「目を開けて下さい。」

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2002年5月5日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ18章31節〜43節より
牧師 吉田耕三

今日4名の方々の洗礼式を持てた事を本当に嬉しく思います。

その中で私たちは神様の御声をどのように聞き続けていくべきかを教えられたいと思います。前回は金持ちが天の御国に入るのは難しいとお話をしました。金持ちがいけないのではなく、お金に頼ることがいけないのです。お金に頼る時に私たちは「頼るべきお方」に頼れず、その結果として神様の恵みを頂くことができなくなってしまうということでした。この話をした後でイエス様は弟子たちに大変重要なメッセージを語られます。

へりくだり聞く姿勢

「さて、イエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがります。」しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばが隠されていて、話された事が理解できなかった。」(31〜34節)

これは福音のエッセンスであります。これが私たちが寄って立つ信仰の土台です。これから受けようとすることの心の痛みです。イエス様はそれを弟子たちに分かって欲しいと語ったのですが、彼らには言葉の意味が隠されていたので少しも伝わっていませんでした。私たちはこういう時に「何と彼らは愚かなのだろう」と読んでしまいます。こう読むと聖書からは何も学べないのです。反面教師として、「これは自分ではないだろうか?」と考えてみて下さい。私たちも同じことをやっていると思いませんか?神様がいろいろなことをして下さっているのに少しも分かっていないのです。弟子たちは「自分達はイエス様の一番弟子である」と自負心があったと思います。ですから彼らは何一つ分からなくても、「どういう意味か」と質問さえしていません。もしかするとこれは私たちの姿かもしれません。十分に神様が分からないけれども、分かった振りをしてそこにとどまってしまうということです。神の恵み、神の愛、神の力を大胆にまた真実に求めていくことが大切だと思います。

35節からはある盲人の話をルカを持ち出しています。

心も開かれた

「イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群集が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだと、知らせると、彼は大声で、「ダビデの子イエスさま。私をあわれんでください。」と言った。彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。」(35〜40節)

この盲人は道路が普通の状態ではないことに気が付きました。人々がぞろぞろと歩いている音がするのです。何が起こっているのか聞くと「ナザレのイエスが通っている」と教えられました。彼もイエス様の噂を聞いていたのでしょう。ナザレのイエスは盲人を見えるようにし、足萎えを歩かせ、らい病も癒しました。「自分も会ってそのようにしていただきたい」と深い願いがあったであろうと思います。そのイエス様がいるのです。「イエスさま。イエスさま」とすごい声で叫んだと思います。耳を閉じたくなるほどの大声だったでしょう。群集は彼を黙らせようと『先頭にいた人々がたしなめた』のですが、そんなことでひるみませんでした。一生一大のことです。群集の中にあってもイエス様にはこの声も聞き取る事ができました。『彼を連れて来るように言いつけなれた。』、これで第1関門クリアです。彼の心は本当にワクワクしたことでしょう。

「彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。イエスが彼に「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。」(41〜43節)

イエス様は『「わたしに何をしてほしいのか。」』と尋ねられました。目が見えるようになりたいのだと私たちも想像がつくし、そうしてあげようとするのではないかと思います。しかしイエス様はわざわざ「何をしてほしいのか。」と聞くのです。私たちは結構願っているようで願っていないと思いませんか?漠然と「憐れんで下さい。」とか「恵んで下さい。」と祈っています。ですから応えられても、応えられなくてもあまり変わりません。はっきりとイエス様は尋ねられた。すると彼は『「主よ。目が見えるようになることです。」』このことは彼にとっては一番言いたいことではあると同時に、言うことが戦いであったかもしれません。本当に願っていることって案外口に出せないと思いませんか?分かりきっていてもイエス様はこれを言わせたわけです。イエス様が彼の信仰に応えてこのことをして下さいました。自分の目が見えるようになっているのでした。彼は神様を褒め称えざるをえません。そしてこのお方こそ自分が人生をかけて従うべき方であると確信したのでしょう。彼の目が開かれたとともに彼の心も開かれたのではないかと思います。

神を求める秘訣

さて、今日は第一に神を求める姿勢を学ばせていただきましょう。

いつもともにおり、教えをいただける弟子達。でも彼らは『弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。』のです。イエス様と親しくしているようで、イエス様の言葉が何一つ分かっていなかった。もっと問題なのは、「分かりません」と聞くこともしていないのです。弟子たちはイエス様に求めないのです。これ私たちの心に似ていると思いませんか?クリスチャンとして年数が経ってくると「今さらこんなことは聞けない)という思いになってくるかもしれません。「教えて下さい」とへりくだって求めていのです。この盲人のような求めを私たちも持とうではありませんか。そうするならばもっともっと私たちはさまざまな恵みを頂けるのではないでしょうか?この盲人のように他の人が「黙れ」と言っても黙らないで、どこまでも求めていくこういう姿勢を私たちも持ちたいと思うのです。

