2001年12月2日(待降節第1週) 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ピリピ2章6〜11節より
牧師 吉田耕三
今日から「アドベント(待降節)」主を待ち望む季節となりました。1週づつ蝋燭を灯しながら私達の内に与えられた永遠の灯火をしっかりと受け取っていきたいと思います。また私達がクリスマスの意義を深く教えられていく事によりその喜びと希望を持つ者にならせて頂きたいと思います。そしてクリスマスを心から喜び迎え、(一人でも多くの人がこの恵みを知って欲しい)と導かれる者になっていきたいと思います。今日は「神が人となられた」事の意義を考えてみたいと思います。
神が人となられた
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることが出来ないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてがひざをかがめ、すべての口が「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(6〜11節)
「イエス・キリストは2000年前に生れたのだ。仏教はその約500年前からあるのだから、仏教の方が古く深い」と言う方がいます。でもイエス・キリストは2000年前に登場したのではなく、イエス・キリストはこの地上の基の置かれる前からこの地に存在していた。その創造に携わっておられたのです。
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1章15〜17節)
天地創造の始めからイエス・キリストはおられた。そこに携わり成し遂げられたのはイエス・キリストであったのです。人間となって来て下さったのが2000年前であるのです。キリストは全ての権威と力が有り何でも出来たのにその全ての栄光をを捨て去り、助けてもらわなければ何も出来ない赤子となってこの地に来て下さった。それは私達の全ての弱さを知り、私達の救いとなる為であった。私達はこの事をもっと深く受け取る事が大切ではないかと思うのです。
私達が一番嫌う事の一つがプライドを汚される事ではないでしょうか?「虎は死して皮を残す。人は死して名を残す」とも言います。ですからプライドの為には命さえ捨てる事さえあるのです。でもイエス様はそのプライドを捨てきって下さった。それは他でもなく私達を救う為、私達を永遠の神の僕とする為であったのです。
「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司となられたのです。」(ヘブル5章8〜10節)
イエス様は多くの苦しみを受け、彼に従う者達に永遠の救いを成して下さったのです。“へりくだる”事は難しい事です。自分が嘲られたり、馬鹿にされたり、醜く弱い者であると見られる事は恥ずかしく仕方がないと思うものです。イエス様は神ご自身であられるのに、人々からその様に見られたのです。十字架に掛けられていた時にも、
「キリスト、ユダヤ人の王さま。たった今十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」(マルコ15章32節)
と蔑まれ、鞭打たれ、唾をかけられ、平手で頬を打たれ、除け者にされ馬鹿にされました。でも彼は黙々と歩み続けたのです。キリストは十字架の上で
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」(ルカ23章34節)
と理解しない人を責めるのではなく却ってその人達の為に赦しを願ったのです。その赦しの中に神様は私達への愛を現して下さっているのです。イエス・キリストが十字架に掛かり受肉されたのは、“あなたを愛している”からです。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Iヨハネ4章10節)
十字架こそが“神様の愛”であります。でも“愛”は私達が受け取るか受け取らないかにより変わってしまうのです。私達が“愛”を受け取る時に、それは私達の力となっていく事が出来るのです。神様があなたを愛された事を、信じて受け取っているか否かを自分自身に問いかけて頂きたい。もしこの地上にあなたしかいなかったとしたら、あなたの為にイエス様はこの地上に来てくれるでしょうか、もし来てくれるとすれば、確かに、(この私を本当に神様は愛してくれているのだ)と知る事が出来るでしょう。その時にあなたの内に新しい力、喜び、希望がわき上がってくるのであります。
神が来られたのは
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだ。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼への打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ53章4〜6節)
イエス・キリストがこの世に来てくれた第一の意味は、あなたを癒す為、あなたに平安をもたらす為に神様は来て下さったのです。もしあなたがこの受肉を受け取るのであれば、あなたの中にも平安が訪れ、心の傷も癒されていくのです。イエス様はその為に来てくださったのだからです。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4章15〜16節)
第二の理由は私達の弱さを本当に理解する為です。私達は同じ苦しみを通らないと中々その人の立場を理解する事が出来ません。地上におられた時のイエス様は完全な“人間”となって下さったのです。疲れる事もあります、お腹も空きます。人に裏切られる事、馬鹿にされる事もありました。ですから私達の弱さを全部分かって下さるのです。イエス様が私達と同じく弱い存在となって下さったからです。
地上でイエス様が行って下さった多くの奇蹟は、聖霊の力によるものです。人間の力ではなく、神から頂く神の霊=聖霊の力でその事を行っていった。これは第三の事に繋がる事ですが、イエス様はそういう意味で私達の模範になるのです。イエス様と私達では違いすぎると思うかもしれませんが、弱さを持った私達のモデルになるのです。なぜならそれらは御霊によってなさったからです。今やイエス・キリストを信じる者にはイエス様の内に宿ってくださったのと同じ御霊が宿ってくださるのです。その聖霊の力により本当に不可能も可能にされていくのです。
「まことにまことにあなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14章12節)
しかし残念ながら私達の心は神様となかなか一つにならない為にその力は十分に現れていません。もし私達の心が本当に主と一つにされたならば、自我が砕かれ、肉が砕かれ、罪が清められ、神様は私達を通して驚くような御業をなさる事ができるのです。そして私達はイエス様を見る事により、私達がどのように歩いて行けばよいのか示唆が与えられているのです。
私達も(何故こんな苦しみがやってくるのだろう?)と思う時があるのではないでしょうか。イエス様は神の御子ですから、苦しみを受ける必要がないのに、その受けた苦しみにより従順を学びそれにより完全な者とされたと記されています。イエス様にこんな訓練が必要であったなら、どうして私達に訓練が必要ないと言えるのでしょうか?
「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」(ヘブル12章5〜7節)
私達がイエス様を見上げる時に、様々な困難や苦しみの中にあっても立ち上がる事が出来るのです。(イエス様は何故こんな苦しみにあわれたのであろう)と思えるならば、(私も当然この訓練を通して清められ、引き上げられていくのだ)と思いなおすことが出来るのではないでしょうか。
神様はあなたを本当に愛しておられます。だからイエス・キリストはこの地に下ってくださった。この事を深く知り受け取る時に、私達には喜びと希望が出てきます。そしてイエス様が歩まれた道を見てこの愛をしっかりと受け取っていく時に、私達もこの神様に従い力ある歩みする事が出来るのです。皆さんが今試練の中にあってもイエス様を見上げましょう(今私は訓練を受けているのだ。引き上げられようとしているのだ)と励まされるのでないでしょうか?このクリスマスに主の愛の大きさ、広さ、深さをもっと知らされ、またこの地に来て下さったのがどんな犠牲の上に成された事かを知らされていきたいものです。そして喜びを持って迎えるクリスマスとさせて頂きましょう。