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「インマヌエルの主」

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2001年12月16日(待降節第3週) 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書創世記28章10〜19節より
牧師 吉田耕三

本日のタイトルを「インマヌエルの主」とさせて頂きました。これは、『神、我等と共にあり』という意味です。神様は本当に私達と共にいて下さる。これが聖書の語るメッセージです。“クリスマス”それは縁遠いと思われる神様が実に私達のすぐ側に来ておられる、ここにおられる事を知るのがクリスマスの祝福と思います。今日はクリスマスとは全然関係ないと思われる創世記からその意味を学ばせて頂きましょう。

荒涼とした中で

「ヤコブはベエル・シャエバを立って、カランへと旅立った。ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。」(10〜11節)

この箇所を簡単に説明しますと、アブラハムの息子イサクの息子ヤコブです。(アブラハムの孫)ヤコブはエサウと双子の兄弟でした。父親イサクは兄のエサウをより多く愛し、母リベカは弟のヤコブをより多く愛していました。ユダヤでは長男は他の兄弟に比べ二倍の相続権がある。ヤコブは、その長男の権利を何とかして奪い取ろうとした。そこで彼は兄エサウが狩猟から空腹で戻った時にレンズ豆の煮物を見せ、エサウが「食事を与えてくれ」と言った時に、“長子の権利”と交換に食事を饗する約束を取りつけた。エサウは空腹ですから、簡単に一杯の食事と長男の権利を交換してしまいました。

その後ヤコブは父親からの“祝福”をも奪い取ります。すなわち父イサクが兄エサウに「獲物を獲ってきて食事の用意をし、その後にあなたを祝福しよう」という会話を母リベカが盗み聞きをします。彼女は(祝福をエサウにあげる訳にはいかない。ヤコブにあげて欲しい)と思ったのです。イサクはこの時高齢の為に目が悪くなっていました。それで騙したのです。エサウは毛深いのでヤコブの肌に触ればばれてしまう。そこで子山羊の毛皮を皮膚が出ている部分に貼りつけ、兄エサウの服をヤコブに着させました。そしてエサウが猟から戻らない内に「お父さん、獲物を持ってきましたので、祝福して下さい」と料理を父の所に持って行かせた。イサクは耳は聞こえましたので、(ヤコブの声ではないか?)と思いました。それで「お前は本当にエサウか?」との質問に「はい」と嘘をついて答えました。

しかしイサクも簡単には騙されません。近くに来させ触ってみると、毛深い。匂いもエサウの匂いです。これですっかり騙されてしまった。それでヤコブに祝福を与えた訳です。丁度祝福が終わった時にエサウが獲物をしとめ料理を作り父親に持ってきた。イサクはびっくりして「おまえはだれだ。わたしはもう祝福をしてしまった」と言うのです。兄エサウは激怒します。長子の権利も奪い、祝福さえも奪われてしまった。父が死んだら弟を生かしてはおかないと決意する訳です。その事を知った母リベカは(これはもっと大変な事になった)とヤコブを自分の故郷であるカナンに送り返そうとした。そういう訳で一人でカナンの地に向かっている途中のヤコブです。どんな状況か、どんな気持ちかは想像してもらえば分かると思います。心には色々な気持ちがあったと思います。自分の兄を裏切り騙し、父親を騙し祝福を奪い取った結果として今遠く家族から離され地平線しか見えないような荒野の地にあり、見知らぬ土地に行こうとしている自分。獣達の鳴き声も聞こえてくるでしょう。孤独感と恐怖感と不安と恐れ、そして兄弟を騙したという罪責感。ですから(こんな自分は神様の祝福は頂けない)と荒野で後悔の念を持っていたのではないかと思います。彼はそこにある石を取り枕にして寂しく横になった。ところがその夢の中で神様に出会うのです。

神の家に変わる

「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂きは天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたがたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(12〜15節)

神から遠く離れ見捨てられてしまって当然の自分。一人ぼっちの荒涼とした寂しさの中でヤコブは神様と会った。「ヤコブは神様に会う資格があるか?」と問われたら即座に「この者には祝福を受ける資格などない」と言われる人物ではないでしょうか?この後にも悪賢い所業が出て来るのですが。でも神様はこのヤコブに現われたのです。あの“信仰の父”と言われたアブラハムと同じ約束を神様はヤコブに与えるのです。「この地をあなたが受け継ぐ様になり、あなたの子孫は地のちりの如く多くなる」と神様の祝福が約束された。夢から覚めたヤコブは

「ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」翌朝早く、ヤコブは自分が枕にしていた石を取り、それを石の柱として立て、その上に油を注いだ。そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。」(16〜19節)

一番孤独で悲しいと思ったその場所が、「神が私に会われた場所。神が私に約束した祝福の地である」と語った訳です。『ベテル』とは“神の家”という意味です。石くれしかない荒涼とした地が“神の家”だと告白した訳です。

今日私達は“インマヌエル”=「主、我等と共にあり」という恵みをもっと深く知っていきたいと思います。それはどこにあるのでしょうか?それは私達が歩んでいる只中にあるのです。(荒涼としてどこからの助けも無く、どこに神がいるのか、どこに神の助けがあるのか)と思える孤独で寂しく惨めなその只中に、神がおられる事を是非知って頂きたいのです。

(もう神に会う資格など無い。神を裏切り、神に逆らう者。神の祝福から一番遠い者)と思えるその者に神の恵みは尚注がれているのです。彼はそこに神がおられる事を知らなかった。私達も同じではないでしょうか?私達の只中に神様がおられる事を信じられないと思うかもしれません。でも(まさか?)と思うその中に神様がおられるのです。この事を本当に知る事が出来るならなんと幸いでしょう。皆さん、神様はあなたと本当に共におられ、あなたの周りをインマヌエルの主が取り囲んでおられるのです。

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこからくるのだろうか。私の助けは、天地を造られた主からくる。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方。主はあなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主はすべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまで守られる。」(詩篇121篇1〜8節)

これは“あなた”に語られている言葉です。「でも私には災いがあります」と言れるかもしれません。でも神様は全てをご存知です。神様は全ての中で最善をして下さっているのです。神様が私達を愛し、私達と共にいて下さる事を示す為、私達の弱さ醜さ孤独の只中に来て下さり、その重荷を背負いまた癒し清めて下さるのです。私達もこの朝主イエス・キリストを“インマヌエルの主”私を愛し友にいて下さる主としてお迎えしようではありませんか。

ヤコブはこんなに素晴らしい場所を知らなかったのです。彼が気付くまでは荒涼とした何も無い寂しく不安で恐怖におののく場所であった。でもそこに主がおられる事を知った時に、そこは“神の家”となったのです。

神様はあなたの傍らに立っておられるのです。もし(まだ私は分からない)という方は是非心を開き「イエス様どうぞ私の心の内に来て下さい」と祈って下さい。神様は『わたしだ。恐れることはない』と語って下さるでしょう。そしてそのあなたの苦しみ、悲しみの只中に来てあなたを慰めて下さいましょう。わたし達に必要なのはこの主の恵みに気づく事です。私達が今この世に生れているのは、神様が目を留めていて下さるからです。神様はあなたと共におられる。この事に気づき、受け留めましょう。私達も“インマヌエルの主”を喜び迎え、心から感謝するクリスマスとさせて頂きたいと思います。

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