2001年11月18日 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書出エジプト記17章1〜13節より
メッセンジャー仙台福音自由教会高橋勝義執事
神の杖
モーセはエジプト王パロから逃げ、ミデヤンの地に住みました。そこで平穏な生活を過ごしていました。ある時、モーセは神の山で火で燃える柴を見ました。そこで彼は神様と出会いエジプトにいる同胞イスラエル人達を救い出す旨を命じられました。
「主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。」(出エジプト記3章7〜8節)
この命令をモーセは神様から受けます。しかしモーセは素直に従ったかといえばそうではありませんでした。自分の事をイスラエルの民は信じないかもしれない。或いは自分は口下手で思う様に話せないから他の人を遣わして下さいと神様に願う訳です。神様はモーセのこの態度に怒り、あなたの兄アロンをあなたの口の代わりとするし、また成すべき事を神様自身が教える。更にあなたの杖によりしるしを行うと語られました。彼は平穏な生活から一転して神様の命令に従い、イスラエルの指導者となりエジプトに旅立って行きました。
モーセの手には“杖”が握られていました。その杖は羊を飼うのに使用していたもので、何の変哲もない何処にでもある杖でした。羊を飼う時に使っていたこの杖が、“神の杖”となったと記されています。この杖により神様の御業が行われた。イスラエル人にとっては神様の御業と憐れみを知る事が出来た杖となりました。しかしエジプト人にとっては災いを運んできた不吉な杖であったのです。神の杖により一方には解放と喜び、もう一方は屈辱と敗北を味わったのです。
歓喜の渦に囲まれながら神様に守られて約束の地へ進み始めて行ったその時に、目の前を紅海に阻まれ前に進む事が出来なくなりました。後ろを見るとエジプト人達が軍を引き連れ押し迫って来る。困難の中で今後の自分達はどうなるのであろうという叫び。その時に“神の杖”が海の上に差し伸ばされ紅海が二つに分かれた。イスラエル人達は紅海の底を歩いて渡りました。神様の御業と素晴らしさを味わい知った訳です。
この素晴らしい経験を味わった彼等は(この神の杖が自分達にあるならば、何の恐れもない)と意気揚々と約束の地に向かって歩み始めたと誰もが思うのではないでしょうか。ところが喉の渇き、空腹。これにはイスラエル人も勝てなかったのです。神の杖を通して行われた様々な神様の御業を忘れてしまい呟き不平不満をぶつけたのです。
「それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセと彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」(2〜4節)
モーセは身の危険を感じたので彼は今度は神様に訴えた。そこで神様はモーセに具体的な指示を与えました。
「さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。」(6節)
ここでも神の杖により水を得る事が出来、イスラエル人はその飢えをしのぐ事が出来た訳です。その後エジプトを出てからイスラエル人は初めての戦いをする事になりました。
「さてアマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。」(8節)
「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろしているときは、アマレクが優勢になった。」(11節)
アマレク人はヤコブの兄弟エサウの子孫であります。エサウとヤコブに関する聖書の預言は『兄が弟に仕える。創世記25章23節』でした。今ここに預言通りの事が起こった訳です。モーセは神の杖を持ち、イスラエル人によく見える丘の上に両手を上げイスラエルの勝利を神様に祈りました。イスラエル人は神の杖により岩から水が出てくるという奇蹟を体験したばかりなので、素直にモーセの命令に聞き従ったのです。
イスラエル人にとっては初めての戦いですので、全く不安が無かった訳ではないと思うのです。彼等は戦争をした経験は全くありません。その為の訓練も受けていないし、武器らしい武器も持ってはいなかったでしょう。その彼等が戦うのですから戦い慣れているアマレク人達が有利になるのは目に見えて明らかです。ですから戦いの状況が不利になれば直ぐに不平不満を噴出し崩れてしまうのがイスラエルではないでしょうか?「水がない。食べ物がない」と言って騒いでいた彼等です。そんな時ヨシュアはモーセの手にする“神の杖”を仰ぎ見るように導いたのではないでしょうか?
「モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び・・」(15節)
『アドナイ・ニシ』=主は私の旗という意味です。神の杖は彼等にとって旗となったという事です。では神の杖はイスラエルにとってどの様な意味があったのでしょうか?
