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「受け入れられる祈り」

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2002年4月14日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ18章9〜14節より
牧師 吉田耕三

私たちの信仰生活を妨げるものの一つとして、「高慢」があります。高慢は放っておいても自然にスクスクとよく育ちますし、すぐに実を結ぶのです。そして、高慢は神様の恵みを妨げるのです。今日は、有名なルカ18章のパリサイ人と取税人の祈りの中から、私たちの中に潜む「高慢」と、神様に受け入れられる祈りの姿勢を共に学ばせて頂きたいと思います。

この人が義と認められた

「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』」(9〜12節)

「パリサイ人はどうしてこんなとんでもない事を考えるのだろう?」と思っている方がいたら、実はその方こそがこの”パリサイ人”になっている事に気づく必要があると思います。パリサイ人の祈りは「自分がこんな人(取税人)でない事を感謝します」と感謝しているのですから、一見何も問題がないように見えますが、実は問題のある祈りだったのです。

これに対してもう一つの祈りは取税人の祈りです。当時ユダヤはローマの属国で、税金を納めなければなりませんでしたが、ローマはユダヤ人が敵対心を持たないようにと、ユダヤ人自身がユダヤ人の税金を取りたてる方策を取ったのです。ですから、税金がローマに入ってきさえすれば、いんちきやゴマカシがあっても大目に見ていたのです。時には規定の2倍、3倍の税金を取る事も珍しくなかったようです。ですから「取税人」は「罪人」とほとんどど同じ意味合いの言葉として使われていたようです。彼らにとって、自分が神様から遠い存在であることは自他共に認めるところでした。当時敬虔なユダヤ人は1日に3度、朝9時、12時、15時に祈る習慣を持っていました。宮に行って祈ると、特に祈りの効果があると思われていました。

宮に行ったこのパリサイ人と取税人の二人の姿に目を向けましょう。パリサイ人は『ほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを感謝します。』と祈りました。一方の取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と祈りを捧げました。これは、「自分は神殿に近づく資格のない者だ」と自覚して、神の前に出るにはふさわしくない者であるという思いから生まれた行動だと思います。ユダヤ人は顔と両手を上に上げて祈るのが習慣でしたが、この取税人は顔を天に向ける事すらできないというへりくだった気持ちを持っていました。そして自分の胸を叩き、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と祈ったのでした。この結果の解説が

「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(14節)

でありました。彼らは2人共神様に祈りました。そして表面だけみれば、神様に祈りを聞いて頂くにふさわしいのはパリサイ人です。彼らは非常にきちんとした人です。律法をきっちりと守っていこうとする者、それがパリサイ人でした。かたや、いかにも神様の前にしてはならない事をしているのが取税人です。ですから、どちらの祈りが受け入れられるかといえば、パリサイ人であろうと思うのが当然でしょう。ところがイエス様は取税人の祈りこそが認められたと語るのです。なぜでしょうか。

まず第1に、パリサイ人は神に向かって祈ったというよりも、自分を自己推薦する様な祈りをしたことが挙げられます。神様の前にへりくだった姿ではなく、「自分はこうです」と一生懸命さによって神様に受け入れられ様とする姿があり、さらに他の人を裁く心があるのです。

「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られます。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取りのぞくことができます。」(マタイ7章1〜5節)

私たちの中にも、彼らと同じように「人を裁く心」があると思いませんか?目は外に向いていますから、人のことはよく見えます。ですから、見てすぐに「あの人はこうだ」、「この人こうだ」と裁きが入ってきてしまうのです。私たちにとって、この「裁き」が取り去られることは大変重要であると思います。

梁は建物の柱を支える見えない所にある大きな木です。これが目に入ったまま他人の目の塵を取ろうとする。そんな事をする前に自分の大きな梁を先に取り除けなさいというのです。ここで「人の目の塵を取り除く」のは傲慢であるとは言っていません。まず自分の中の梁(罪)を取り除く事がどれだけ大変なのか、痛みがあるのかを分かった上で他人の塵を取り除けなさい、というのです。私たちの中には高慢な思い、人を裁く思いが自然に出てくると思います。パリサイ人は自分を正しく見る事ができませんでした。

「もし罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(Iヨハネ1章8節)

もし「自分には罪がない。自分は間違っていない。なぜ自分ばかりが?」と言うなら、私たちの内に真理はないのです。「真理の光」が入ってくるならば、私たちの内には過ち、偽り、誤魔化し、色々な罪が入っていることを認めざるをえないのです。

先週の祈祷会に国際飢餓対策機構の神田先生が来て下さいました。かつてはキャンパスクルセード(大学生伝道)に献身して、その責任を持っていまが、転じて貧しい方への働きに移られた時の証しをして下さいました。ボリビアに行かれた事が大きかったそうです。

当時ボリビアでは3年間雨が降らず、穀物の収穫ができない状態でした。雨が降らなくなって3年目に行かれたそうですが、その時に国中に救済センターが設けられました。実はその多くが教会だったそうです。早朝4時から炊出しを始め、食物をもらいに来るインディオ達に配る。日曜日も例外ではなく、まず炊出し、配布をし、最後に掃除をしてから礼拝を始めていました。先生はそれを見ながら「礼拝が第1ではないか。礼拝をしてから炊出しをすれば良いのに」と思われたそうです。また、「給食も大切だけれど、私はやはりディボーションの方が大事だから」と近くの山で聖書を読んでいました。すると「良きサマリヤ人のたとえ話」の中から語りかけがあったそうです。

