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「黄泉からの叫び」

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2002年2月17日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ16章19〜31節より
牧師 吉田耕三

私達は聖書を通して“神様の真理”を学ばせて頂いている訳ですが、イエス様はこの真理をストレートに伝えず、例え話で語っています。その例えの中で一つだけ名前のある登場人物がおります。それが今日の箇所です。ここしかありません。ですから私自身はこの事は本当にあった事を説明していると言えるのではないかと思っています。そういう訳で「黄泉からの叫び」と題をつけました。ある説教者が同じ箇所を「ご先祖様の気持ち」という題で語って下さった事があります。ご先祖様は私達が不幸になる事を願わず、神様にあって雄々しく真実に歩む事を願っているのです。今日はここから神様が私達に語っている事柄を共にしっかりと受け取らせて頂きたいと思います。

本当の価値観

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。」(19〜22節)

私達はここから二つの事を学ばせて頂きたいと思います。まず一つ目は、私達は今も古い価値観に生きていないかと言うことです。この人がどの位の『金持ち』かは分かりませんが、当時のローマの人達は大変な贅沢三昧をしていた事がポンペイから出土した遺跡を見ても覗われます。当時は食事も豊かで、珍しい食材を食していた様です。彼等は美味で、珍味な物を腹いっぱい食べて後、先に羽のついた棒で喉を刺激して、全部吐き出してお腹を空っぽにした上でもう一度食べ始めると言うようなことが頻繁に行われていたようです。

本当に人間は貪りの動物ですね。同様にこの金持ちも毎日贅沢に遊び放題豊かに暮らしていたと思われます。ところがその門前に『全身おできの貧乏人』がいました。体中がおできで、その上食べる物もない。『金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。』程であったというのです。これは当時彼等は、食事前に柔らかいパンで手を拭くのが習慣であったそうです。それを捨てると犬などが来て食べていたのだそうですが、捨てられたそのパン屑で腹を満たしたいと思うような生活であったと言うのです。こんな惨めな生活はしたくないと思えるのがこの『ラザロ』ではないでしょうか。ところがその人が死にました。。恐らく彼はきちんと葬られたどうかさえ分からない惨めな最期をとげたのではないかと思います。一方の金持ちも死にました。ところが、

「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水にひたして私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの火の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』」(23〜26節)

気がつくと自分が非常に苦しい所にいる。見上げてみると、向こうにアブラハムとラザロが見えたのであります。皆さんも素晴らしい邸宅の様な家を見ると(あの様な家に住みたいな)とか、(あれが欲しい。これが欲しい)と羨む思いが強くなると思うのです。しかし“永遠”の時間と比べるならば、私達の地上での歩みは瞬きの時間でしかないのです。そして私達はこの瞬きの時間の為に汲々として歩んでしまっていることが多いわけです。そして、その為に一生懸命に宝を蓄える訳です。しかしどうでしょうか?私達はもっと永遠の御国にどれだけ蓄えているかを考える必要があるのではないでしょうかこの世の人達と同じ価値観ではなく「本当の価値観」を見出しそれにチャレンジする必要があるの打と思います。

「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。あなたがたの富みは腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。」(ヤコブ5章1〜5節)

私達は(お金を持ちたい)と思っています。しかしお金は用い方を間違うならばとんでもない悲惨な事になるという事です。ですから聖書は金持ちに対しては警告をしているのです。

「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。」(ヤコブ1章9〜10節)

この世の価値観では、お金持ちは(いいな)と羨ましがられる。しかし聖書では貧しくなったら、「良かったね。地位が高くなり、天の宝が増えているよ。」というのです。それでは「お金持ちは皆罪人なのか?」という事になってしまいますが、そうではなく、お金は正しく用いなければ“お金の奴隷”になってしまう事が多く、お金を正しく使う事が出来ない。これが問われているのです。この金持ちは贅沢三昧をしていた。でも目の前には食べるにも事欠く惨めなラザロがいました。彼に出来る事はいくらでもあったでしょう。でもそこに目をやる事はなかった。彼が特別に悪い事をしたとは思えないのですが、ただ無関心であった。「目の前に貧しい者がいたのに、全く目を留める事がなかった」事が問われているのです。私達はお金に対して正しい考え方を持たせて頂く事が大切なのだと言うことです。

「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」(ルカ12章34節)

私達が本当に神様の祝福を頂く為に、お金に対しての正しい捉え方を教えて頂く必要があるのではないかと思います。私達はこの地上での富を求めるのか、それとも永遠の祝福を求めていくのか。それによって価値観ががらっと変わってくるからです。そして“生かされたお金の用い方”が出来る様にされていくのです。あなたは金持ちを見て羨ましいと思いますか?だとするならばあなたの内には古い価値観がしっかりと根付いています。そうではなく、今与えられている事を喜んで感謝して歩める。そこに私達の正しい生き方があると思います。

その行いに応じ報いられる神

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」(ガラテヤ6章7〜10節)

