「こんな人の所に!」

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2002年5月26日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ19章1節〜10節より
牧師 吉田耕三

聖書を読むと「お金持ち」のことをよく言っていないと思える箇所が出てきませんか?

前回もルカ18章24節『裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうもっとやさしい。』と金持ちは天国に行けないと思わせる言葉です。これは金持ちがいけないという意味ではなく、「金持ちはついつい金銭に頼ってしまう。頼りにならないものではなく、本当に頼りになるべき方を頼るように」と言っているのです。そういう中で今日の箇所は反対に「金持ちでも救われる」という例です。取税人ザアカイの話しとして有名な箇所です。今日はこのことを神様の側から少しみてみたいと思います。

喜んで神様を迎える

「それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いつじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」(1節〜6節)

エリコの町はヨルダン川沿岸にあり交通の要所でした。非常に豊かな場所で税関が置かれていました。その税関の頭が取税人ザアカイです。「ザアカイ」は「義」という意味です。当時「取税人」はユダヤ人からは売国奴と思われていました。ローマ人が直接税金を取り立てず、ユダヤ人に税金を取りたてさせました。その代わりにローマへ一定の税金を支払えば、いんちきやごまかしは大目に見ていました。ですから「金が全て」と思った人達は、取税人になった訳です。なぜ取税人が金持ちなのかでしょうか?酷い時には規定税の2倍、3倍を徴収するからです。ですから、売国奴や罪人と思われていました。こんなことをずっとやってきたザアカイでした。「神様なんか関係ない」というのが、彼の生き方であったと思います。しかし彼の心はそれだけで満たされなかったのです。いくら自分の心をそう言い聞かせても、どうしても心の中で「何か違う」と本物を求める気持ちが起きてきました。特にイエス様が来られたことを聞いて、自分の中にあった清い神を求める純粋な心が強くなっていったと思います。このイエスを見てみたい、会ってみたいと思ったのです。群集が集まっています。そこにザアカイも来ました。彼は背が低かった。ですから前の人が邪魔で見られませんでした。そして前方のいちじく桑の木によじ登ることを考えついたのです。そこにイエス様が向かって来ます。ちょうど木の下で突然止まり『「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」』と言われたました。自分の名前を知っているはずのない人に呼ばれたら驚くでしょう。この時彼は、急いで降りて来たのです。ここにザアカイの気持ちが現われているように思います。今までは「俺は取税人だ。神など関係ない」とそんな生活をしていましたが、本音は飢え渇いて、他のものでは潤せないことを感じていたのではないかと思います。そして自分のプライドや経歴など関係なく、大喜びでイエス様を迎えました。ところがこれを見ていた人々は、

「これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムのこなのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(7〜8節)

イエス様がザアカイの所に泊まることは、人々には理解できなかったと思います。彼らはつぶやきました。ところが、ザアカイは『財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』、これはなかなかできることではありません。「金」のみで生きてきたザアカイが貧しい人たちに半分与え、騙し取ったものは四倍にして返すのです。これはユダヤの律法に騙し取った際の返却の規定が決められています。でもこの「四倍」は規定を越えています。律法が教えるからではなく、自分から進んでこうしたいと思ったのがこの決断であったのです。彼は自ら喜んで、イエス様に喜ばれる者となるためにしたことです。エリコの中で一番神様に遠いと思われていたザアカイに救いが与えられた。こういう人を救うためにイエス様は来たのだと語るのです。

選ばれた私たち

今日私たちは何を学ぶことができるでしょうか。この救いは神の業であることをはっきりと覚えたいのです。確かにザアカイが熱心に求めたのもあるかもしれませんが、こういう人が救われるのは本当に難しいのです。最初にお話しましたが、

「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18章25節〜27節)

この実例がザアカイなのです。イエス様は金持ちが救われるのは難しいと言いました。ザアカイの場合は二重に難しいのです」。金持ちであること、それから神など関係ないという生き方をしてきました。エリコ中で一番救われ難たかったのは恐らくザアカイであったと思います。『人にはできないことが、神にはできるのです。』、私たちがこのことを信じるならば、祈るのです。だから一歩踏み出すのです。「私にはいくら伝えてもできないけれども、神にはできる」という信仰を持っていろいろな人が救いを受けられるようにともに祈っていきたいのです。

