2002年2月10日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ16章14〜18節より
牧師 吉田耕三
先週は「不正な管理人」から学ばせて頂きました。その最後には『しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』との御言葉がありました。今日ご一緒に“富”に対しての正しい対処法を学ばせて頂きたいと思います。
人の前に正しいこと 神の前に正しいこと
室町時代、ある人が連歌師山崎宗鑑に「どんな上の句にでもぴったりとはまる下の句を考えて下さい」と言いました。これは非常に難しい事です。でも彼は見事にその句を作りました。「それにつけても 金の欲しさよ」
(なるほど)と納得出来るのではないでしょうか。「すずめの子 そこのけ そこのけ おいらが通る」「それにつけても 金の欲しさよ」
「柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺」「それにつけても 金の欲しさよ」
「ああ 松島や 松島や」「それにつけても 金の欲しさよ」
私達にとり“お金”は大切なもの、必要なものでありますが、だからこそ私達は“お金”に対して正しい捉え方をしていく事が大切です。前回、神を第一として仕えていくならば、お金もきちんと管理する事が出来る。けれどもお金が神様になってしまうと、神様に仕える事が出来なくなってしまうという事をお話ししました。私達は他のことに比べお金の事だけは神様の支配からはずれやすくなる傾向があるのではないでしょうか。今日出てくる人物もそういう者達でありました。
「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。」(14節)
『金の好きなパリサイ人』とありますが、本音は私達もそうではないでしょうか。見せかけは綺麗にしていて、「そんな事はえげつないから」と言っていたとしても、本音は(欲しい、欲しい)と手がいっぱい出ているのではないでしょうか。だからこそ私達も注意して聞き、学び取る事が大切ではないかと思います。お金に頼っている時には、なかなか(神様に頼ろう)という気が起きてきません。私達は神様が本当に頼りになるお方であると思っていますが、目の前に神様と高額の入った預金通帳があれば。実際にどちらを取るか大いに迷うのでないでしょうか。
お金が第一になる時、神様に頼る事が難しくなっていくのです。当時パリサイ人達は、“お金”と“神の前に正しく歩む”事を分けて考え、ようです。彼等は神の前に施しや断食をして「良き業」をした訳ですが、同時に払うべきものを払っていなかったり、ごまかしたり、色々な策を講じてお金を得て、それを「良し」としてしまう。神様の前にお金を含め全てにおいて正しい歩み方ではなく、「お金はお金」という形でやっていたようであります。すなわち自分のお金の為に神様を利用すると言う歩みがふつうに行われていたようです。彼等は神様を本当の意味で頼りにしていませんでした。ですからイエス様の言葉をきちんろ受け取る事が出来なかった訳です。イエス様は彼らに忠告します。
「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存知です。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」(15節)
彼等は神の前でなく、人の前に正しい道、人から良き評判を勝ち取る生き方をする事が彼らの特徴であったようです。そして神様はそれをご存知であったのです。どんなに徳の高い人物であっても、みせかけであるならば、全て神様にはお見通しであるという事です。
「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」(ガラテヤ1章10節)
私達もこのパリサイ人同様、人に評価され、人に受け入れられる道を求めていませんか?それをイエス様は『人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれる』と言っているのです。人の評価を得ようとする心は「偶像を作っていく」ようなものである。私達は人の前に高くみられ、評価され、評判が良くなっていく事を願う訳ですが、これは危険な道で神に嫌われる道であるのです。ですから本当に神に受け入れられる道が何であるのか考えるべきですと警告しているのです。
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いがうけられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはなりません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたがたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたがたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6章1〜3節)
