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「その日の備え」

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2002年3月17日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ17章20〜37節より
牧師 吉田耕三

平安時代の「六歌仙」と言われた一人に有原業平がおります。彼がこのような歌を読みました。ついに行く 道とはかねて 知りながら 昨日今日とは 思わざりしを

これは“死”について歌った歌です。何時かは来るとは分かっていながら、まさか今日や明日の事であるとは思わなかった。私達にとっても“再臨”とか“掲挙”等と聞きますと、同じようにいつか来るとは思いながら、でも本当にすぐに来るとは考えていないことが多いのではないでしょうか。聖書は、再臨についてはっきりと知り、備えるべきだと語っています。では本当に「直ぐに来る」と信じて待っているかというと大きな疑問があるように思います。今日はこの箇所を通してその備えをしっかりさせて頂きたいと思います。

日々新たに

「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るのではありません。『そら、そこにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただなかにあるのです。」(20〜21節)

ユダヤ人にとり“イスラエル王国の再興”はダビデ・ソロモンの時代のような素晴らしい国家になる事でした。それが“救い主”が来る時の出来事であると考えていたのです。彼らは、もしかしたらイエス様を“救い主”かもと思いもしましたが、現実には王国の再興は起きていないですから、「何時ですか?」と聞いた訳です。それに対してイエス様は『「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。」』と答えます。目に見える形で来ると彼等は思っていたのでしょう。皆さんはどうでしょうか?“神の国”と言われると「天国の事でしょう」と考える方が多いと思います。しかし“神の国”とは、「神の支配する所」という意味です。私達が“イエス・キリストを信じる”という事は「イエス様の支配に従う」事です。イエス様に従う所、そこが“神の国”です。ですから、神の国は「神様に従っていこう」とする心が“神の国”だと言っているのです。或いはもう一つにはイエス様ご自身が「神の国をもってこの地に来た」とも言えるかもしれません。

私達が知るべき事は、「何時来る」、「どこかに来る」ではなく、“今私達の只中に来て下さっている”事実をどこまで真剣に受けとめているかです。この事を本当に受けとめているか否かが私達の信仰生活に大きな違いをもたらすのです。しっかりと受けとっているならば、そこには感謝が出てくると思います。しかし受けとっていないならば、感謝ではなく何時も物足りなさと不満足感が伴うのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Iコリント5章17節)

(20年前は良かった。確かにあの時は変わったけれど、今もその時のままだ)という人いませんか?これではいけないですね。『日々新たなり』これが神様の約束です。私達はそうなっていけるのです。この事をもっとしっかりと受けとめて毎日毎日神様が共にいて下さり、私達を生かして下さっている“生きた信仰”に歩んでいきたいものです。

再臨のとき

「イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時がきます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。」(22〜25節)

ここは再臨の時を語っているのですが、再臨が起こる前の出来事として、『人の子は捨てられる』のです。私達はこの言葉を重く受けとめさせて頂きたいと思います。神の栄光を持たれたお方が人に捨てられたのです。唾を吐きかけられ、馬鹿にされ十字架につけられました。最期には父なる神様にも捨てられたのです。イエス様は本当に私達の身代わりになられたのであり、それゆえ捨てられたのです。この経験をイエス様は通った故に、同じ悲しみを通った人にも慰めを与えることができるのです。

「人の子の日に起こることは、ちょうどノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」(26〜27節)

これはノアの箱舟の記事です。ノアは神様から「この世には罪が蔓延り滅ぼされなければならないから、大きな箱舟を作りなさい」と命令を受けました。ノアは山上で箱舟を作っていました。皆から「山の上で舟を作って、あいつは頭がおかしくなった。」と言われた。ノアは「もうすぐ大雨が降り、大洪水になるのだから、あなたがたも神様を信じなさい。」と答えますが、人々はそれを信じませんでした。彼等は神の言葉を否定し、神を無視して歩んで来た訳です。そして今の時代も同じだというのです。

「また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降ってきて、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現れる日にも、全くそのとおりです。その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。ロトの妻を思い出しなさい。」(28〜32節)

ロトはアブラハムの甥です。彼は罪に汚れた町ソドムとゴモラの地に住んでいました。余りの罪の為に神様はこの2つの町を滅ぼす事に決めました。しかし神様がアブラハムを愛しておられたので、ロトも破壊から免れる為に妻と娘2人を連れて町を出て行きます。しかし神の言葉を守らなかったロトの妻は後ろを振り返り、塩の柱となってしまいました。この『ロトの妻を思い出しなさい』すなわちこの世に対して私達がどのような態度を取っているか。“執着”これが彼女を塩の柱に変えてしまった原因です。

「しもべは、ふたりの主人に仕えることができません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(ルカ16章13節)