『人にはできないことが、神にはできるのです。』この事をしっかりと覚えておきましょう。

さらにもう1つそのことは「自分」にも言えるのではないでしょうか?今日のテーマは「こんな人の所に」です。「こんな人の所」とはザアカイの所です。でもよく考えてみると私たちも神様の前に出ると自分もそういう者であると思いませんか?「こんな私の所にイエス様は本当に恵みをくれるのであろうか?」「こんな私の祈りでも神様は聞いてくれるのであろうか?」「こんな私を赦して愛してくれるのであろうか?」、皆さん「こんな人」の所に来たのです。恵みが溢れたのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました。」(第1コリント5章17節)

もし私たちがイエス様を信じるならば、新しく生まれ変われるということです。神様は私たちを造り変えることができるのです。自分の力では変えることはできないかもしれませんが、神にはできるのです。「この私でも変われるのだ」、ここに立っていただきたいです。今がどうであれ関係ありません。神の業がザアカイの上に現われたのです。私たちもザアカイのように新しくなれるのです。どういう者であったとしても新しくなれる希望を与えて下さるのではないでしょうか。神様の業なのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めたものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(第1ヨハネ15章16節)

私たちは自分で信じたように思いますが、背後を見ますと、神様が信じることができるようにして下さったのです。例えばザアカイへの『きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』、他人の家に泊まることをイエス様が決めているのです。こうまで言われなければザアカイはイエス様をお迎えできたでしょうか?お迎えできるように全部イエス様が備えて下さいました。ですからザアカイは喜んで迎えたのです。私たちには分からないさまざまな形で働いて神様を信じることができるようにして下さった。今こうして神様のことを聞くチャンスをさまざまな形で備えて下さりそこに進めるようにして下さったのです。神様が導いて下さっているのです。私たちの救いは神から発しています。だから安心なのです。皆さんが勤勉かどうか、あるいは素晴らしい人間かどうか、そういったことによって救いが得られたり、得られなかったりと思いがちですが、そんなことは関係ないのです。神様の方から私たちに近づき、できるようにして下さいました。だから私たちは救いを安心して受けることができますし、休らぐことができるのです。

それでは、ザアカイが他に成すべきことは何もなかったのでしょうか?素直に「神様の申し出を受けとめた」、これがザアカイの素晴らしかった所です。彼はイエス様を喜んで迎え入れました。私たちは神様の差し出して下さるものを素直に喜んで受け取るのです。その時に私たちに変化が起きて来るのです。金の亡者であった、ザアカイが喜んで貧しい人に施すことができたのです。彼には考えられないことでした。強制されても多分しなかったと思います。自分の喜びを、嬉しさを「何かに変えたい」と考えたときにイエス様に対する応答がこの言葉になったのではないかと思います。私たちが素直にイエス様の差し出される言葉を「ありがとうございます」と受け取る時に私たちの内に変化が起きてくるのです。私たち1人1人にその恵みを差し出して下さるのです。問題は私たちがそれを受け取るか否かです。受け取る時に、それが私たちのものになるばかりか、造り変えられていくのです。自分の考え方や感じ方まで変わっていく恵みを受けることができるのです。そしてイエス様はこの時に『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。』と言われました。聖書は彼を『失われた人』と表しています。私たちはお金や地位を求め、それらを持てば幸せになると思っていますが、神なしでそれらだけを求めた人生を送る人を『失われた人』と言うのです。私たちはそういったものをいくら求めても本当の満足、生き生きとした人生は生きられないのです。ザアカイはそれを持っていましたが、心の中に否定しがたい虚しさや不安などがあったのでしょう。しかし彼が神様の所に返った時に、そんなもので自分の身を守る必要を感じなくなったのです。神様がともにいて下さるという安心感が、それらのものに執着する必要がなくなりました。神から離れた人生は失われた人生なのです。ザアカイがイエス様に出会った後の人生を見たなら正しい素晴らしい人でしょう。私たちも神様に立ち返っていくならば、そういう人生になっていけるのです。そしてイエス様はその失われた人を探して救うために来たことを体得していくことができるのです。ともにザアカイに習う者になっていきたいと思います。神様があなたのために救いを用意して下さったことを知る、あなた自身に自分を救うことはできないかもしれません。もしかしたらイエス様を信じ続けることすらできないかもしれない。それでもいいのです。なぜなら救いは神から来るからです。私たちはその都度イエス様が差し出してくれたものを受け取ればいいのです。大喜びで差し出されたものを受け取ればいいのです。本当に豊かな人生を味わうことができるのではないでしょうか。そのようにイエス様と交わっていくときに、イエス様のお約束を受け取る時に彼が変えられたように、私たちも真にいのちがみなぎる人生を歩んでいきたいと思います。