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「救いの道」

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2001年12月9日(待降節第2週) 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヘブル10章19〜25節より
牧師 吉田耕三

今日は4名の方が洗礼を受けられます。信じる人を毎年神様が起こして下さいますと、これがごく当然の事であると思うようになってしまうかもしれません。しかしこの事は決してそうではないのです。心から(そうなのだ)と納得して信じる事が出来るのは聖霊なる神様の働きであり、本来は奇蹟であるのです。

「十字架のことばは、亡びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Iコリント1章18節)

聖書の話しをし始めますと、ある所までは「なるほど」と聞いてくれるのですが、特にイエス・キリストが十字架に掛かったとか、或いはその死を打ち破り復活しよみがえったと言われますと、「そんな話しは後にしましょう」という事になってしまう事が多いのです。。しかしこれはある意味で当然のことなのです。なぜなら本当に信じる事が出来たのは神様の御業であるからです。そしてまさに信じた時から私達は本当に変えられていくのです。今日は、私達がそのような恵みに与るために、イエス・キリストがなさった業がどんなにすごい事であるのか。そして救いの道がどの様にして成されたのかをお話したいと思います。

ほふられた子羊—イエス・キリスト

「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法を思い出すことはしない。」これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。」(ヘブル10章17〜18節)

旧約の時代には神様を信じる人々は毎日毎日神殿にいけにえを捧げました。特に罪を犯した時には、いけにえ(羊や子牛)の上に手を置き、「私はこういう罪を犯しました」と告白し祈るのです。その結果、いけにえにその人の罪が移ったと見なされ、いけにえをほふるのです。目の前で生き物が殺される時、彼らに罪がどんなに恐ろしいものであるか、そのままにして放っておいてよいものではない事をはっきりと示す為であったのです。そしてその惨たらしい刑罰が彼等に(罪から離れよう)との思いを起こさせたのです。それで彼等は毎日毎日その様にいけにえを捧げていました。

しかし『これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや不用です。』とある様にイエス・キリストが十字架に掛けられたその時から、贖いのいけにえは神を信じる者達には必要がなくなったのです。以前は罪を犯す度毎に悔い改めをして、手を置き、告白してほふっていたのです。

それ以外に、年に一度「大贖罪の日」として7月1日特別に大祭司が完全な罪の赦しを再確認する事をしていました。それまでも罪を犯しその度に悔い改めをしていましたが、それが完全ではないので、完全にする為に「大贖罪日」を設けていたのです。これには、後の日に完全な罪の赦しがある事を示す意味があったようです。その様にしなければ罪が赦されている事が明確に思えないという面があったのだと思います。

でもイエス・キリストが十字架に掛かったその時からその様ないけにえは不必要になったのです。何故ならイエス・キリストにより、二度といけにえを捧げる必要のない完全ないけにえがなされたからです。それが私達の罪の身代わりとし死んで下さったイエス・キリストの十字架であり、それによって私達の罪が完全に解決した、勝利した事を現しているのです。

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(19〜20節)

私達はこのイエス様の十字架を通して誰もが神様に大胆に近づく事が出来るのです。でもこの事を受け取らないと、「私はまだ一生懸命ではないから」「いい加減だから」と色々な理由をつけて神様の前から、自分を遠ざけてしまうのです。しかし、聖書は、あなたが神のみもとに近づく事が出来る道を、イエス・キリストが備えて下ったと語っているのです。もう少し詳しく説明しますと、当時イスラエルの神殿内にはいけにえや贖いなど祭司が色々儀式を行う場所がありました。そこは「聖所」と「至聖所」と二つに区切られており、その区切りには上から下まで大きな幕が下がっていました。イエス様が十字架に掛かった時に、この場所に驚くべき事が起きました。

「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。」(ルカ23節44〜45節)

この大きな幕が真二つに引き裂かれた。一体これは何を意味しているのでしょう。通常祭司達は「聖所」に入る事は許されたのですが、「至聖所」に入る事は許されていなかった。しかし例外が先程言いました「大贖罪の日」だけは、祭司の最高責任者大祭司が至聖所に入り特別な赦しの贖いをしました。その誰も入れない場所が、イエス様が十字架に掛かり、いよいよ死ぬその時に、幕が裂けた。これは誰も入れなかった「至聖所」に誰もが行ける様になった。この十字架により、神を信ずる私達(万民祭司とも言われます)が神様に近づく道が開かれた事を奇蹟をもって私達に見せて下さったのです。私達が神様に近づく事が出来、親しい交わりを持つ事が出来る事を可能にして下さったのです。

元々人間は神様と生きる様に造られていたのです。ですから神様にあって私達は平安や喜び、希望、力や命を持つ事が出来た。ところが人間自らその道を捨ててしまい、さ迷い汚れた罪を犯し続ける者となってしまったのです。でも神様はイエス・キリストの十字架により、神の元にもう一度完全に立ち返る道を備えて下さったのです。

私達の偉大な祭司

「また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。」(21節)

これもまたイエス様の事です。祭司とは「神と人間をとりなす者」です。私達を神様の元に導いて下さる方です。ペテロが犯した失敗を覚えていますか?

「そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」(ルカ12章8〜9節)

厳しいですね。ペテロは完全にこの罪を犯しています。彼は人々が怖くなり『しかし彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。と言った。」マルコ14章71節』とまで言ってしまいました。でもこの為に祭司であるイエス様は『しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。ルカ22章32節』これが祭司イエス様のして下さった事です。私達は弱く正直神様に従い続けていく事が出来ないかもしれない。神様が忌み嫌う事をやってしまうかもしれない。でもその為にイエス様がとりなして下さる。この方が私達の祭司であるのだから、安心して神様に近づきなさいと言って下さっているのです。

「そのようなわけで、私たちは、心の血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(22節)

「邪悪な良心」とは私達が生れながらに持っている良心の事を言っているのです。実はこれは「邪悪」だと言っているのです。普段は「良心」と言われていますが、いざという時にこの良心は神様の御言葉を妨げたり退けたりするのです。具体的にはこの邪悪な良心が私達を神様に対して「お前のような者が、神に対して近づけるはずなどないではないか。お前のような者が恵みに与れるはずなどないではないか。お前のようないい加減な者が神の祝福に与れるものか」と囁き掛け、騙されてしまうのです。こうなると元気がなくなってきます。そんな騙しに乗らずに十字架の贖いにより神様はあなたに完全な道を開かれ、あなたを大胆に神に近づく事が出来る道を開いて下さったと信じ受け取っていきましょう。そうするならばあなたは本当にその恵みを受ける事が出来るのです。

「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」(23節)

私達はその様な誘惑の声を聞くと、(確かにあまり熱心に聖書を読んでいる訳でもなく、祈っている訳でもなくこんな私ではだめだ。自分はその恵みに預かる資格はない)と思ってしまうのですが、『しっかりと希望を告白しようではありませんか。』イエス様は『全て疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい』と言っているのですから(自分が疲れているから駄目)というのは理由にはならない。神様は弱くても、疲れていても、汚れていても、愚かでも大胆に道を開いて下さるのです。そして神の恵みを本当に受ける事が出来る様にして下さるのです。だから

「また互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。」(24節)

あなたがたは神様からそうされているのだから、互いに慰め励ましあったりしましょうというのです。でも間違わないで下さい。救われる為にこれをするのではないのです。救われる為には何一つする必要は無いのです。救われる為にイエス・キリストは既に完全な道を開いたのですから、あなたは大胆に神様の元に行くだけでよいのです。「イエス様、私の罪を赦して下さって感謝します。神の子として下さって感謝します」とこれだけで良いのです。

救われる為に私達の成すべきことは何もありません。(少しは何かしなければならないのではないか?)と邪悪な良心はこう囁くのです。そしてどの位やったらいいのだろうか?どこまでしたら神様が受け入れてくれるかとの疑問がミカ書に書かれています。

「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだあろうか。私のたましいの罪のために、私に生れた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何があなたに求められておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6章6〜8節)

最初は1頭の子牛です。次ぎは幾千の雄羊、幾万の油、次ぎは自分の長男。エスカレートしてどこまでいってもきりがない。何故神様は無代価で一方的に開いて下さったか。それはどこまでいってもこれなら大丈夫という制限がないからです。だから神様は借金棒引きの様に、全てを赦す代りにイエス様が全部罪の罰を受ける道を開いて下さったのです。あなたがたは神様により赦されるのだから、後は神と共に歩む事。あなたがたはその赦しを頂いたのだから、今愛と善行を促す事を互いに注意し合おうと勧めるのです。

救われる為ではありません。こんな私が赦され、救われ、愛されているから、あの人にも私が出来る愛を捧げさせて欲しい。この人にも仕える者とならせてほしい。愛を分け与える者とならせて欲しい。救われたからです。そのようにしなさいというのです。25節ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

『かの日』これは“再臨”を指しています。その日には私達にも罪に負けてしまう弱いからだではなく、全てにうち勝つ栄光の体が与えられると約束されています。その日を待ち望み励まし合いましょう。その歩みを全うしもっともっと神様の恵みを頂こうではありませんか。私達に必要なのは、『全ったき信仰を持って、真心から神に近づく』事だけなのですから。これが今日のキーポイントです。神様はあなたの前にものすごい恵みを開いて下さっているのです。問題はあなたがた真心を持って近づくか否かです。

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