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「行く道にふさわしく」

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2001年11月11日 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書箴言22章6節、Iテモテ4章15〜16節より
牧師 吉田耕三

「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」(箴言22章6節)

本日は「子ども祝福式」です。幼い可愛い目をした子供達を前にして、(しっかりとした歩みをしなければ)と親として心を強くされる時でもあります。今日は私達が如何にして子供達に正しく教え導く事が出来るかを聖書の御言葉から学ばせて頂きたいと思います。

まず大人が道を学ぶ—子供を教育する

私達は「教育」と言いますと、知的教育ばかりを考えてしまいがちです。しかし大きく分けて「教育」には少なくとも3つに分けられると思います。一つは人生教育又は霊的教育とでも言いましょうか。「如何に生きるべきか」をしっかりと教えなければ、(一体自分は何の為に生きているのか)この疑問に答える事が出来なくなってしまい、虚しい歩みをする事しか仕方がないでしょう。

もう一つは社会教育又は常識教育とも言えましょうか。それらをわきまえなければ様々な場面でつまはじきにされたり、色々な悲しい思い、苦しい思いをしなければならないでしょう。

そして、3番目に「知的教育」があります。現在の教育の問題点の一つは知的教育偏重があると思います。子供達がこれから大人になっていく上でも「行くべき道を正しく教えていく事」が必要であるのです。それにはまず第一に私達が何を教えるのかに注意しなければなりません。一生懸命に「真面目な正しい子になりなさい」と言いながら、平気で子供の前で誤魔化しや騙しをしているのであるのならどうでしょうか?ある人が「子供は親が願っている様にはなかなか育たない。しかし親がやっている様には育つ」と言いました。顧みますと(確かに)そういうところがあるように思います。子供の行動で目につく所はよく見ますと自分がやってきた事であることが多いのです。自分では隠しているつもりでも、自分のまずい所を見せているのではないでしょうか。そういう訳で私達は正しき事を教えていく為にはまず自分に教える必要があるように思います。

しかし世の中には“子育て”に関しては色々な教えがあります。ある時は「個性を生かす為には、自由が良い」と自由奔放、放任主義にする。ある時は「スパルタ教育」が良いと言われる。するとある時は放任で、ある時はスパルタで。子供自身もどちらが良いのか迷ってしまいます。私達はそういう意味で2000年間変わる事のない育児の教科書としてこの聖書を見る事が大切ではないかと思います。

「教育ママ」という言葉があります。これは英語では「JewishMother」=ユダヤ人の母親と言います。様々な分野で秀でた人達には、ユダヤ人が多いです。アインシュタイン、マルクス、チャップリンもユダヤ人です。私達はついつい他人を見て、「では私もあの人と同じ様にこうしましょう」といって育ててしまう。もしアインシュタインが日本人として育っていたら絶対に出なかったと言われています。アインシュタインは学習障害児でもあったといわれます。でも正しい教育方針の下で、彼の秀でた面が生かされた時に世界的な科学者、今の科学の基礎を築いた人になっていったわけです。ですから私達は正しい意味での聖書的な教育を身につけていく必要があるのではないかと思うのです。

では“聖書的教育”とはどういう事か?それは「人間は放っておいたら悪くなる可能性が高い」という事です。人間の心の中に“良い心”があります。親に喜ばれたい、褒められたいという気持ちもあります。でも同時に“悪い心”もあります。嘘をつく、憎む、騙す。“良い習慣”はなかなか身につかない。でも悪い事は学ばなくてもどんどんと覚えていく。“人を恨む”、“憎み”、“裁き”等は教育など必要なく自然にやってしまうのです。ですから私達は正しく教育されなければ曲がってしまうということを知る必要があります。

問題行動を起こす子供達を調べていきますと訓練に弱いという結果が出ている様です。例えば感情のコントロール。怒り始めると止められない。自分の感情のおもむくままにしか行動出来なくなっている。それを抑えられた経験がないからなのです。或いは欲望のコントロール。我慢するという事を教えられた事がないから、欲しくなれば後先を考えずにそれを手にいれてしまう。或いは人生教育が成されていない。善悪の基準が教えられていない。私達はこういう事に対してきちんとした教えを伝える事が必要です。これから子供達を何もしないで育てるというのでは、あまりにも無責任ではないでしょうか。私達はしっかりと私達自身が子供達の行くべき道をはっきりと指し示す事が出来る者になっていくべきではないでしょうか。

