2002年2月23日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書エペソ4章17節〜5章21節より
牧師 吉田耕三
私たちは、教会の一員とされていますが、それは神様の恵みが満ちあふれるところに置かれているということです。教会を通して神の御技は、今の時代も力強くこの世に働きかけようとされているわけです。この、主にしっかりとつながるということを忘れないようにしたいと思います。
神のような歩み方
そういう中で私たちはこの世にあって、どのように歩むように、と期待されているか、導かれているか、今日の聖書箇所から読ませていただきたいと思います。
「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(17節〜24節)
いつでもいつでも、罪は赦されます。7を70倍するだけ赦すとおっしゃった神様は、何度でも赦してくださいますが、だからといって、もう悪いことし放題し続けていいのだということではないのです。私たちは、絶えず絶えずキリストによって新しくされていく必要があります。22節には、『その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。』と書いてあります。日本語では分かりにくいのですが、ギリシア語では、これは「だんだんと良くなって行きなさいよ」という意味ではありません。「古いものを脱ぎ捨てよ!」「金輪際ビシッと断ち切れ!」と言っているのです。罪に対して、「これくらいいいじゃないか、みんなもやっているじゃないか」と甘いことではいけないというのです。
神様は、私たちが実は「清くなっていくように」と計画して下さり、救ってくださったのです。聖書では、「私たちを、神よりいくらか劣るように造った」と書いてあります。私たちと、天使ではどちらが上なのかといえば、聖書では私たちの方が優れた、大切なものだ、といっているのです。天使というのは、私たちに仕えるために、神様が造ってくださったのです。
だから私たちは、本来あるべき神の御姿、神様のような歩み方に変わっていくことが必要なのです。「でもそんなことできないよ」、それが私たちの本音ですよね。ですが大事なのは、心において、ということです。23節に『またあなたがたが心の霊において新しくされ』とあります。まず、第1は私たちが心の中で「そうなのだ、この生き方はダメなのだ」と自分でハッキリと認識する、位置づけることが大事なのです。できる・できないの問題ではなく、「それは間違っている」と、きちっと認めて、そこに向かっていくことが大切です。そのときにあなた方は、『新しい人を身に着』ていくことができると書いてあるのです。私たちはこの道、この生き方をしっかりと取っていくことが重要です。
それでは具体的に、どうすればいいのでしょうか。以前は『彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。』だったわけです。異邦人は、もちろん神なんかいないと思い、自分の快楽と欲望のために生きています。ですから私たちも気をつけないと、「それでもいいのではないか」「あんまりうるさいこと言わなくてもいいのではないか」、そんな気持ちになってしまうかもしれませんが、そうではいけません。なぜならば、私たちは赦されるだけではなく、清められる、解放されていくことができるからです。それがこれから学ぶことであります。
25節から32節までの箇所ですが、『ですから、あなたがたは偽りを捨て』ですが、あからさまな偽りはあまりしないかもしれません。真っ赤な嘘は、クリスチャンは、ちょっと良心が痛むのです。ちょっとごまかす、そういうことをやめなさいというのです。『おのおの隣人に対して真実を語りなさい。』ですが、これが無ければ私たちは人を信じられません。表と裏と、さらに奥があったりしますと、信じていいのか悪いのか、分からなくなります。私たちは、本当に真実な交わりの中に生きる、クリスチャンや教会は、そういったものはそのような生き方をすべきです。『怒っても、罪を犯してはなりません。』ですが、正義感なんていうものが、私たちの中に燃え上がることがあります。「ああ、もうこれは怒らなければダメだ」などと。聖書には『日が暮れるまで』怒ったままではいけません、と書いてあります。神様からの怒りだったら、そのようにコントロールできるのですが、自分の肉の怒りではダメなのです。それは罪だと認識する必要があります。そして『悪魔に機会を与えないようにしなさい。』ですが、気をつけないでいると、私たちは悪魔にとらえられて、悪い考えを、当たり前のように犯すようになるかもしれません。『盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。』ですが、皆さんは、一度も人の物を盗んだことはありませんか?こっそりと、分からないように、盗みを結構しているのではないでしょうか。あるいは『悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。』、いっさいです。『ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し』ですが、言葉は人を慰めたり励ましたりするためにあるのですが、私たちは裁くためや、責める、罵るために使ってしまうことも多いものです。『神の聖霊を悲しませてはいけません。』ですが、皆さんのうちに聖霊様、御霊なる神様がいらっしゃることを、ご存じですか?皆さんが話す言葉も、なさる行動も、神様は全部見て、知っていらっしゃるのです。では神様を喜ばせているでしょうか。考えてみると、悲しませていることが多々あるのではないでしょうか。『あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。』、皆さんは本当に神の家族、神の僕になっているのです。その証拠が、聖霊様が与えられているということです。この聖霊様を悲しませてはいけません。『無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。』ですが、皆さん、「これは大丈夫」なんて言えますか?この基準でいわれたら、「自分はやっていないことだらけだ」と思われるでしょうが、それでいいのです。「自分がずれているんだなぁ」と認めるところから、私たちは出発するのです。
イエス様と「ずれ人」
「罪」というのは、「ずれ」です。日本人は「罪人」と言われるのが嫌いです。ある先生は「罪人」という代わりに「ずれ人」と言い始めました。本当に私たちは本当にずれっぱなしではないでしょうか。
『ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。(5章1節)』、私たちの基準は神様です。人と比べて自分は良いとか悪いとか、私たちは考えますが、イエス様と比べたらどうでしょうか。イエス様の姿と見比べるとき、私たちは「自分は何という間違った生き方をしてきたのだろう」「何と私は本当に、神様の基準から離れた“ずれ人”か」と教えられるわけです。そして私たちはこのとき正直に認めていくことが大事なのです。
人は、キリスト教はよいことを教えているのだからという理由で、それを守ろうとします。その例が、ローマの7章というところに出てきます。その人は何と言ったでしょうか。パウロ自身の経験ですが、『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(7章24節)』と言っているのです。『私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。(7章15節〜17節)』。自分の力で良いことをしようとしたらできません。
それは、イエス様と比べるときに分かってきます。さらにそれ以降も読んでいきますが、
「また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者——これが偶像礼拝者です。——こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。——光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。——そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」(2節)
私たちは、救われた者です。確かに罪から赦されています。ですが罪の中にとどまっていてはいけません。皆様はキリストの満ち満ちた姿にまで変えられていくようにと、召されているのです。ですから神の御霊様が、皆様のうちに与えられているのです。そのために自分は、ずれていると、祈ることが大切なのであります。では、どうしたらそうなっていくのでしょうか。
「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」(15〜17節)
私たちは、本当に神の御心は何か、御言葉をいつも読んでいくときに、「ああ、自分がずれていた、ああ、自分が間違っていた」そのことに気づかされます。
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(18節)
いくらやろうとしてもできない、そんなとき私たちはそれこそお酒で紛らわしたりします。そんなことではなくて、あなたは神の『御霊』に満たされることによって、新しい生き方をしなさい、それが神にはできますよ、ということです。
「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」(19〜21節)
御霊に満たされるならば、私たちには、『賛美と霊の歌』が出てくるのです。『感謝』が出てくるのです。そして私たちには『互いに従い』、遣えあう力が出てくるのです。
教会以外にこの御霊、新しい神のいのちをいただくすべはありません。どうやっていただくかも分かりません。どうやってその神の御霊によって生きさせていただくか、教えてくれるところもありません。神の真理、神の恵みは、教会の中に満ちています。そして私たちはこの「御霊によって歩む」ということが、ある意味、奥義であり、秘訣なのです。
御霊によって歩む
神の御霊は、イエスキリストを信じるなら、誰のうちにでも与えられます。誰でもキリストのうちにあるならば、新しく作られた者です。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8章1節)
もしあなたがイエスキリストをその罪からの救い主として信じているならば、決して罪に定められることはありません。イエス様を信じると言うことは、すごいことなのです。あなたは永遠にイエスキリストを信じた、その「信仰・救い」は変わりません。そしてそれだけではないのです。
「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8章2節)
私たちは、やろうとしても良いことができないという、弱さや醜さを持っていますが、神の御霊が宿り、神の御霊によって私たちが歩み始めていくときに、その罪に打ち勝っていく力というものが、自分の中にあることに気づくのです。問題は、それをいかにして活用するかだと思います。私たちに何が必要なのかと申しますと、まず、肉によって歩むということの姿を学ぶ必要があるのですが、4節から8節まで読ませていただきます。
「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」(4〜8節)
人より自分が上かどうかとか、そんなことしか考えない、自分でも自分が嫌になってしまうこともあるかと思います。それは皆さんが、肉によって歩んでいるからなのです。ですが、同じ私たちが御霊によって歩むとどうなるかといいますと、ここにありますように、『御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。』となります。例えば、人を赦すのです。愛すのです。人に遣えることが、ごく自然に当然のようにできます。
7節に『というのは、肉の思いは神に対して反抗する』とありますが、皆さんも神に対して反抗する気持ちがありませんか?肉にあってはそれが当然なのですが、もし御霊によって生きていると、そういう気持ちがなくなります。でしたらどうしたら御霊によって歩めるのでしょうか。決して難しいことではありません。
「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。』」(9節)
イエスキリストを信じているならば、その人は御霊の中に生きているということです。神の御霊はそのように私たちの中に来てくださる。妨げている物を取り除けなさい、ということなのです。
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ書5章16節〜23節)
イエスキリストを信じる者は、瞬間にしてこのように変わるのです。今まで妬みにかられていた人が、突然、寛容な人に変わることがあるのです。私たちはここで、神の御言葉をしっかり受け止めて、キリストを信じて、この恵みにともに成長させていただきたいと思います。