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「弟子の道」

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2001年12月30日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ14章25〜35節より
牧師 吉田耕三

早いものでもう1年が過ぎ去ろうとしています。今年の年頭の言葉を皆さん覚えているでしょうか?

「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、わたしたちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア書6章3節)

皆様にとって今年は神様が、「ぐっと深く感じるようになった。分かるようになった」と言えるでしょうかそれとも「いやあまり変わらない」でしょうか?もう一度“主を知る”事の大切さを悟らされて行きたいものです。

あなたの覚悟はどれ程ですか?

ユダヤ人達はイエス様の救いが来たのに「要りません」と拒んでしまいました。流れを思い出すために、前回のところに少し戻りましょう。

「するとイエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。ところがみな同じように断り始めた。」(ルカ14章16〜18節a)

「しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。言っておくが、あの招待された人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」(ルカ14章21〜24節)

これは直接的にはユダヤ人達の事を言っています。神様の約束の数々の言葉は本来ならばユダヤ人達がまず受け止めてそこから世界宣教が起こるのが本筋でありましたが、ユダヤ人達はこれを拒んだ訳です。結果として異邦人にこの福音が直接伝えられた。自分の都合を第一にしてしまい、神様の招きを二の次ぎにしてしまったユダヤ人。彼等は誰も宴会に入る事が出来ないと言われたのです。そしてその代りに誰でもいいから連れて来なさい。と命じられました。これには条件はありません。無理して引っ張ってでも連れて来なさい。と言われたのです。

ここでイエス様は(注意をしなければならない)と思ったのか、警告を与えました。即ちイエス様の救いの道は全ての者に開かれているが、それはどんな人でも受け取る事が出来るのではないと言うことです。道は開かれているのですが、それを本当に受け取った人だけがその道に進めるのです。私達がどの様に注意し、どの様に歩むべきかを、またどの様な覚悟をしなければならないかを教えています。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自の命までも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(26〜27節)

これは厳しい言葉です。でもこれは本当の意味で“憎みなさい”と言っているのではなく、“どちらを優先させるか”です。神様を第一にする覚悟を持つべきという事です。イエス様は三つの例えを用いてその大切さを教えたのです。

「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。」(28〜30節)

これは恐らくぶどう畑に見張りの塔を建てるという事だと思います。材料費等を計算した上で塔を建てるでしょう。計算もしないで塔を建て始め費用が不足したから途中で止めてしまうのであれば何の役にも立たない。その様にあなたがたの信仰もよくよく考えて、計算して信仰の道に入りなさいという事です。正直に言いまして、最初からこの覚悟がありましたか?最初からこういう決断が出来るかというと難しいかもしれません。でも私達はいつまでも最初のままの信仰であって良いのではありません。私達は、成長と共に、新たなる決断や覚悟をさせて頂くことが大切なのです。

では、本当の意味で私達が主と言う方を知らされる時は、試練の時ではないでしょうか?色々な苦しみの中で助けて下さる神様を体験する時に(神様は生きておられる)と苦しみや困難を通して知り味わってってきたのではないでしょうか。その様な“乗り越える信仰”を私達がどの様にして持つ事が出来るのか。その秘訣がこの決断覚悟にあるのです。私達はついつい自分の都合の良い様に考え、神様からの祝福は頂きますけれども訓練は要りませんとなるのです。でもその訓練を通して成長させて頂けると思うならば、それも含めて受け止めていく事が出来るのです。

私達がどこまで覚悟をしているか。それにより様々な試練があったとしてもそれを乗り越えていく事が出来る力が出てくるのです。そして神様の祝福にも与っていく事が出来るのです。私達がきちんと『計算』し、覚悟を持って従っていく時に、私達は揺るがない信仰者になっていくのです。正直最初から計算をきちんとして入る人は少ないと思います。でも色々な出来事を通し神様は私達に一歩、また一歩とその覚悟を導いて下さると思うのです。

神様に従うか? この世に従うか

「またどんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かってくる敵を、一万人で迎え撃つことが出来るかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」(31〜33節)

先程の例は塔を建てるだけでしたから、もし出来なくても自分が笑われるだけです。でも今度は戦いです。戦いの結果に多くの人が様々な影響を受ける訳です。この『敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求める』そこには賠償金や不条理条約など、そこに発生する損失も細かく計算しなさいというのです。これは戦いですから、中間はありません。向こうに服従するかこちらが勝つかです。これは私達が神様の方に行くのか、この世に従っていくのかのの選択を迫っていることを意味しています。中間はないのです。

「だれも、ふたりの主人に仕えるもとはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神に仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6章24節)

私達はこの世と神様と両方に仕える事は出来ないという事です。

「世をも、世にあるものを、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人の内に御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父からでたものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅びさります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(Iヨハネ2章15〜17節)

“この世に従う道”と“神様に従う道”私達は感情や流れではなく冷静に見るならば、本当に神を信じる事がどんなに大切かが分かります。そしてこの事が分かる時に『自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません』と言う言葉が大切になってくるのです。これは実際に全ての財産を神様に献金しなさいと言っている訳ではなく、本当に神様が「必要だ」と言うなら、全て神様のものであるのだから、御心の通りにしますという決断をしなさいという事なのです。そうしないならば私達はしっかりとこの世に結びついてしまい、本当の意味での解放、勝利を味わう事が出来なくなってしまうと言うことなのです。

「ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」(24〜25節)

塩気のない塩は何の役にも立ちません。これは“中途半端なクリスチャン”くらい役に立たないものはないという事です。本気になって神様に従うか否か。そうでなければ私達は役に立たないものになってしまうのです。

自分にどんな祝福があるのか。また損失があるか。神様が備えて下さるものがどんなものか。よくよく考えてその上で、この決断『わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分の命までも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません』この言葉をしっかりと受け止める必要があるという事なのです。“この世のもの”別な言葉では“肉”という事ですが、私達は神様に従っていこうとしてもこの肉の力では従っていけない事に気がつくのです。例えば、神様の教えは正しいので、従っていこうとすると、とたんに、(出来ない)自分に気がつくのです。何故でしょうか?

「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従出来ないのです。」(ローマ8章7節)

私達の内(肉)には神に反抗する力があって自分の力では神に従っていく事が出来ないのです。その事をしっかり知るべきなのです。“自分の肉によって生きる事を止めよう”と決断をする。そして更に『自分の十字架を負って』これは自分に死ぬという事です。自分の力で何とかしていこうとするのを止め、ただ神様の力にのみ頼って生きて行くこと。すなわち神様に全てをゆだね、捧げるという生き方の中に、私達は試練や困難を乗り越える力が御霊によって与えられていく者に変えられていくのです。

私達は自分を捨て十字架を負って従う時にこそ、神の恵みを頂く事が出来るのです。そしてもっと深く、もっと偉大な神の御力を知る事が出来るのです。それは肉の力では出来ない事です。でも「あなたの御恵みによって私にもそうさせて下さい。本当に一切のものをお捧げ出来るようにして下さい」と祈る時、神様は自分には出来なかったはずのことを不思議に成し遂げさせ、私達に大きな勝利をもたらしてくれるのです。

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