2002年5月12日 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書ヨシュア3章1節〜17節より
メッセンジャー仙台福音自由教会高橋勝義師
ヨルダン川はパレスチナ最大の川です。北のヘルモン山を水源とし、フレー湖、ガリラヤ湖、そして死海に流れ込みます。ガリラヤから死海までは105kmですが、曲がりくねっているために320kmの長さにもなります。川幅は24mから55m位。深さは1.5mから5m程だそうです。またヨルダン川は水源地から死海に到るまでの高低差が800〜900mといった川です。いまイスラエル人はガリラヤ湖から死海に流れて込むヨルダン川を渡ろうとしています。この川を渡らなければ約束の地に入る事が出来ないからです。しかし川を渡るための橋や船はどこにもありません。この状況で100万人以上の民と数多くの家畜を引き連れて川岸辺近くまで来ました。
「ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょに、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、そこに泊まった。三日たってから、つかさたちは宿営の中を巡り、民に命じて言った。「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」(1〜4節)
ヨシュアは民に川を渡るための橋を作れと命じていないのです。もし橋を作るならば、設計し、木を切り加工し、組立てなければなりません。100万以上の人と家畜が渡るには、1つや2つの橋では一気に渡る事は出来ません。また船を作るようにも命じていません。人と家畜や荷馬車を乗せる船を作らなければならないのですから、かなりの数を必要とします。彼らが川を渡るのは本当に大変な事であると分かると思います。
イスラエルの民はエジプトを出て既に40年の月日が流れています。やっと彼らは荒野から約束の地に進み出しこの岸辺にいるのに、約束の地を前にして、岸辺で長い間待たなければならない状況になった時に、一体どうなるでしょうか?民達は不平不満で満ち溢れ、大混乱に陥るのではないしょうか?しかしヨシュアは毅然とした態度で2000キュビト(約880m)の距離を離れて契約の箱の後ろに従って歩く事をイスラエル人に示したのです。ヨシュアはその理由を『あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。』と説明しています。次に心の備えをする様に命じます。
「ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」(5節)
主の契約の箱が民の先頭に立つとは、神様が進むべき道を整え、これから起こるであろう戦闘に対し神様が戦って下さる事を意味しています。主の契約の箱の後を歩むとは、神様を信頼し、従って歩む事を意味しています。だから身を清める必要があるのです。というのは、荒野で出会った様々な偶像が生活の中に入りこんでいるからです。またヨルダン川を渡らなければ約束の地には入れない。しかしヨルダン川は大きな障害物となって行く先を遮っています。そこで神様は身を清め、各自が信仰の戦いをする心備えをしなさいと言うのです。今度は主の契約の箱を担ぐ祭司達に命じます。
「ヨシュアは祭司たちに命じて言った。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った。主はヨシュアに仰せられた。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』」(6〜8節)
ヨシュアが祭司達に命じた後、神様は契約の箱を担ぐ者達が具体的に何をするべきかを語りました。40年前、紅海の底を歩いてエジプトから脱出した経験をしたのは、ヨシュアとカレブの2人だけです。そこでヨシュアはイスラエル人に語ります。
「見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」(11〜13節)
この時期は、春の雪解け水が流れ込み、水かさが増し、大洪水を起こしそうな勢いです。それなのに、ヨルダン川がせき止められる。現在の川幅より当時は幅広であったと思われます。もしあなたが今にも洪水をおこしそうな川を見たら、川がせき止められると信じる事が出来るでしょうか?人間の理性や常識では考えられない事です。だから信仰の戦いになるのです。
「民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、—ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが—上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。」(14〜16節)
