2002年2月24日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ17章1節—10節より
牧師 吉田耕三
つまずき—神から遠ざけようとするもの
「イエスは弟子たちに、こう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。この小さい者たちのひとりに、つまづきを与えるようにであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれ等ほうがましです。」(1節—2節)
私が副牧師としてご奉仕をさせて頂いていた時に、あるご婦人から、「私はあなたにつまずきました。」と言われました。一生懸命やっていたつもりでしたので、大変ショックを受けました。でも(仕方がないかな)と思われ、「申し訳ありません。」とお話をした訳です。その時はその姿の中に、ご婦人は後から、「私はもう一度イエス様を十字架に付けたような気がしました。」と言って下さり信仰的に返る事が出来たのですが。それ以後も「つまずきました。」と言われた事が何回もありました。ですから(何度海に投げ込まれなければならなかったか)と考えて読んだ時に、(果たして神様はそういう意味で言っているのであろうか?)と疑問が出てきました。
私達もよく、「あの人につまずいた。」とか「あの人につまずかされた。」とか言ってしまいましすが。その“つまずき”とイエス様のおっしゃっている“つまずき”が同じだろうかという事なのですが。ここの“つまずき”はそういう意味でのつまづきでない可能性が高いと思われるのです。と言いますのは、ここで使われているギリシア語は「スキャンダロス」です。日本語のスキャンダルに繋がっていく言葉がここで使われているのです。元々の意味は動物を捕獲する為、棒に餌をつるしておく“棒”を指しています。そういう所から、私達を“誘惑する”様な意味。私達を神様から引き離させようとする働きにおいてこの“つまずき”が使われているという事なのです。実は聖書には二通りのつまずきがあるのです。一つはイエス様自身も“つまずきの石”だと書かれているのです。
「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、6知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。」(Iペテロ2章6節—10節)
実はつまずく原因は、もちろんその様なスキャンダラスの様な物につまずく事もあるかもしれませんが、それにしても肝心なのは御言葉に従わないという事が大きい訳です。そういう訳で、私達が「つまずいた。」と言う時に、自分が御言葉に従わない故につまずいているのではないかを点検してみる事が大事だという事です。もっと大事なのは自分が他の人のつまずきの石にならないように。その様に注意する事が大事ではないでしょうか?肝心なのは、自分がその様な者にならないという事が大事なのです。
ある有名なリバイバリストが一婦人から「私の主人はクリスチャンなのですが、非常にイライラと怒りっぽく難しい状態。自分ではどうにもならないので祈って下さい。」という内容の手紙をもらいました。それで彼女一人ではどうにもならないので、皆で祈って助けてあげようという事にした。責める意味ではなく「皆で支えあって祈っていきましょう」という意味で、800名程の男性がいる会場で「自分がこのご婦人の夫であると心当たりのある方はその場に立って下さい。皆でその事について祈りましょう。」と言いましたところ、その心当たりのある男性が300人立ち上ったそうです。皆それが(自分ではないか)と思ったという事ですね。私達は怒りや様々なものにより、人々につまずきを与える事がないか?そういう意味において私達は注意する事が必要であると言っているのであります。そういう訳で、私達が「つまずいた。」と言う時は(自分が御言葉に従わない故ではないか)を点検してみる事が大事です。そしてもっと大事なのは怒りや様々なものにより、自分が他の人の“つまずきの石”にならないよう注意する事です。さて、次に
「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(3節—4節)
皆さんはどれ位人を赦す事が出来ますか?ある人があなたの悪口や弱点を攻め立てたとします。暫く経ってからやって来て、「さっきはごめんね。少し言い過ぎたかもしれない。」と言われたら赦せますか?クリスチャンなら(赦さなくちゃ。)と葛藤しながらも赦そうと思うかもしれません。でも暫くして又やって来て、前にも増して悪口や非難をした。そしてまた暫くして、「ごめんね。またやっちゃった。」と言われて赦せますか?多分もう「赦せない。」と思います。ユダヤの諺に「3回赦す事が出来る人は、完全な人だ。」という言葉があるそうです。同じ日に、同じ事を3回赦すのは並大抵の事ではないです。ところがイエス様は3回ではなく“7回”と言いました。“7”という数字は完全を表します。完全に赦しなさいというのです。この言葉を聞いた弟子達は、
「使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、いいつけどおりになるのです。」(5節—6節)