神様は侮られるような方ではありません。そして私達は自分で蒔いた種の刈り取りもする事になるのです。(今まで「信じれば救われる」と聞いていたけれどやはり違うのか)と思う方もいるかもしれません。もちろんイエス・キリストを信じればその人の罪は赦されます。しかしその報いは違ってきますね。神の前に良き事をした人には、当然そのご褒美があるでしょう。そうでない者には天国に於けるご褒美が無くなるわけです。

「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるのかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかには、他の物を据えることができないからです。この土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」(Iコリント3章10〜13節)

私達は皆、神様の前に出されるときが来ます。その時に違いが明らかになると語っています。木、草、藁で建てた家は燃えてしまいます。しかし金、銀、宝石で建てた家は残ります。しかし幸いなのは木、草、藁で建てた家も土台だけは残ると書かれています。イエス・キリストを信じたという土台だけは残りますから救いはあります。でもそれ以外のものは、みな消えてなくなってしまう。

例えば私達が人に誉められたくてやった行いは、どんなに素晴らしい犠牲や施しがあったとしても、何一つ覚えられません。神様の前にやった事だけが残るのです。私達はこの事をしっかりと覚えなければなりません。神様は侮られる方ではありません。正しい評価をされるのです。私達は日々、神様の愛の中に生きるクリスチャンとして日々の生活を主に従わせて頂く事が大切だという事です。もちろんこれは肉の力では出来ません。自分の力でやればやろうとするほど出来ないと感じます。だから祈る必要があるのです。そして御霊に満たされる時に、愛がなく何も出来ない私達が、喜びをもって出来る者とされていく。これが金銀宝石で家を建てていく事です。私達は日々御言葉を読み、祈り、その罪を悔い改め御霊に満たされて歩んでいく事が大切です。その時に神様は私達に豊かな報いを与えて下さるのです。

神に従う事—御言葉を素直に聞く

「彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送って下さい。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ。父アブラハム。もしだれか死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(27〜31節)

先に黄泉に下った彼が願っていること。それは子孫が幸せになり神様と共に歩む事なのです。先祖が本当に願っているのは、私達が神に従う事であると知って頂きたいと思います。救いというのはそれ程に尊いものなのです。イエス・キリストを私達の“救い主”として信じるならば、アブラハムの懐、否イエス様の懐に行く事が出来ます。でももし信じないならば、行く事が出来ないのであり、これは地上での私達の決断に掛かっているのです。

「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マルコ8章36節)

はどんなに素晴らしい家があろうと、宝石があろうと、否その全てをひっくるめたとしても「あなたの魂の方がもっと大切なのだ」と聖書は語るのです。自分の命がそれ程までに大事であると考えた事があったでしょうか。この事をもっと真剣に考えて頂きたいのです。そして遅すぎるという日が来る前に、このイエス様の救いをしっかりと受けとめて頂きたいと思います。

しかしながら同時に、「彼等にラザロを送り返して皆に伝えて下さい。」と言いました。死んだ者が生き返って伝えれば分かるでしょう。でもその時の言葉は「いいや違う」というものでした。もし誰かが蘇ってその言葉を聞いて信じるのならば、その人は聖書の言葉もまた信じるというのです。私達は復活のイエスに出会ったマタイやルカその他の弟子達の証言を信じ、聖書という書物を通してイエス様を信じている訳です。その証言である聖書の言葉を信じないならば、どんなに蘇った人を見たとしても信じはしない。実際にイエス様が蘇っても彼等は信じようとはしませんでした。

実は私達も奇跡やしるしを見れば信じると、どこか思っている面があると思います。しかし問題は私達の中にある頑なな心なのです。御言葉を素直に受けとめない心、これが私達に御言葉を受け止めさせないのです。私達が本当にここが砕かれていくならば、御言葉も素直に受けとめることが出来、それを聞く事が出来、それに従う事が出来、そして本当にその恵みに生かされる事が出来るという事なのです。私達は聖書の言葉をもっと真剣に受けとめていきましょう。彼等は蘇ったラザロを見ても信じませんでしたが、御言葉を信じないというのはそれと同じ心なのです。

「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そしてあなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8章31〜32節)

御言葉が私達の内に留まりそれを受け取る事が出来る時に、私達は力を頂いて神様の恵みをいっぱい頂く事が出来るのです。御言葉を素直に受けとめて従っていくお互いにされていきましょう。

私達は第1に古い価値観から解放されて神様の価値観を持ち、そしてそれ故にお金やその他のものを正しく用いる事ができますようにと祈っていきましょう。また人の前にではなく、主の前に価値のある生き方、正しい生き方をしていきましょう。

第2に神様は侮られるお方ではありません。私達は自分で蒔いたものを自分で刈り取らなければならないのです。そして頑固な心が砕かれて御言葉を受けとめ従う時に私達は本当に主の僕となり祝福に与っていく事が出来るのです。

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