2002年4月28日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ18章15〜30節より
牧師 吉田耕三
今日は「御国でのどんでん返し」とタイトルを付けましたが、「神の世の価値観」と「この世の価値感」が違う、ということをご一緒に学んでいきたいと思います。
子供のように
「イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。とろこが、弟子たちがそれをしかった。しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことにあなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(15〜17節)
イエス様は「十字架の道」へ向かっていこうとしているわけです。弟子たちはそのことを分かっていますから、そんな小さなことに関わっていては大変だと、子供たちが来た時に止めたのでありましょう。弟子たちはイエス様の身をあんじて、子供たちを来させないようにした。しかしそれを見てイエス様は弟子たちを叱り、幼子達を呼び寄たのであります。
高い地位や肩書きを持つ立派な人も、子供にとっては誰でも「おじさん」です。だから失礼なことをしてはいけないと、とどめたりすることもあります。でも子供たちはイエス様の所にさっと行くのです。そしてイエス様は、『神の国は、このような者たちのものです。』と「このように素直に神様を信じ受け入れ求める者。これが神の国に相応しい。」と教えるわけです。大人は「立派そう」に見えて、神様の言葉をなかなか素直に受け取れないのです。素直さがずいぶんと消えてはいないでしょうか。子供は素直に、神様が『わたしの目にはあなたは高価で尊い』と言えば、すぐに「嬉しい」というでしょう。私たちはもっと素直に受け取る事が大切ではないでしょうか。私たちは「大人の方が賢い」と考えますが、御国では幼子の方が神様の前で喜ばれている可能性は大いにあるのです。神様の前にもっと素直に受けとっていく者でありたいと思います。続いて第二の、どんでん返しがあります。
「またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊いお方は、神おひとりのほかにはだれもありません.」(18〜19節)
『ある役人』とは恐らく会堂の役員であろうと言われています。彼はイエス様にそれなりの敬意を払おうとしたのでしょう。当時「尊い」とは神様に対してだけ使っていたようです。イエス様は神様なのですから、彼の言ったことは間違っていない。ではなぜこのように言われたか。それは彼が本当にはイエス様のことを「神」として受けとめていなかったのでしょう。ですからあなたは本当に神に対して言っているか、へつらっているだけかと問い掛けたのでしょう。
「戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについてきなさい。」(20〜22節)
彼は非常に真剣な神の僕であったと思います。皆さんはこれらの戒めをすぐに「守っております」と言えますか?この人は立派な生き方をしていましたが、自分が永遠の命を持っているとは言えない心の空虚感を感じていました。ですからイエス様に『私は何をしたら、永遠のいのち自分のものとして受けとることができるでしょうか。』と聞くのです。イエス様はこれに対して『あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』と答えます。彼は神様の基準で見れば、「戒めを守っている」と言えない者でありましたが、イエス様は「一つだけ欠けたものがある」と彼の言い分も認めていくのです。
その欠けた物は『あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。』
律法学者がある時にイエス様に何が一番大切な戒めかを問いました。イエス様の答えは『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ。』次に大切な戒めは『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』でした。多くの戒めがありますが、それらも「隣人を愛する」という動機からするのでなければ、本末転倒なのです。もしあなたが本当に隣人を自分を愛するように愛しているのであるならば、あなたの周りには本当に飢えている人、苦しんでいる人が多くいるでしょう。その方々に分けてあげてください。あなたが本当に守っているならば、その事ができるはずですというのです。
聖書で語る戒めは「私にはそれはできない」と悟ることなのです。「私にはできない。だから私には救いが必要であるのだ。私は律法を守れない存在なのだ。だからイエス様の救いが必要なの」と聞く必要があるのです。彼も「自分にはできない」と悟るべきだったのです。そして「イエス様、ごめんなさい。どうぞ私も救って下さって、それができるようにして下さい。」と祈る必要があったでしょう。でも彼はただ(できない)と思ってしまった。
「すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(23〜25節)
お金は大変不思議なものです。あればあるほど、出ていかないようにしてしまいます。イエス様がここで言わんとしているのは「お金の魔力」です。金持ちは金に頼り、神様に頼る事ができなくなってしまうのです。目に見える金ではなく、神様を頼りにする事が非常に難しいのです。
「これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(26〜27節)
当時金持ちは、神様から祝福を受けて裕福になったのだから、神様に近い者、天国に近い者と思われていました。しかしその人が「お金」を頼りにしているなら、天国に入ることは難しいというのです。しかし同時に『人にはできないことが、神にはできるのです。』これは金持ちであろうがなかろうが、どんな人であっても、人にはできないが神様にはどんなことでもできるのです、と、この言葉を覚えてさまざまな出来事の中で思い出して下さい。
神様にお返しする
「するとペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の句にのために、家、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」(28〜30節)
ペテロの言葉に普通なら、「了見が狭く貪りの激しい者」と言うかと思いきや、イエス様は何も言わず、『この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠の命を受けない者はありません。』とかえって祝福の言葉としています。ペテロは純粋な思いで言ったわけではないかもしれません。でも事実、彼は捨ててきました。このことを神様は喜んで下さるのです。ではクリスチャンは全部捨てて世捨て人にならなければいけないのでしょうか?意味するのは今自分が与えられているものを「神に委ねる」ことです。「これはもう自分の物ではありません。」とこの世の物に対していったん神様にお返しすのです。このことがとても大切です。そうする時に神様はそれらのものを一番よく用いて下さるのです。そうなっていくために私たちは全てのことをお捧げしていくことが必要なのです。身を切る大変な犠牲を払っていかなければならないようですが、そうではないのです。神様に捧げる時に私たちはもっとも自分が充実し納得する生き方が始まるのです。私たちは全くこれとは違う求め方をしていると思います。子供のようにではなく、少しでも賢そうに見えるようにやってみたり、あるいは少しでもお金を蓄えなくてはとやってみたり。先日国際飢餓対策機構の神田先生は「悪魔の福音」があると話されました。神様の福音は『受けるよりも与える方が幸いである。』ですが、悪魔のそれは「与えるな。全て奪い取れ。もらえるものは全部もらえ」です。私たちも神様の基準に生きたいですね。御国に行った時に「本当にこれで良かった」と言える基準で生きていきたいです。私たちは子供を小さく見るのではなく、子供に学ぶ姿勢が必要でしょう。そして子供のように素直に信頼する心を大切にしていきたいものです。私たちはいったん神に捧げ、委ねる。「クリスチャンはお金持ちになってはいけない」のではなく、それを正しく用いることができるようにさせていただく必要があります。そのためにはいったんお金を神に捧げ、「神様どう使いましょうか?」と聞く時に正しく使えるのです。天の御国に行った時に、「みすぼらしい」という事の無いように、どんでん返しにならないように、神様の恵みに私たちも与っていきたいと思います。