「聖霊降臨!」

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2002年5月19日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書使徒2章1節〜21節より
牧師 吉田耕三

今日は「ペンテコステ」と言われる、教会の1つの記念日です。ユダヤの「過ぎ越しの祭り」から50日経った、「五旬節」といわれる収穫の感謝をする祝いでした。ところがイエス様が十字架に掛かられて50日経った「五旬節」に驚くべきことが起こりました。

聖霊を受ける

「五順節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(1〜4節)

「神の霊が人間に下る」という驚くべき出来事が起こったのです。それも特別な人たちではなく、「誰にでも」です。イエス様を信じる11人1人の所にその舌が現れていたのです。そのようにして、異国言葉で話し出しました。「異言」と言われる現象がここで起きました。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリやの全土、および地の果てにまで、わたしの証人になります。」(使徒1章8節)

聖霊が私たちに下ると力を得るのです。弟子たちはイエス様が捕らえられた時、ペテロは相手に切りかかったのですが、その後皆逃げてしまっいました。口では立派なことを言っていても、いざとなったら逃げてしまう弱々しい人間でした。イエス様を知っていても弱いのです。だから神様は聖霊を注ぎ、その時に彼らは力を受けたのです。

皆さんはこの力にあずかっていますか?「私もイエス様を信じたはずだが、あまり力を受けていないな」と思っている方はどうぞもう一度しっかりと耳を傾け学び、御霊によって力を頂けるクリスチャンになっていこうと決意していただきたいと思います。

私たちが知らなければならないことは、どうしたら聖霊を受けることができるか?、ということです。自分が聖霊を受けているかどうか不安だという方。どうぞ覚えていただきたいと思います。

「さて、祭りの終りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれてうなかったからである。」(ヨハネ7章37節〜39節)

聖霊を受ける条件は「イエス様を信じるかどうか」です。「自分は確かに罪人だ。汚れ果てている。傲慢にも神様から離れきっている。だから私は相応しくない」と思っている方でも、イエス・キリストを信じるならば、その人は正しくこの条件に合うんです。『だれでも渇いているなら』そして『わたしを信じる』ならです。それでも不安な方は次の箇所を読んで下さい。

「ですから、私は、あなたがたに次ぎのことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(第1コリント12章3節)

イエス様を「主」と告白できるならば、あなたの内に聖霊は来ていますと語られているのです。なぜしつこく言うのかといいますと、私たちがそれを知っているかいないかで歩み方に大きな違いが出てくるからなのです。私たちが自分の内に聖霊が宿っていると知ると生活がずいぶん違います。信仰を持って受け取る時に私たちが変わっていくのです。力を受けるにはこのことをしっかりと信じなければなりません。それでも不安な方には、

「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11章13節)

これでも不安なら「聖霊を下さい」ともう一度祈ったらよいのです。神様を信じて「聖霊を下さい」と祈れば間違いなく下さいます。でも聖霊をが与えられることと、聖霊に満たされることは別です。私たちで「イエス様を信じたはずなのに、力を受けていない」と思われる方は、実は聖霊に満たされていないのです。ではどうしたら聖霊に満たされるのでしょうか?

聖霊に満たされる続ける

「 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5章22節〜23節)

私たちが本当に必要としているものが全部入っているのではないでしょうか?私たちは富を得ても、地位を得ても虚しく、心は満たされなません。しかし私たちの心に、「愛」「喜び」「平安」などが満ちたらいつでも喜び感謝できます。私たちに必要なのはこの「聖霊の実」であるのです。御霊に満たされていくと私たちはこの実を結ぶことができるのです。そう聞いていても「私にはその実が結ばれていない」という方は、

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結びものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(ヨハネ15章1節〜2節)

これは自分自身が切られのではなく、私たちの不要部分を剪定していき、多くの実を結ぶ者にして下さるのです。そうするにはどうする必要があるでしょうか?

「しかし、今——主の御告げ。——心を尽くし、断食と、涙と、嘆きをもって、わたしに立ち返れ。あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。主が思い直して、あわれみ、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう。」(ヨエル2章12節〜14節)

神様の前にへりくだり、悔い改めさないということなのです。ユダヤでは自分の罪を悔い改める時に着物を引き裂き、神の前に自分の心をへり下らせていますと表すのです。しかし形だけそんなことをしても意味がありません。着物ではなく心を引き裂くようにと言うのです。

自分の本当の愚かさや惨めさを正直に告白しなさいというのです。イエス様を信じていもいつの間にかふたたび自己中心の生き方になっていることに気がつくことはありませんか?私たちは自分が良いと思って歩んで来たが、それは間違っていたことに気付き悔い改め方向転換するのです。自分のことばかりを求める道を悔い改め、神のために生きる生き方に方向転換する時に私たちの中に非常に充実した「このために私は生かされているのだ」ということが分かってくるのです。私たちが神様に立ち返ってくる時に、御霊は豊かに注がれるのです。

私たちも心を引き裂き、神の前に本当にへりくだり、自分の傲慢やいい加減さを認め「自分は相応しくない。私を変えてください」と祈っていくことが必要ではないでしょうか。

中には「私はもう何年もクリスチャンである」、そこに留まってしまい、カラカラになっている自分の状態を謙遜に認めることは少ないのではないでしょうか?「私の心にはあなたへの喜び、愛がありません。あなたへ従っていく力もありません。他の人を気遣っていく愛もないのです。自己中心の塊になっています。神様の子供とは言えない者です。」と告白することが必要なのです。そうするなら、神様は私たちの中に入り、恵みを成して下さるのです。どんなに私たちが神様から離れていようとも、神様は恵みを下さるのです。イエス様の恵みはどんな人にも注がれています。私たちが自分が罪人であること、そのためにイエス・キリストが十字架に掛かられたこと、今までの人生のあり方が間違っていたことを認めて自己中心の生活を改め方向転換をするその人の上に神の聖霊は下るのです。私たちも御霊に満たされ、神様の恵みにあずかっていきたいと思います。