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「主は私の羊飼い」

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2002年3月10日 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書詩篇23編1〜6節より
メッセンジャー仙台福音自由教会高橋勝義執事
誰かが「あなたにとって神様はどの様なお方ですか?」と質問したら、あなたはどの様に答えるでしょうか。詩篇23編の初めには『ダビデの賛歌』と記されていることから、この詩篇の作者がダビデである事が分ります。

私達を導く羊飼い

彼の仕事は羊飼いでした。羊はとても臆病なので、何かに驚きますと衝動的に囲いから出てしまいます。また羊はとても弱く、自分の身を守る事が出来ません。ですから、導く者がいなければ狼等の野獣の餌食になってしまいます。“導くもの”それが『羊飼い』です。昼は餌のある野原に羊を導き、喉が乾けば水のある場所に連れて行きます。羊が草を食んでいる時、水を飲んでいる時、(狼に襲われはしないか)、(迷子にならないか)と気を配りながら見守るのです。日が暮れれば羊を囲いの中に戻し、夜は羊達と共に寝ます。狼が襲って来た時に、直ぐに対応出来るからです。羊の中で寝ていますから、もしかしたら羊の足で蹴られてしまうかもしれません。しかも昼は40度近い暑さ、夜は氷点下20度の寒さに耐えて羊を守る訳であります。羊達は羊飼いが守っているのを知っているので、羊飼いに全てを委ねています。ですから安心して草を食べ、水を飲む事が出来る訳です。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」(1〜2節)

羊飼いとして歩んだダビデは、自分は羊であって、主は私の主人であり、私の羊飼いである事を痛感した様です。かつて自分が羊を飼っていて、そして羊を守っていた様に、自分の生涯を振り返る時に夜昼、また暑さ寒さに関係なく主の愛に守られてきた事。主は常に先頭に立ち自分の進むべき道を備え、導いて下さった事。或いはさ迷っていた時に、主の力強い御手に引かれた事。その時ダビデは主の御手のぬくもりを感じていたかもしれません。主の恵みと憐れみを数えれば数える程、主によって守られてきた生涯である事が分かり、言葉に現せない感謝が沸いてきたのではないでしょうか。ダビデは主に全てを委ねる事こそが幸いな生涯である事。だから『私は、乏しいことがありません。』と語ったのではないでしょうか。そしてダビデは自分の歩みを振り返ります。

「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたがた私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯はあふれています。」(3〜5節)

訓練が平安の義の実を生み出す

ダビデは狼を追い払う為の僅かな道具を持ち羊と共に野原を自由に駆けめぐって生きていました。ところが、突然サムエルという人物が目の前に現れ、神の御心に従いイスラエルの王に任じるのです。そこから全てが変わってしまった。その時の王はサウルでした。サウル王はダビデがサムエルにより油注がれイスラエルの王に任命された事を知っていました。ですからダビデは邪魔な存在です。そこでサウルはダビデの命を何度も何度も狙います。その度毎にダビデは難を逃れていきました。その内にサウルは戦死します。晴れてダビデが王になれると思う訳ですが、王になった途端に敵国の王達から命を狙われ始めた。

『死の陰の谷』を幾度もダビデは歩みました。またダビデは王になって後、部下ウリヤの妻バテ・シェバを奪い、ウリヤを激戦場に送り、彼を殺してしまった。預言者ナタンは激しくダビデの罪を責めました。「どうしてあなたは主の言葉を蔑み私の目の前に悪を行ったのか。」この様に罪を指摘されたダビデの魂はうめき苦しみました。

「私はあなたに、ただあなたに罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」(詩篇51章4節)

ダビデは自分が間違った道に外れていかない為にその懲らしめを思い出しながら、『あなたのむちとあなたの杖』と語ったのではないでしょうか。その痛みがむしろ『私の慰め』になったと言っています。彼はその懲らしめを通して、神様の愛と赦しを味わい知ったのではないでしょうか。

「すべての懲らしめは、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結びます。」(へブル12章11節)

確かに懲らしめは喜ばしいものではありません。(避けたい)のが私達の本音です。しかしこの懲らしめにより私達は信仰が育てられていくのです。神様の赦しを得たダビデの魂は生きかえり、神様の義を本当に知ったのです。ダビデは懲らしめを受けている時でさえも、神様が共に歩んでおられるのを感じていたのではないかと思います。懲らしめる時にも、神様が共におられると実感したからこそ、『あなたがわたしとともにおられますから。』と自らの心を告白しているのです。ダビデは主が自分の羊飼いであるならば、たとえどんな困難や試練が待ちうけていようとも、主の憐れみは決して変わる事がないから恐れないというのです。

「まことに、私のいのち日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつもでも、主の家に住まいましょう。」(6節)

彼の歩みを振り返る時に、この詩篇23編は信仰告白ではないかと思います。主は羊飼いであり、私は乏しいことがないのだ。そしてこの『羊飼い』こそが主イエス・キリストでもある訳です。イエス様は自分でこの様に語られました。