まず第1にはこの神の杖を通して神様の愛を知った事です。イスラエル人はエジプトで奴隷の生活を送っていましたが神様は必ず助けて下さると信じておりました。しかしいっこうにその兆しが見えない。一生懸命に待ち望むのですが、どんどんと時が過ぎてもその様子は見当たらない。神様は自分達の事を忘れられてしまったのであろうか?或いは約束は必ず成し遂げられるのであろうか?心が不安になり、信じてはいても半信半疑の中にあったような気がします。そんな時に神様はモーセを遣わし、神の杖で様々な奇蹟を行いました。その事を通して確かにイスラエル人は神様が自分達の事を忘れてはおられず顧みて下さった現実を見た時に、神様の愛を知ったでしょう。
2番目には救いを体験しました。彼等は奴隷でした。今までは鎖と鞭に繋がれていました。それが自由の身になった。喜びに包まれ、自由の身になった事を噛み締めエジプトの地を後にした。彼等は神の杖により自由を手に入れました。
3番目に神様が全知全能の方である事を知りました。彼等は先祖達により伝えられた神様を知っていましたし、信じていました。しかし今神の杖により神様の力ある業を次々に目の前で見たのです。ですから知識としての神ではなく、この自然を治めまた力ある業を行われる全知全能の神様を彼等は体験したのです。
神の杖を通して神の愛、神の救い、神の力をイスラエル人は知る事が出来、神様はその愛と力と救いを現して下さいました。だからヨシュアは天に高く上げられている神の杖を仰ぎ見る様にイスラエル人を導いたのではないでしょうか。なぜならその杖こそが神の愛、神の救い、神の力を思い起こさせ、そして信仰によって戦わせようとしたからです。軍隊としてみるならば当然アマレク人の方が強い訳です。ヨシュアは自分達にいる神様はそれをも遥かに超えたお方である事を思い起こさせる事により彼等を戦わせ様としたのであります。モーセは神に祈り、イスラエル人は神の杖を仰ぎ見ながら信仰の力によりアマレクを打ち破り勝利を得ました。戦争をした経験も、訓練も受けておらず、武器も持たない彼等が精錬された軍隊に打ち勝った。正に神様の成せる業であり、また信仰の力ではないでしょうか。
さて私達にとっての“アドナイ・ニシ”信仰の旗は一体何でありましょうか?私達にとっての“アドナイ・ニシ”それは“十字架”ではないでしょうか?十字架を通して私達は神様の愛が現わされている事を知ります。私達は神様から離れ自分勝手な歩みをする事になり、心がいつも悪に傾いている現実を知っています。そして聖書はその行く先は滅びであると語っています。ところが神様は「あなた」の事がとても気になっているのです。心配で心配で仕方がないのです。そのまま放っておく事が出来なくて、あなたが滅びの道に向かっていく事がないようにと救いの手を差し伸べられたのです。「あなた」が再び神と共に歩めるようにとイエス・キリストがあなたの罪を背負い十字架の上で捧げられた命により神の愛を知る事が出来たのであります。だから十字架は神様の愛が現われているという事が出来る訳です。
2番目にはこの十字架を通して救いを自分のものとする事が出来るようになった。私達は罪の奴隷であり、サタンの支配の中にいました。十字架によりあなたの罪が贖われ、罪から解放され、罪から救い出され、サタンの支配から神様の支配へと移されるようになったのです。ですから十字架は自分の罪の為にキリストが死んで下さった事を信じる時に、救いを自分のものとする事が出来、本当の自分を満喫できる歩みが可能になったという事なのです。
3番目には十字架を通して確かに神様が全知全能の方である事を知る事が出来きた。イエス様はさまざまなしるしを行いました。それはご自分が神から遣わされた“メシヤ”である事を示す為でした。十字架の上で確かにイエス様は死なれました。死んでそのままで終わったのではなく、死人が死んで蘇るという理性では考えられない業を行われたのです。この“復活”を通して救いの業を完成させて下さいました。それと同時に私達が蘇る事をも示して下さったのです。私達はこの出来事により全知全能の神様を知る事が出来ますしまた知らされたと言える訳です。
この様に神様は“神の杖”を通して、イスラエル人に神の愛、神の救い、神の力を現し、“十字架”により全ての人に神の愛と神の救いと神の力を知らせまた現して下さっています。十字架は“アドナイ・ニシ”あなたの旗でもあるのです。その旗である十字架を日々掲げて共に歩んでいきたいと思います。