『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば年老いてもそれから離れない。』

確かな人生教育を伝える事が大切です。私達は皆が何らかの形で親の様な立場に立つ事があると思います。既に親になっている人もいますし、まだ子供を持っていない人でも後輩達がいる。私達は彼等の模範になっていく必要があります。「生きる事が素晴らしい事だ」と言える者になっていなければ、彼等に正しい示唆を与える事が出来ない。私達は「この道が確かなものだ」と言う事を掴んでいく事が大切ではないでしょうか?『行く道にふさわしく』それがこの聖書の中に記されている訳です。人間とは何であるか。何故私達が不幸であるのか、どうしたら本当に有意義に生きる事が出来るのか。その一つ一つを御言葉から真剣に学んでそしてそこに従っていく事が大切ではないかと思うのです。

イエス様を求め共に歩む

「これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身にも、教える事にもよく気をつけなさい。あくまでもそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。」(Iテモテ4章15〜16節)

昔流行った言葉に「親父の姿を見れば俺の将来知れたもの」という言葉がありました。悲しいかな私達は「仕方がない」と思ってしまう。(仕方がない)と思ってしまうともう進歩がない。そこに向かってチャレンジしていく力、変えられていこう、整えられていこう。向上しようとする心が必要であると思います。

これらの事に心を砕き、今日よりは明日、明日よりは明後日と前に進む時に一歩づつでも変わっていきます。私達は誰でも欠けだらけの人間、弱い者であると思います。でもそこから私達が日毎に変えられていこうとするなら、又実際に変られていく姿を見るならば(この教えは本物だ。この考えは本物だ)と思えるのではないでしょうか。そして他の人々に希望を与える事が出来るようになり、(本当にこれで良いのだ)という気持ちを与える事が出来るようになるのです。私達はその様に心がけていく事が大切であると思います。

『自分自身にも、教える事にもよく気をつけなさい。あくまでもそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。』

私達が言うだけは言ってもやらなければそれは悪い教えなのです。私達は自分自身が普段どのようにしているかを心に留めていきたいと思います。その事によって私達は自分だけではなく周りの人をも救う事になる。ここまで聞くと(それはそうだけれども、少し重い)と思ってしまうかもしれません。

私達は良き教えを聞いたからといって、それで出来るものではないのです。正しいからといってそれが自分のものになる訳ではないのです。でも、だからイエス様が来てくれたのを忘れないで頂きたい。皆さんが(困った。出来ない。どうしよう)と思った時に直ぐイエス様を思い起こして頂きたいのです。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたがを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章28〜30節)

私達に大切なのは(自分が出来ない。駄目だ)と思うその時にイエス様を求める事なのです。私達は(いい事だから頑張ろう)と肉で歩み始める時に苦しくなるのです。頑張って、頑張ってかなりの所まで頑張れる人もいるでしょう。でも出来なくなるときが来るのです。そこでイエス様は、くびきを負いなさいと言われました。

ここにある“くびき”とは農作業をする時に、家畜の首につける農機具です。このイエス様の“くびき”の片方にはイエス様自身が首を入れて下さっているのです。そしてもう片方に私達自身の首を入れなさい。そうするならばイエス様がそれをさせて下さり、成し遂げさせて下さるのです。私達がどうしようと思う煩う事柄の大半はイエス様が負って下さり、成し遂げて下さるのです。

マーガレット・パワーズの「FootPrint」という詩をご存知でしょうか?苦しみを覚えたある女性が夢を見た。砂浜を2人の足跡がずっと続いていたが、振り返って見るとある場所には1人分だけの足跡しかなかった。「イエス様、あなたは私とずっと共にいて下さると約束をしてくれたではありませんか。何故私から離れてしまわれたのですか?」と聞くとイエス様は「あれは誰の足跡であると思いますか?あれはあなたのものではありません。あなたがあまりにも苦しんでいたので、私があなたを背負い歩いた私の足跡です」と答えた。イエス様が私達のくびきを負って下さるというのはそういう事です。私達は良き親、良き人生の先輩となっていく必要があります。それには皆さんがまず何が人生の意義ある生き方であるのか、(これで良い)という生き方が何であるのかをはっきりと知り、歩む必要があると思います。そしてそれは聖書の中に啓示されていたのです。

孔子は「私は朝に道を聞くならば夜に死んでもいい」と言いました。それに対してイエス様は

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14章6節)

と言いました。孔子は素晴らしい方ですが求道者です。何が本当の道かを探し求めているのです。イエス・キリストは『わたしが道である』と言われました。これはある意味大変傲慢な言葉ですが、これが事実であるならばこれこそ救いの道であるでしょう。イエス・キリストの道にこそ本当の救いがあり、本当の生きる道の土台があることをまず確信して頂きたい。そしてその教えに自らを委ね捧げていっていただきたい。言うだけではなく行いも伴った者になっていかなければならない。私達自身には出来ませんが神様に祈りながら日々主に頼りながら歩む者になっていきたいと思います。そしてその時に私達は子供達に「行くべき道」をはっきりと示す親となっていく、また人生の良き先輩となっていくのではないかと思います。

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