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「失われた息子」

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2002年1月13日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ15章11〜24節より
牧師 吉田耕三

先週は「失われた羊」、「失われた銀貨」の箇所から御一緒に学ばせて頂きました。神様がどんなに、一匹の羊を心に留めて下さっているか、また一枚の銀貨を探し求めて下さるか。それは他でもない“私達”の事であるとお話しました。今日は“放蕩息子のたとえ”として非常に有名な聖書の箇所です。「失われた羊」「失われた銀貨」そして「失われた息子となるわけです」。しかしここのメッセージの中心は「失われた息子」を両手を広げて待ち構えて下さっている“慈愛の父”=待っている神にあります。

家を出た息子

「またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかももとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。」(11〜16節)

当時遺産相続は長男が他の兄弟に比べて二倍の取り分があります。もしこれが二人兄弟であったなら、財産を三等分にして、その2/3を長男が相続し、1/3を弟が相続する訳です。

このたとえの中で、弟息子は「分け前を下さい」と父親にお願いしました。反発心があったのはほぼ間違いはないと思います。ずっと親元に生活をして、何不自由ないと言えば言い過ぎかもしれませんが、雇い人もいる、食べる物に困る事はない、豊かな生活をしていた人物だと思います。しかし、そういう生活環境の中に彼は生れ育って来た彼は、また、様々なきまりや家のしきたりもあったでしょう。神様に従う為に教えられていた様々な戒めもあったでしょう。そういう事柄が煩わしくなったのだと思います。

彼は財産をもらって、さっさと町に出て行ってしまいました。最初は色々な商売等を自分でやってみようという思いがあったかもしれません。でも社会に出て冷たい風に当たる時に、挫折を経験したのかもしれません。段々とお酒に溺れ、快楽に溺れる生活に入っていったように思います。人間そうなりますとなかなかそこから抜ける事が出来ません。(何とかしなくては!)と思うのですが、堕落した生活がずっと続いてしまったのです。それなりの財産があったと思いますが、日毎に目減りしていき、遂には何も無くなってしまいました。

上り坂の時には人も寄って来ますが、落ち目になると人は正直な者で、次々と去って行きます。そして最後は誰もいなくなった。更にその国に大飢饉が起こった。こうなりますと益々人々は不利益を被る関係は切って行きます。そしてついに食べる物にさえ事欠く状態になってしまいました。どうしようもなくなって、豚の世話をするに至ります。ユダヤ人にとって「豚」は汚れた動物と見られています。その世話をするのですから屈辱です。でもこれをするしか生きる道はないのです。誰も彼に気に掛ける事はありませんでした。昔日の華やかな生活は(一体何であったのか)と思える日々になってしまいました。ここにいたってやっと我に返ったと聖書は記します。

我に返る

「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』」(17〜19節)

恐らくそれだけの財産があれば何がしかの事を成し遂げられると思ったでしょう。そして彼は町に出て行った。でも現実には何もかも使い果たし、友人も財産も何もなくなってしまいましたのです。残ったのはぼろぼろの自分。豚の餌で空腹を満たす事しか出来ない自分がそこにいる訳です。

その時になり、彼は初めて自分が出て来た家の事を思い出しました。(あの家では食物に困る事はなかった。それどころか雇い人さえパンが有り余っていたではないか)一方自分は豚の餌のいなご豆を食べなければならない状態。ここで彼にとって一番したくない決断を迫られた訳です。(親を捨て自分勝手な事をしてきた私だが、やはりあの父の元に帰ろう。そうすれば何とか雇い人位にはしてくれるであろう。)

人間どうしてもしたくない事有りますね。世界中で一番言いたくない言葉って何でしょうか?人によって違うとは思いますが「ごめんなさい」ではないですか?どんな犠牲を払ってでも「ごめんなさい」だけは言いたくない。これが人間のプライドです。でもここで素晴らしいのは彼はその決断をした事です。更にここに『天に対して』という言葉が入っていることです。人に対して罪を犯したというのは直ぐに分かると思います。しかし神に対して罪を犯しているという感覚はあまり持てないと思うのです。でも実は私達がしている事で、一番悲しませているのは神様です。神様こそ本当に私達を思い心配して下さっているのであります。この事に気が付く事は大切です。そして彼は『私はあなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。』思い心を引きずり、彼はその足を父の方に向けたのだと思います。

待ちわびる父

「こうして彼は立ちあがって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私はあなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て、ほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」(20〜24節)

ここからが今日の本題です。父親は恐らく毎日毎日外に出て息子が帰って来るのを待っていたと思うのです。毎日(今日は…だめか)次の日も(だめか)でも諦めずに父親は外を見続けたのでしょう。

