言葉がここに現されています。
「エルサレムに近くなったこと、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やってくる。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」(ルカ19章41〜44節)
これはまさしくイエス様の預言です。紀元70年にエルサレムは本当に滅びてしまうのです。その事をイエス様は涙しながら語っていたのです。“神の都”本来ならば一番神様からの恵みと祝福を受けるはずの都市が、滅ぼされ悲しい目に会い神の恵みから閉ざされた道を歩まなければならないのかとイエス様は嘆いたのです。
しかし聖書の別の預言では「イスラエルの国は世の終りにはもう一度建て直され、イスラエルの民達はイエス様を信じる様になる」とも記されています。今日私達はここから何を学ぶ事が出来るでしょうか。私達はすぐに第三者的に「エルサレムの人々は、なぜ分からず屋で、神の恵みの言葉を聞かなかったのか」と言うかもしれませんが、そのような考え方では、正しく聖書を学ぶことが出来ません。彼らの姿は私達自身の姿でもあると認識してこそ正しく学び土台に立ったと言うことができるのです。
神の呼びかけ
聖書は何千年も前からずっと預言してきました。ですから彼等が心を開いて聞く気がありさえするならば、神様の御業を見る事が出来、経験する事が出来、真にこの方こそ神であると知る事が出来たはずでありますが、彼等はそれを知る事がなかった。なぜなら神様の言葉がすぐそばにありながら彼等はそれを受け入れ、体験する事がなかったのです。それはイエス様が何とかして彼等に神様の福音を伝え、もう一度彼等を立ち直らせようとしたのですが。彼等は聞こうとしなかったからです。その時イエス様はどんな気持ちであったかと思います。実はパウロもローマ書で自分の気持ちを語っている箇所があります。
「私には、大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」(ローマ9章2〜3節)
パウロは異邦人に福音を宣べ伝えました。人々から「ユダヤ人を無視するのか」等と悪口も浴びせられた。でも彼の本当の心は(同胞を思うと自分一人が呪われてでも、何とかして同胞が救われて欲しい)と願うのでした。これはイエス様の救い、すなわちその心の中に神の御霊を頂く事が出来たところから出てくる“愛”です。パウロがこんなに深い事を祈らしめるのであれば、真の救い主であるキリストが神の民であるイスラエルの民を見た時に、どんな苦しい思いを持って見ていた事か想像できます。
イエス様はそれを『わたしは、めんどりがひなをその翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。』と表現しているのであります。私達はもっともっとイエス様の心を知っていく必要があるのではないかと思います。なぜこの恵みにエルサレムにいた人々は与る事が出来なかったのでしょうか?
「さて、祭りの終りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れるようになる。」(ヨハネ7章37〜38節)
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)
イエス様の呼びかけは『渇いているなら』です。しかし「渇いていない人」には何の魅力もなかったのです。「私は疲れていません。」と思っている人には何の意味もない訳です。
エルサレムの人々は神様の前に、自分達の飢え渇きを正直に持ち出す事が出来なかったのか、或いは自分の本当の惨めな姿を認める事が出来なかったのではないでしょうか?だから「私にはそんなものは要らない」とイエス・キリストを受け入れず却って拒絶してしまったのではないかと思うのです。同じ様に私達もしばしば神様の恵みの言葉を無にしてしまっている事はないかと思います。私達は(自分はもう大丈夫)とか(そんなに自分は弱くない。惨めではない)といぶかり折角神様が恵みを注ごうとしている恵みをを無にし、その手を払いのけてしまっているのではないかと思います。
イエス様が、私達の心の傷を癒そうと近づいて来て下さっているのに、「それには触らないで下さい」と拒否して、神様の癒しの業を受ける事が出来なくなっている事はないか?エルサレムの人々の様に、イエス様の手が私達に注がれているのにそれを傲慢な心の故に失ってしまっている事はないか?そう思うのです。しかしイエス様は言いました。『祝福あれ。主の御名によってこられる方に。』私達がこう言えるようになる時に、私達は再びこの主にお会いする事が出来るようになるのです。私達は自分の弱さを認め告白して主の憐れみを乞う時に、主は主の祝福で満たして下さるのです。
あなたはこの滅ぼされなければならないエルサレムの用に、高慢になってはいないでしょうか?それともへりくだって豊かに神の恵みを頂く者にならせて頂いておるでしょうか。?主は『ああ、エルサレム、エルサレム』と叫んだ様にあなたの魂をも憂いておられないでしょうか。それは涙の慟哭をもってあなたを招いておられる神様の御声です。あなたもこの方に心を開き「この私も救って下さい」と正直に神様の御前に出る者となたせて頂きましょう。