神様の言葉通りにヨルダン川はせき止められ、民は川底を歩いて渡る事が出来ました。アダムの町からエリコまでおよそ25km。その間がせき止められた。川底ですから傾斜であり、でこぼこ道です。女性や子供、年寄りにはとても厳しい道でした。しかも彼らは荷馬車や家畜を引いていかなければなりません。ですから神様は25kmにも及ぶ長い距離をせき止めさせたのです。もし短い距離であれば、皆が集中して混乱が起きてくるでしょう。神様は必要以上の長さを用意され、素早く渡る事が出来るようにして下さった。同時に水がせき止められた時に、水が壁となって止まっているのを彼らは目にしています。言葉通りに主の不思議が成されたのです。約束の地に入るには、必ずヨルダン川を渡らなければなりません。しかしヨルダン川は恐れおののく様な大きな障害物となっていたのです。
このヨルダン川は私達が出会う大きな障害物に例える事が出来ないでしょうか?この障害物を乗り越えなければ、先に進む事は出来ないという事です。もしあなたが自分の行く先を遮っている障害物に直面した時に、どのように対処されるでしょうか?時が解決するまで、ただじっと待つ。状況を詳しくしらべ、乗り越えられそうな方策を考える。色々な考え方があるかもしれません。しかしあなたが本当に信仰者として歩むならば、神様があなたに求める事は、”身を清める”事なのです。あなたが”身を清める”事をしないならば、信仰者であってもただの普通の人と同じです。とするならば、そのような人はこの世の方法を用いて解決すれば良いのです。もちろんこの世の方法を否定してはいません。神様はそれをも用います。それでは信仰者としての醍醐味を味わう事無く人生を終ってしまう事もあるのです。信仰を働かせずに普通の歩みをしていくならば、普通の通りで何でもなくなってしまうのです。あなたは一体どちらを選び取ろうとしているでしょうか?”身を清める”とは、あなたの中にある不信仰な思いを悔い改めて神様に信頼し信じ従う事なのです。
「イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マタイ11章22〜24節)
イエス様は大きな障害物に出会った時に、厳しい修行をしなさいとは言っていません。むしろ心の中で疑わず自分の言った通りに成ると信じる信仰を働かせるようにと言っているのです。『ただ疑わずに信じなさい』非常に簡単で明確に語っています。しかしいざ大きな障害物を目の前にしてしまうと、呟き、疑い、信じられないという心が私達の中に沸いてくるのが現実ではないでしょうか?そんな時に同時に「そうでなくてもという信仰」も与えられるのです。これは「神様の御業が最善であると信じ受け取る信仰」の事です。私達は聖書を読んで結論を急ぎます。簡単に読み解いてしまう事が出来ます。しかしこれから始まる出来事は神様とあなたとの間で新しく作られる物語なのです。障害物に立ち向かっていこうとする物語はあなたと神様だけのものです。ですから、当然筋書きはありません。結論が地上で明かされる事もあれば、天国に行った時に明かされるものもあります。それに障害物を乗り越えれば全てが上手くいく訳ではありません。だから「そうでなくてもという信仰」が必要になってくるし、求められるのです。
現にイスラエル人は約束の地をすぐに手に入れる事は出来ませんでした。彼らを待ち受けていたのは戦い慣れしていた戦士と数多くの戦車でした。彼らは100万人でしたが、武装をして入った訳ではありません。しかし神様が先頭に立ち共に戦って下さったので勝利を治め、約束の地を手に入れる事が出来たのです。主の契約の箱が先に立つとはそういうことです。
「ヨルダン川を渡れ」すなわち、あなたの周りに立ちはだかっている大きな障害物に立ち向かえと神様は語るのです。それは神様とあなたとが作る新しい物語の始まりです。しかも筋書きはありません。あなたの前に真っ白な紙があります。神様とあなたがそこに物語を書いていくのです。でもその前に必ず神様の前に静まり身を清める事を忘れないで下さい。また大きな障害物を乗り越えたからといって、全てが上手くいくのはない事も同時に知っておく必要もあります。しかし恐れたり不安になる必要はありません。なぜならば主の契約の箱が先だっていくという事は、神様が私達の前に先だって歩き、私達の行くべき道を備えて下さるからです。私達が戦う以前に既に神様が戦っていて下さっている事を聖書ははっきりと語っています。ですから、恐れる必要はなく、神様に従い信頼して歩めばいい訳です。どうぞこの神様の不思議な御業を共に見たいと思います。是非あなたの前にある新しい物語を今日から作っていこうと願うものです。