彼等は信仰が増せば出来ると思った訳です。ところがイエス様は『からし種ほど信仰』と言うのです。当時「からし種」は種子の中で一番小さな物でした。あるかないか分からない程の信仰があれば、既に赦せていると言うのです。桑は、根が張っていて掘り出そうとしても中々掘り出す事が出来ない。それが『根こそぎ海に植われ。』と言えばその通りになる。これは比喩表現ですが、信仰の力を言っているのです。彼等は『信仰を増して下さい。』ではなくて、「あなたがたは信仰がないのですよ。」と言われているのです。さらにイエス様はこう言いました。
しもべの立場
「ところが、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野から帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯をしめて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。』」(7節—10節)
奴隷が一日中畑で仕事をして帰って来た時に、主人が「よく働いてくれた。疲れたろう。」とご主人が奴隷の為に食事を用意しますか?そんな事はないでしょう。却って主人の食事を先に整えさせられて、自分の食事は後からしなさい。これがしもべとして当然の仕事でしょう。一体これらは何を語っているのでしょうか。これが“信仰の勘どころ”であり、信仰を持っていても、“ずれ”ていて、なかなか恵みに歩めないという原因になっているのではないかと思います。
まず第一に“つまずく”という事。私達の信仰生活でよく“つまずく”状況が出てきます。私達は「あの人につまずいた。」「つまずかされた。」とよく使います。先程も言いましたように、間違った意味でこの言葉を使っている事が多いのです。ここで言う“つまずき”は罠を仕掛けて、神様から引き離すようなものという意味で使われているのです。
「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行いは明白であって、次ぎのようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ5章19節—21節)
こういうものがつまずきを起こさせる。自分にこれらのものがあるかないかを吟味していく事が必要です。そしてもしこれらのものがあるとすればどうすればよいのでしょう?
「もし罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Iヨハネ1章8節—9節)
霊的に高慢になっている時、私達は自分では(あまり罪はないな)と思います。神様の光が十分届いていないからです。本当に神の光が入って来るなら、私達はいつでも『わたしは罪人のかしらです。』と言えるでしょう。「私は敵意の塊になってしまします。妬みもあります。恨みもあります。そういった物があるのです。」と正直に告白する事が出来るでしょうし、。これが私達をつまずきから守って下さるのです。
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5章16節)
私達はいつでも御霊によって歩む事が大切です。御霊によって歩んでいるなら、御言葉に従うことが出来るのです。反対に御霊に満たされていないので、御言葉に従うことが出来ず、御言葉に従わないからつまずくのです。御言葉に従っていれば、つまずく事はないのです。それどころか、ますます神様の恵みに満たされていく事が出来るのです。私達が“つまずいた”時には、自分が(御霊に満たされていないからではないか。御言葉に従っていないからではないか。)と心を探ってみる事が必要であると思います。
そして次に“赦し”。かろうじて2回までは赦せるかもしれません。これが肉の限界ではないでしょうか。ここで私達に大切なのは、信仰を増すのではなく、“純粋な信仰”を持たせて頂く事です。私達はしばしば自分で一生懸命に頑張って信仰を持とうと思ってしまうのです。そうすると疲れてしまいますい。信じて仰ぎ委ねる事なのです。
「イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18章27節)
今日是非知って頂きたい事は、「私には出来ません。」と正直に告白する事の大切さです。自分の弱さを告白する事を神様は決して嫌われません。逆にそれを喜んで下さいます。でも「自分は弱い。だからもうこのままでいいのだ。」と居直らないで頂きたいのです。そして自分に出来ないけれども、神様に出来るという信仰に立って頂きたいのです。この信仰に立つ時に私達は神様の恵みに与っていく事が出来ます。「私には出来ません。」これは大切な告白です。でもそこで立ち止まらず「神にはどんな事でも出来る。」と言う信仰に是非立ち上がっていきたいのです。
次にしもべの立つべき所を知る事も大切です。私達は何も誇る事が出来ない者です。ただイエス様の憐れみの十字架で赦されただけです。私達も神様によって、何か素晴らしい事をする事があるかもしれません。犠牲の業、愛の業を行うことがあるかもしれません。でもその時に気を付けなければならないのは、(自分もよくやったな)と高慢の芽を育てる事です。「自分は成すべきことをしただけです。役に立たないしもべです。」といつもこの信仰、この姿勢に立ち続けていく事が必要があります。
どんなに素晴らしい事を見たとしても、経験したとしても、それはただ神様があなたに与えて下さった恵みでしかありません。決っして誇り高ぶる事のないように注意していきましょう。これが主のしもべとして歩む秘訣です。御霊に満たされ、神様には出来るのだという信仰、へりくだった信仰にに共に立たせて頂きましょう。