「そこでまことに、まことにあなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。」(ヨハネ10章7〜15節)

羊飼いは「ローイー」という言葉ですが、これは「ローエー」から来ています。意味は「食べさせる」「牧草に導く」という意味です。羊飼いは羊の必要を知り草の所に羊を導き、必要に応じ水を与え、運動させ、休ませます。時には狼に立ち向かい命を投げ出して羊を守る事もあります。羊にとり羊飼いは“保護者”なのです。イエス・キリストはあなたの必要を誰よりも知っています。だから生活に必要なものと共にあなたの魂をも慰め、励まし、力を与える訳です。イエス様は必要に応じてあなたを訓練し間違った道に歩む事のないように御言葉をもって導かれます。しかもあなたを愛する故にあなたをサタンの支配から解放する為にご自分の命を投げ出されました。イザヤは神様に反逆し続けるイスラエル人達に向かい主の言葉を語りました。

「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(イザヤ40章11節)

私達も信仰の道に歩みながら様々な試練に会う時に神様を色々と否んだりする事がある。しかしあなたの状況がどの様であっても、いつでもあなたを御腕に抱いて下さると言っているのではないでしょうか。

「もしも」ダビデがイスラエルの王にならなかったならば、恐らく平凡な羊飼いとして一生を終えたかもしれません。しかしダビデは王になった事により、主が自分にとりどの様なお方であるのか様々な苦しみを通った体験により神様を知る事が出来たのです。その体験から『主は私の羊飼い』と告白したのです。王になる事はダビデにとり、思いがけない出来事でした。私達の歩みは思いがけない出来事の連続ではないでしょうか。自分の思い通りにならない事の方が多いでしょう。そしてその思いがけない出来事が起こる度に、私達は一喜一憂しながら、或いは自分自身の信仰が問われるのかもしれません。

迫害の中にあった兄弟の証しです。「私達から見て思いがけない出来事は、主から見てそれは思いがけない出来事ではありません。何故なら主はずっと前からこの出来事を知っておられて、この出来事が起こることを赦しておられるからです。人の目的は他の人を陥れて自分を誇る為ですが、主の御目的はご自身を現し、主の栄光を現す為です。ですから私達はこの出来事が主から出ているのであれば、決して呟いたり仕返しをしてはいけません。

ただ主が私達を苦しめている相手を憐れみ、祝福して下さる様に。彼等の目を覚まして主に立ち返る様に静かに祈り求めていくのみ。そう信じます。」と相手が主に立ち返る様に祈り信じますと彼は証しするのです。「主が私達の歩むべき道を一歩一歩導いて下さる様に、全ての責任を主が取って下さる事を信じています。主は苦しみの中での私達の助け手だからです。主の真実と約束に心から感謝して」とその手紙の最後にはこの御言葉が引用されておりました。

「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(詩篇42編5節)

彼は思いがけない出来事は思いがけない出来事ではなく神様の赦しの中にあると受けとめたからこそ、相手を思いやり、相手の為に祈ったのであります。パウロはローマの人達に語りました。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8章28節)

先程の証しを読む度毎にローマ8章28節をどこまで真剣になって信じているのであろうかと自分自身の信仰の姿勢が問われるのです。頭では分かっていても次ぎ次ぎに起こる困難や試練。本当に『神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』どれほど主の御手にお委ねして歩んでいるでしょうか。そういった自分の姿を見る時に、ダビデの様にまだ『主は私の羊飼い』になっていないのだと感じます。ダビデは『主は私の羊飼い』と語りました。ではあなたの人生の主人は今誰でしょうか?イエス・キリストでしょうか?それとも自分自身でしょうか?羊は羊飼いの声を聞き分けます。では主人であるイエス・キリストの声を聞き分ける程に私達は親しい交わりがあるでしょうか。どちらかといいますと“主人”は自分ですね。自分の思うままにやり、自分の期待通りにしたいと誰もが思っています。

「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。」(箴言5章21節)

私達の歩むべき道に関心を持ち、心配って下さるのです。あなたの歩むべき道は、神様ご自身が目の前においていてくださり、あなたの道に心配られるのです。だからこそ

「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3章6節)

あなたの道を主が目に留めて心配って下さるので、あなたの行く所どこでも主を認めれば、主があなたの道を真っ直ぐにして下さるのです。私達の歩みには思いもよらない様々な出来事が起こります。その時にあなたの主人は一体誰になっているでしょうか?ダビデの様に様々な困難、苦しみ、死の陰の谷を歩むような状況にあってこそ、彼は主が自分の羊飼いであることを感じさせられました。だからこそ『乏しいことがない』と語ったのです。どうぞ私達もダビデの様に「主は私の羊飼いであり、主が主人であり、乏しい事がありません」と大胆に告白していける者となりましょう。

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