私達は如何でしょうか?もうすぐやってくる事柄が“携挙”といわれます。イエス様が天から再び下って来る時に、イエス様を信じて亡くなった方には栄光の体が与えられ天に引き上げられ、地に残っている私達はその場で栄光の体に変えられ同じように天に引き上げられるのです。私達は今「イエス様を信じて救われている」のですが、厳密には半分だけ救われていると言うことが出来るかもしれません。すなわちまだ完成まで到っていないのです。魂は救われていても、まだ罪の影響を受けた私達の肉は御霊の支配に置かれなければ、罪の支配に陥ってしまうのです。ですから、聖書は何度も『御霊に満たされなさい。』と語る訳です。

地上に生きている間は御霊に満たされていなければ罪や誘惑に負けてしまうのです。しかし御霊に満たされている時、私達も誘惑や罪に打ち勝っていけるのです。ですから日々御霊に満たされる事が必要なのです。そうでなければ勝利の歩みは出来ません。けれどもイエス様が再び来た時には私達の体はイエス様と同じ栄光の体が与えられます。そしてその体はもう決して疲れる事も倦むこともなくなるのです。愛するならば、とことん愛する者になれます。人の為に犠牲を払う事も苦痛ではなくなります。病気にもなりませんし、寝る必要もない。それが聖書に約束されているのです。ですから、再臨はクリスチャンにとり、喜びの時です。でも他の人にはこの時は裁きの時であるのです。

「あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこにはげたかも集まります。」(34〜37節)

これは携挙の事です。ベッドに二人の人が寝ているとイエス様を信じていた人は取られ(迎えられ)、信じていなかった人は残されてしまう。臼を引いている二人の女性も片方は残され、片方はイエス様に迎い入れられると語っているのです。。

いつも備えを

私達はここから3つのことを学ばせて頂きたいと思います。先程も言いましたが、まず、『神の国はあなたがたのただ中にある』この事にしっかりと立つ事が大切です。「あなたはクリスチャンですか?」との質問に「えー、そうらしいです。」これではよくありません。本当に「私はクリスチャンです。」と確信を持って言える事が大切です。そして神の国が「私の中に来ている」と言える所にまでなっていきたいと思います。本当に「主は生きておられ、私と共におられる。主は今ここに来ておられる。」と日々告白できる信仰生活になっていきたいと思います。信仰の目を覚まし、主にしっかりと歩んで行きたいと思います。

二つ目には“油断しないでいつも備えている”事です。マタイ25章に賢い娘達と愚かな娘達の話が出てきます。彼女達は皆が灯火を持ち花婿が来るのを待っていました。賢い娘たちは灯火と共に油も用意していた。愚かな娘達は用意していませんでした。“油”を聖書ではよく聖霊を指す言葉として使われます。花婿が迎えに来た時に、油の用意をしていた娘達は直ぐに迎えに出て行けたが、用意していなかった娘達は灯火が消えそうで迎えに行く事が出来なかった。「油を分けて下さい」と頼んでももらえない。買いに行っている間に、扉が閉じられてしまった。これは何を意味しているのでしょうか。これは再臨を意味している可能性が高いと思います。そしてこの油を用意しているというのは、日々私達が御霊によって歩んでいるかどうかです。主との親しい交わりの中で御霊により歩んでいる。形だけではなく、本当に主に従っている姿が現されているかもしれません。(洗礼を受けているから)、(この奉仕をしている)、(あれもしている)等形だけではなく、日々に私達が神様との生ける交わりの中に歩む事がどんなにか大切であるかと思います。私達の信仰が成長していくなかで、主を愛し、主の為にどんな犠牲でも払えるという信仰になる時にもう躓く事はありません。人に足を踏みつけられても、喜んで「主よ、感謝します。」と言える信仰にならせて頂きたい者です。

私達が切に主を追い求めて行くならば、神様の愛にすっぽりと包まれ、主を愛する信仰に成長していく事が出来ると思います。自分が本当に神様から愛され、聖められ、赦されている。これを受け取っていく事が大事であると思います。その時に私達の中にこの様に愛して下さっている神様を愛したい、この神様に何かをお返ししたい。そういう思いが芽生えてくるのです。これが神様との正しい関係、愛の関係であると言えます。共にこの恵みに進めるように主を追い求めていきたいと思います。

今皆さんは喜んで神様を迎える魂になっているでしょうか?それとも「ちょっと待って下さい。あれも、これもしなければならない。」という気持ちでしょうか。どうしたらそれが断ち切れるでしょうか?一生懸命に切ろうとしても切れません。その方法は神様の愛にすっぽりと包まれる事です。神様の愛が満ちてくる時に、私達が握って離せなかったものを無理なく離す事が出来る様になってくるのです。本当に主を愛する信仰にいたる様に、祈り続け、求め続け歩んで頂きたいと思います。その為に私達自身も祝福され、私達の周りの人々も祝福される歩みが進めると思います。この道を共に追い求めていきましょう。

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