ある時に遠く彼方に米粒程の姿の息子を認めた。まだ息子が遠くにいる内から父親は走り出したのです。そして出会うなり抱きかかえ何度も口づけをした。父親を嫌い、父親を否定して出て行った息子。でも何の非難もなく、ただ(お前の事を本当に思っていた。お前を愛している。)その事を現した訳です。

息子は決断した事を告白しました。息子の言葉が父親の耳に入っていないかのように彼は、『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。』と命じます。この着物とは栄誉を現します。指輪は印行といいまして、契約書等に判の代りとして押しました。ですので権威を象徴します。奴隷達は靴を履く事が出来ませんでしたので、靴は高い身分を現します。『雇い人の一人にして下さい』との言葉に父親は「お前がどんなに自分を蔑もうともお前は私の子供だ。お前を愛している。」という事を明確な表現を持って現した訳です。

今日学ばせて頂きたい事は、これが神様があなたに向かって語り掛けている事。あなたに対する思いであると言うことなのです。前回の羊や銀貨は無くなっても自分の責任ではありますせん。羊は目が悪いし、銀貨も自分から無くなったわけではありません。でもこの放蕩息子は、自ら進んで親を拒否して離れて行ったのですから、はっきり彼に責任があるわけです。でもこの父親に現される神様は息子の謝罪を無視するかの様に、「お前は私の子供ではないか。何を心配する事があろうか」と言って下さるのです。

私達は恐れずにこの神様の前に出て行こうではありませんか。「私はこれが出来ません。こんな酷い者です。こんな事をしました。あんな事をしました。」と言っても、「そんな事は関係ない。だから私は十字架に掛かったのではないか」とイエス様はそう言って下さるのです。私達はこの神様の愛を受け取っていく事が大切です。父親は息子が哀れな状況になるであろう事は想像出来ていたと思います。にも関わらず息子がどうしても通らなければならないのでじっと見守っていたのだと思うのです。

私達も愚かにも、この放蕩息子のように、「自由」が良い(縛られるのが嫌だ。自由こそが幸せの根本なのだ)と思っていませんか?人間が幸せになるには本当に自由が良いのでしょうか?そうではありません。人間は神様と共に生きてこそ本当に幸せになるのです。人間は神様と共に、そして神様に従って生きる時に幸せがあるのです。(その証拠に、私達は、自分の持っていた自由を捨て、敢えて犠牲を払ってでも、人の為に役立った事がわかった時には、何ともいえない、充実した思いになるのではなでしょうか。)ところが神様に対しても自由になる事が一番幸せなのだと愚かにも考えるのです。これは放蕩息子の考えであると思いませんか?

私達にも放蕩息子の心があり、そこから立ち返る必要があるのです。(神様と共に生き、神様に従って歩む時に本当の幸せが与えられる事をはっきり知るべきなのです。)放蕩息子は父の元を離れさ迷い歩きました。もし自分の心が同じようになっていると思う方がいれば是非思い出して下さい。(父なる神様はこんな風に私が帰る事を待っていてくれているのだと。)「私は罪を犯しました」という告白を無視するかのように、着物や指輪、靴を与えて下さる。罰を与えるのではなく、最高のもてなしをして下さろうとしていると言うことを。もし心が神様から離れていると思ったらもう一度に立ち返りましょう。まだこの神様の愛を受け取っていない方は、あなたを愛し救う為に十字架にまで掛かって下さったこのイエス様を受け入れて、この愛を自分のものとさせて頂きましょう。

最後にこの息子の良かった所を見て終わりにしたいと思います。彼は第一に自分の正直な姿を神様の前に認めています。へりくだっています。自分が本当に愚かな事をした事を認めています。私達はなかなか本当に自分が悪かったと思はないのです。自分の非を認めていく事は大切です。次ぎに彼は天に対しても謝罪しています。私達が犯す多くの罪は人間に対するものです。でも一番大きいのは神様に対する罪です。私達が悪い道に進んでいくならば、私達を愛する方は本当に悲しむでしょうし、心配して下さるでしょう。親以上に私達を心配して下さる方は私達の父なる神様です。そういう意味で私達が犯す罪、思う罪は神の前に犯す罪であるという事です。

もう一つ『私はあなたの子と呼ばれる資格はありません』自分の犯した事を考え、雇い人と同じにされて当然であるというへりくだった思いがありました。これは素晴らしい事だと思います。神様はそういうへりくだりのある所に溢れるばかりの祝福を与えて下さる訳です。私達はこのへりくだった心を大切にしていきたいと思います。神様は私達が「資格がない者です」と言っても、「その為に十字架に掛かったのだ。何も心配せずに私の元に戻って来なさい。」と言って下さる事を覚え、この愛の中に生き続けていきたいと思います。

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