2002年1月20日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書Iコリント12章12〜31節より
メッセンジャー日本福音自由教会総主事谷下信之師
多くの器官から形成される一つの体
使徒パウロは“教会”を色々な名前で呼んでいます。“キリストの花嫁”“神の家族”“神の神殿”等です。彼が一番よく使ったのは“体”にたとえて語った事です。「キリストの体そのものである」と呼んでいるのです。又本日の箇所には“一つ”と“多い”という言葉が何度も出てきます。体には沢山の器官があります。手があり、足があり、目があり、鼻があり、口があり、骨があり、肉があり、様々な内臓があり、色々な器官が集まっていますけれども、それが一つの体を作っている。
「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その部分が一つのからであるように、キリストもそれと同様です。・・確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官からなっています。・・しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。」(12,14,20節)
世界中に全く同じ人というのは、一人もいないのです。人は顔も体重も身長も出身地も背景も違うのです。同じように、クリスチャンは皆違う賜物を持っています。しかしそれぞれが全体の益の為に各々の役割を果たし、お互いに相互依存している。それが教会であり、体であると思うのです。ですから、誰も「役に立たない」と言って軽蔑されてはならないし、自分をその様に思ってもならない。それぞれがそれぞれの機能を持ち全員が皆“大切で必要である”のです。そこには見事な一致がある。この一致は相互依存関係であり、お互いがお互いを必要としているのです。不満や嫉妬があってはならない場所です。骨と皮膚では全く違います。お互いに違う事は一致の妨げになってはいません。“違っていても良い”という事です。多用性が有り、バラエティに富んでいるが分裂を意味しない。それは素晴らしい事であると思います。
「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つのからだになるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」(13節)
ユダヤ的にも宗教的にも極端に異なるユダヤ人とギリシア人。ここでの「ギリシア人」とは「異邦人の代表」として使われています。或いは境遇において全く相反する「奴隷」と「自由人」。或いは「男性」と「女性」。この世においては相容れない者達が、イエス・キリストを信じバプテスマを受け、そこに御霊の働きによる新生(新しい命が生れる)という事がある時に、その人達は一体とされ、キリストの体なる教会に繋がる者とされます。どんな民族であろうと、何色の肌であろうと、私達は一つの体に連なる者とされています。
初代のクリスチャン達は隔ての壁を打ち壊していきました。男性、女性を平等に歓迎しました。これは2000年前の事ですから、イエス様がその様な姿勢を取られた時に周りの人達は驚きました。ギリシア人達は社交グループから奴隷達を締め出しておりましたが、クリスチャンは奴隷も仲間に加えていきました。またユダヤ人の神殿に行きますと、ユダヤ人以外の異邦人はここから先には進めないという「異邦人の庭」がありました。クリスチャンは彼等皆を平等に主の聖餐(主の食卓)に呼び掛けたのです。ローマの貴族(指導的立場)は殆どが男性でした。対照的にクリスチャン達は女性にも貧しい人にもその賜物に応じて指導者の立場を与えました。
教会があらゆる層の人々、あらゆる種類の人々により構成されるという事は万物を創世された神の中に世々隠されていた奥義であるとさえ言われています。この世界のどこにも存在しないような新しい群れがキリストの教会により造られる様になった。沢山の相違点があっても彼等は“キリストにある者”その一点を、国籍の違い、人種の違いよりももっと大切なアイデンティティとして、それらを繋ぐ新しい主イエス・キリストにある交わりを神様から託されている所として教会を形成していった。のです
手が尊い? 目が尊い?
「たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。」(15〜16節)
足が手をひがんで「私は手ではないから駄目なんだ」と言ってはなりません。手はすごく器用です。重い物を持ったり、細かな作業をしたり、物を書いたりも出来ます。色々な事が出来ます。だからといって、足は上半身を乗せているだけであまり重要でないとは言えないのです。
同じ様に耳が目をひがんで「私は目ではないから」と言ってはなりません。確かに目は非常に目立つ所です。人を見る時にまず目を見る。耳を見る人はあまりいません。だから「目になりたい」と思ったのかもしれません。しかし
「もしからだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。」(17節)
この“目”という単語は元々は単数形です。ですから、体自体が目の形をしていると考えた方がいいです。体全体が目であれば、手足はないし、耳もありません。それでは本来の体にはなりません。聖書を見ますと足と耳の素晴らしい働きがあった事が分かります。
「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞く事ができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次ぎのように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」(ローマ10章14〜15節)
福音は耳から入ってきたのです。イエス様やパウロの時代は一人一人に聖書等はありません。会堂に一つあれば良い方でした。ですから会衆は耳で福音を聞いたのです。一言も聞き漏らさない様にと一生懸命に聞きました。ですから耳がなければ福音は伝わらなかったのです。ですから耳には耳にしか出来ない尊い働きがあることを教えています。そういう訳で、私達はお互いが体になくてはならない大切な器官同士であります。ですから教会でも賜物が違っているからといって人を羨む必要もなく、また自分を卑下したり出し惜しみしたりする必要もないのです。
「そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。」(21節)
大きく見える様な賜物を与えられている兄弟が小さな賜物を与えられている姉妹に対して「私はあなたを必要としない」と言う事は出来ないという事です。足の裏は殆ど目立ちません。けれども足の裏がなければ私達は立つ事さえ出来ません。その様に私達は兄弟姉妹と共に一つになり教会に置かれているのです。体というものは一つだけ孤立して存在する事は有り得ません。お互いに必要とし合い、仕え合い、献身し合い、愛し合っている。私達はお互いを必要とする存在である事。その事をどれ程自分が認識しているかを問われると思います。
「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」(22節)
『比較的弱い器官』が何を指すのか分かりませんが、目立たなく普段気にされない様なものが本当は一番大切である。これが神の国に属する素晴らしい真理です。皆さんは「盲腸」は切り取っても平気な程大切でない器官の様な気がします。ところが先日「盲腸」は宇宙に行くと非常に大切な器官なのだと言うことを聞きました。
「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(26節)
この所について、マルチン・ルターは「足が踏み付けられた時、指が挟まれた時に全身がどの様に反応するか考えてみなさい」と言いました。足を踏まれたら、目を大きく見開き、鼻がゆがみ、口は叫び声をあげます。ほんの一部分が痛むだけで、全身が反応する。これはキリストの体である教会の事を言っているのだとも言えます。私達は他の兄弟姉妹の痛みをどれほど感じているでしょうか。また他の教会の痛み、苦しみも自分の痛みと思う程に感じているでしょうか?私達も戦っている教会、迫害にあっている教会、無牧の教会これらの教会の事を自分の事の様に感じて祈り励まし合う必要があるのではないでしょうか。更には教派を越え、国境を越え、主にある兄弟姉妹と共に喜び共に苦しめる事が大切であります。
「そして神は教会の中で人々を次ぎの様に任命されました。すなわち、第一に使徒、次ぎに預言者、次ぎに教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」(28節)
18節と28節に共通点があります。両方とも『神』が主語で始まっています。ギリシア語も英語も主語の後ろにすぐ動詞がきますので、18節『Godhasarranged=神は備えた』28節『Godhasappointed=神は任命した』体にはそれぞれの器官を備えた。教会にはそれぞれの人々を任命したとなります。「備える」と「任命」は原語ギリシヤ語ではスペルも全く同じ言葉です。即ち神様は体に様々な器官を備えられたように、教会には様々な働き人を備えられた。第一に使徒。第二預言者、第三に教師。その次ぎに奇蹟を行なったりする目に見える働き人です。1から3に関しては御言葉に関係する働きをする人です。教会は御言葉により土台が据えられ、御言葉により打ち建てられている所であります。そして
「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」(31節)
さらにまさる賜物ではなく『道』になっています。御霊の賜物とは奉仕の為に必要であるのです。この賜物が本当に生かされてそれは“アガペーの愛”に繋がっていきます。今朝私達は教会が体である事において、一致と多様性の中に素晴らしい交わりの祝福を教えられました。神様はこのキリストの体である教会を通して世界にご自分を示そうとしておられます。“私達”を通して世界にご自身を明らかにされようとしているのです。
不完全な教会、不完全な私達を通してご自身を世界に現そうとしておられるのです。こんな私達を用いて下さっている。初めから完璧な夫婦はありません。また完璧な親もないし、完璧な子供もありません。完璧な教会もどこに行ってもないと思います。神様が求めておらるのは努力している姿です。私はある時、自分の力ではとうてい弾けるはずのない曲をどうしても弾きたいと思い、ギターで練習しました、それこそ何十回も何百回も、神様も、私達がチャレンジすることを期待しているのです。神様ご自身であれば瞬く間に完璧にお出来になる事を、不器用な力のない私達に託して下さいました。この様な傷ついた不完全な教会を通して世界にご自身を現そうとされておられるのです。
イエス様の体も傷ついています。それでもその傷ついたその体を通して神の栄光を表して下さいました。昨年の教役者研修会で舟喜信先生が「傷だらけの教会」というテーマで話をされました。神様はその傷ついた体を通してでも、やがて完璧にされるその約束を信じて従っていく時に、主は私達を用いて下さるのです。共に信じて歩む者とされていきたいと思います。