「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10章36〜37節)

神田先生はその時に「私は伝道者として、み言葉を伝えるために立っているのですから、そういう事は要りません」と、すぐに「はい」とは言えなかったそうです。

祈祷会の中ではビデオも見ました。エチオピアの子供達が地面にはいつくばり何かつまんで口に入れている映像でした。何だと思いますか?石ころです。食物が1ヶ月以上もなく、「柔らかい石」と言っていましたが、拾って食べていたのです。先生は「皆さん、石ころを食べている人達の前で、自分だけ食卓について美味しい物を食べられる人がいますか?できる人は手を上げて下さい。」と聞かれました。「できないですよね。そんなの”人でなし”ですよね。でも私の手は上がっています。」と告白して下さいました。先生は隣で石を食べている人の横で平気で食べ物をパクつく事ができる者であった事を知らされたのです。人には愛を伝え、「こうしなさい」「あのようにしなさい」と言っていたけれども、自分には愛のかけらも無いような人間である事が分かったと、証しして下さいました。「自分の目は呪われた目。自分の手は呪われた手。その様な人達の傍にいながら見えなかった。そんなに弱っている人がいながら、自分の欲しいものだけを手に入れることしか考えていなかった」と告白して下さいました。

「自分で自分の姿が分からない」。これはパリサイ人だけでなく、私たち自身の姿でもあるのではないでしょうか。「自分はこれだけの事をしています。神様どうですか。私を受け入れざるえないでしょう。これだけきちんとやっているのだから。」と自分の行動や行いを誇る姿があったのではないでしょうか。「これだけ一生懸命やっているのに、お祈りしているのにどうして神様は聞いてくれないのであろうか」とか、「どうして神様は応えてくれないのであろうか」などといったパリサイ人の思いは、他でもない「私たちの思い」でもあるのです。

それに対して取税人の祈りは、自分には神様から恵みを受ける資格がない事をはっきりと現しています。すがるのは神様の憐れみしかありません。憐れみがなければ何も頂くものはありませんという態度がはっきりと出ていると思います。私たちはこの中に3つの学ぶべき点があるように思います。

受け入れられる祈りの秘訣

まず最初に、彼は自分が「罪人」であることを認めています。神の恵みを頂く資格のない者を認めています。このようなへり下った心を私たちは持っているでしょうか。本当に神の恵みを受ける資格がない罪人である事を本当に認めているでしょうか。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51篇17節)

私たちは「自分は相応しくない者、砕かれなければならない者」であることを認めた時に、神様は私たちを引き上げて下さるのです。この詩篇51編(ダビデが姦淫の罪を犯した事を神様に悔い改めた時の詩)に何度も出てくる言葉が『私の咎』『私の罪』です。言い訳をせず、自分の咎を告白しています。一言もダビデは言い訳をしません。これは「私」の罪ですと告白しています。

2番目に「罪です」と告白することが挙げられます。私たちは正直に認めるのが嫌です。私たちに必要なのは「ごめんなさい」という心です。これが「私の罪」です。と認めることが必要なのです。

最後に、ダビデも取税人も「神の前」に祈っている事です。「私は罪人です」と神の前に立つ事がなかなかできないのですが、しかし私たちはこの祈りを捧げていく者になっていく必要があるのです。その時に神様は私たちの祈りも喜んで受け入れて下さるのです。では具体的にはどうしたらよいのでしょうか。

第1に、人のせいにしないことです。自分の罪は「自分の」問題なのですから、色々な弁解や言い訳もあるでしょうが、それらを止めて「これは私の罪です」と認めることです。2番目に、その罪を神の前に認めることです。聖書によれば、罪とは「神の戒めを破る」ことです。戒めを守れないのなら、それは罪であることを認めざるを得ないのです。そして大切なのは「神の前」における罪だということです。この世の常識からすれば、罪と思えないことも沢山あるでしょう。しかし、神様の前に罪であるかどうかが大事なのです。そしてもし罪であることを告白するなら、私たちはそこにイエス様を見るのです。「こういうどうしようもない私だからイエス様の十字架があったのだ」。ここに私たちの平安があるのです。私たちが罪を認めれば認めるほど、恵みは大きくなるのです。罪の増し加わるところに恵みを増し加わると書いてある通りです。

ある方は「じゃ、もっと罪を犯そう」言うかもしれません。でもそれは違います。私たちが罪の姿が分かれば分かるほど、「私はこんなに酷い罪人だったのか」と分かるのです。先ほどの神田先生も「自分の目が呪われた目である事が分かりませんでした」と告白しています。「私は神様の愛を日本中に一生懸命に伝道しています」と言い訳をしていたそうです。これをやった、あれをやったと色々と言ったそうですが、「これでは弁解と同じだ」と気がついた時に、自分には愛が全くない事を告白できたと言っておられました。

イエス様は、こういう私たちのために死んで下さったのです。この恵みをしっかりと受けとって、恵みと共に生きていく者となりましょう。神様はそんな私たちを通して、神の御救いの御業をさらに広げて下さるのです。

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