さて2番目にイエス様は『「わたしに何をしてほしいのか。」』と聞かれました。先ほども言いましたが、私たちは案外大まかな祈りで、具体的に祈ることがないかもしれません。神様は具体的に応えようとして下さっています。神様が自分に個人的に応えて下さいます。そういう神様であることを知ることは大切です。細かく何をして欲しいのかを聞いて下さっているのです。私たちは祈っているようで、ただ思っているだけということが結構あります。嘆きはしても、実際に神様に求めてはいないのです。人に不平や文句はもらすが、神様に祈ってはいない、そしてしばしば本当の心の願いを案外出さないことがあるのではないでしょうか?私たちは「何をして欲しいのか」と分かっていながらあえて聞いて下さる神様を、はっきりと口に出させ、それに応えようとしたイエス様の御心を見たいと思うのです。私たちはもっと具体的に細かな祈りにも応えて下さる主を味わわせていただきたいと思うのです。

そのためには何が必要でしょうか?『「あなたの信仰があなたを直したのです。』、もちろんイエス様が直されたのですが、その原動力は「あなたの信仰」だと言うのです。私たちの中にこの「信仰」を持たせていただき、立たせていただくことが大事ではないかと思います。多くの場合最初から「どうせダメだと思うけど」と疑いながら祈る事が多いかもしれません。神様はそんな祈りでも応えてくれることはあるのですが、でもこれは本筋ではありません。王道は信じて祈り求めることです。神様はその時に応えて下さいます。『「あなたの信仰があなたを直したのです。』、私たちもこう言われたいものです。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(へブル11章6節)

神様を喜ばせるのは良い行いをするよりも、神様に信頼することであるとご存知でしたか?もちろん罪を告白し悔い改めることも喜んで下さいます。それ以上に主に信頼し、期待することを喜んで下さるのです。ですからまず第一に主がおられること、主に求める者には報いて下さることを信じるのが大切なのです。聖書に子供の病気を癒してもらいたくてイエス様に向かい『「おできになりますならばどうか癒してください。」』と父親が頼みます。するとイエス様は「できるならというのか。信じるものにはどんなことでもできるのです。」と言われたのです。私たちもしばしば「おできになるなら」という程度で祈っていることが多いのではないでしょうか?イエス様が言われた「信じるものにはどんなことでもできるのです」、このことを私たちも覚えたいと思います。この時に彼は「信じます。不信仰な私をお赦しください。」と言ったのです。私たちも同じように「信じたいと思いますが不信仰な心も出てきてしまいます。こんな私を赦して下さい。」、これで良いのです。私たちもそこに確信して進んで行こうとしますが、できないのが私たちです。神様が憐れんで信仰を下さるのです。信じる事ができるようにして下さるのです。私たちに今できることは、今信じて疑いを捨てることです。そして神様に信頼しますと告白する時に、神様が信じるようにさせてくださり、御業を成して下さるのです。「人にはできないが神にはできる」、この信仰を持つことです。私たちの目、力、経験では「だめ」と思っても「神にはできないことはない」と信じて栄光を実際に味わっていく者となっていきたいと思います。この恵みを味わった盲人は、喜んで主にお従いしていく者となっていったのです。弟子たちの歩み「真剣に神様に求めていない」、これが私たちがもう一歩信仰が弱い原因ではないでしょうか?私たちは1回、2回で与えられないから諦めないで、求め続け、叩き続けていくのです。そうすると神様が門を開いて下さるのです。信仰を持って神に近づく者を神様は求めておられます。そしてそこに栄光を現して下さるのです。そして神様は地境を広げもっともっと神の御業を体験する者となっていきたいと思います。

最後にもう一つ。弟子達に大切な十字架のことを語りましたが、彼らには何のことであるかが全然分からなかったのです。イエス様は「今は分からないが後で分かるようになります」と言われました。イエス様は私たちのような者にも期待して下さっているのです。イエス様はそうやって待っていて下さるのです。いろいろな弱さがあっても忍耐を持って語り掛けて下さるのです。私たちはこれに応答して「主よ。私たちの心の目も開いて下さい。私も盲しいです。神の愛も分かりません。神様の恵みもごく少ししか分かりません。目を開いて下さい。圧倒される様なあなたの恵みに目を開いて下さい」と祈る必要があるのではないでしょうか?この盲人のように私たちもともに熱烈に主を追い求めていく者とされていきたいと思います。