確かに(人に誉められたい)という誘惑がいつも私達の中にもあるのではないでしょうか。“人前で”これは誘惑です。自分を立派に見せかける誘惑に乗ってしまう事がないように注意していきたいと思います。でこの道はどのような道でしょうか。
神の前に「自分は正しい」と言えるか
「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでもこれにはいろうとしています。しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。」(16〜18節)
パリサイ人達は律法によって天の御国を勝ち取る生き方でした。彼等には623の戒めがあると言われています。なすべき戒めが248。してはならない戒めが365ある。それを一つでも違反する事の無い様に一生懸命にやっていた。でもその生き方はバプテスマのヨハネまであり、これからは新しい神の国、イエス・キリストの十字架による赦しによる恵みの中に生きる福音的な生き方が可能とされていた訳ですが、彼等はその道を知らず、相変わず昔の生き方をしているのです。「あれをしてはならない。これをしてはならない。」それも一つも破らない様に。逆に破る人を裁いたり、責めたりするのです。これが私達が陥りやすい生き方です。
私達は赦される恵み、愛される恵み、受け入れられる恵みの中に生きる事が大切なのですが、彼等は一生懸命に「自分達は罪を犯していない」事を誇りとする生き方を続けたのです。でもイエス様は「本当にそうですか?」と質問をぶつけています。もし律法により神様の前に到達しようとするならば、一つでも逃してはならないし、一つでも破ってはなりません。彼等は「その道を歩んでいる」と自負しているのです。それに対してイエス様は、だったらと『だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者』と言うたとえ話をした訳です。彼等は結婚に対して随分と乱れた状況があった様です。
「人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。」(申命記24章1節)
ここで『恥ずべきこと』が問題になった。イエス様の時代には二つの大きなグループ、シャンマイ派とヒレル派がありました。片方は“不道徳”不貞(姦淫の罪)を犯し場合には離婚届を出してご破算にしなさい。それに対してヒルレル派は、例えば
・女が皿を割ること。・道で長話しをすること・見知らぬ男に話掛けること・夫の聞いている所で夫の親族の悪口をいうこと・隣家に聞こえるほどの大声でわめきちらすこと
これらがみな離婚成立の理由になるというのです。これを盾に次々と結婚と離婚を繰り返していたのです。そんな事をしていても彼等は「私達は間違った事をしてない。」と言うのですが、イエス様は「これは過ちを犯している」と言っているのです。律法とはどんな小さな事でもその一つが出来なければ、他の律法が99%守れていたとしても、その一つで全てが無駄になります。パリサイ人達はその様な間違った生き方をしながら人を嘲笑っていた訳です。
ではどのような生き方が正しのか?それは自分の罪を正直に認め告白する生き方です。そして自分も赦された者であると同時にあなたも赦された者。「お互いに赦し合い、受け入れ合い、愛し合うのが新しい時代の生き方です。」と教えるのです。裁き合うとは律法的生き方です。そうではなく、赦し合い受け入れ合う、これが福音に生きる生き方であると言う事が出来ると思います。失敗したら直ぐに「神様ごめんなさい」と告白し憐れみにより何度でも赦して下さる神様を見上げる。そしていつも御霊に満たされて歩む時に、これらのことがが自然に出来る様になっていくのです。
そういう訳で私達は生き方を注意しなければなりません。私達は『神にも富に仕えることは出来ない』のです。私達は神に仕える時に初めて富も正しく用いていく事が出来る様になるのです。
「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(Iテモテ6章9〜10節)
“お金”を正しくコントロールしなければ私達はこの様な悲惨な目にあう。彼等は『金の好きな』パリサイ人でした。私達の中にもその心があります。でもそれを本当に神の前に差し出し、神様を第一にしていく時に、私達は正しくコントロールしていく事が出来る様になる。そうでなければパリサイ人達と同じ様に人の目を気にし、人の評判を得ようとして自分を高めていこうとする様な、或いは自分は正しく歩んでいるといいながら、平気で他の罪を犯していくような者になってしまう訳です。そしてお金ではなく、神様を大事にしていきましょう。お金は便利ですが、自分が捕われていないか注意しましょう。捕われているなら正直に「捕われています。これを清めて下さい」と祈る事が必要です。そして自分の弱さを正直に告白し御霊に満たされて、それに打ち勝った生き方を歩み方をさせて頂き神様の祝福に共に与るお互いにされていきたいと思います。