2002年10月13日 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書ネヘミヤ記1章1〜11節より
メッセンジャー仙台福音自由教会高橋勝義執事
もしも誰かに「あなたの宝物は何ですか?」と聞かれたら何と答えるでしょうか? その宝物を「これです」と見せた時に、「これが宝物?」と思われる物かもしれません。しかしその宝物には色々な思いが詰まっているのですから、たとえどんなにお金を積まれたとしても、決して売る事はしないでしょう。この世における評価で、「これは宝物。これは違う」と言う事はできないように思います。本人にとりそれが大切な物であるなら、やはり「宝物」なのです。大切にしている宝物を誰かに壊されたり、捨てられたら悲しいでしょう。そして壊した人に声を荒立て、怒りを撒き散らし、壊れた物を一生懸命に集めて元の形に修復する努力をするのではないでしょうか。あるいは捨てた場所を聞き出し、飛んで行って拾ってくるのではないでしょうか。たった一つしかない宝物であるからこそ、そこまでするのです。廃墟となっている神殿
今からおよそ2590年前です。バビロン王ネブカデネザルがユダの王ゼデキヤの時代にエルサレムを攻撃しました。ゼデキヤはバビロン軍との戦いに敗れエルサレムは廃墟となってしまいます。この時からイスラエルの民は「放浪の民」となったのです。その後神様はエレミヤの預言を成就するため、ペルシャ王クロスを用いてイスラエル人をエルサレムに帰し、神殿を再建するように命じます。
「ペルシャの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分の宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とおられるように、その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。」(エズラ1章2〜3節)
各王国にはその王が信仰する神々があり、その神々の神殿を建てられています。しかし自分が征服した国にその民たちを帰すのは分かるのですが、「神殿を建てる」ということは、その国の象徴にもなり、もしかしたら謀反を起こされるかもしれない。でも神様は不思議にクロス王を用い神殿再建を命じる訳です。おそらくイスラエル人は喜んでエルサレムに帰ったでしょう。そして早速神殿再建を始めたのです。ところが様々な妨害に会い、いつのまにか再建が中止されてしまいました。それも長い間です。神殿は荒れ果てたままになってしまったのです。この時に、預言者ハガイが民たちに語ります。
「万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。」ついで預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。「この宮が廃墟となっているのに、あなたがたが板張りの家に住むべきであろうか。今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、穴のあいた袋に入れるだけだ。万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。」(ハガイ1章2〜8節)
自分たちがエルサレムの地に戻されたのは神殿を再建するためであった。確かに彼らは再建しようとしましたが中止され、いつの間にか自分たちがなぜこの地に戻されたのかを忘れてしまったのです。自分たちの生活が豊かになるにつれて、自分のことだけを考えるようになっていったのです。彼らが住んでいたのは砂漠地帯ですから、『板張りの家』の木を集めるのは大変なことだったのです。しかし、その時点で彼らはそれが可能なほど裕福な状況になっていました。しかし、彼らは自分の生活を守るために腰を据えてしまったのです。 その現状に対し、神様はハガイを通して「あなたがたはなぜいまこの所にいるのかを考えなさい。あなた達は何をするべきなのですか」と訴えたのです。イスラエル人は主の言葉に励まされ、もう一度神殿再建に乗り出しました。様々な困難や妨害を乗り越え、遂に念願の宮を再建する事ができたのです。彼らは喜んで主を礼拝しました。しかしこの時に、全てが完成したかまでは分かりません。なぜなら今日のネヘミヤ記の聖書箇所には「エルサレムは廃墟のままである」と伝えているからです。
「ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。すると彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常に困難な中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」(1章1〜3節)
この知らせを受けた時にネヘミヤは嘆き悲しみました。自分の都がいまなお廃墟のままである・・・。その事に彼は心痛めたのです。でも彼はいつまでも嘆き悲しんでいた訳ではありません。この知らせにより彼は一つの思いが与えられるのです。そしてその思いを実現すべく神様に祈りました。
「私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪にふくして、断食して天の神の前に祈って、言った。「ああ、天の神、主よ。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜わる方。どうぞあなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私があなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした。」(4〜7節)
彼は国が滅んだのは「先祖たちが神様に従わず、神様に背いてしまった事が原因」と告白するのです。ネヘミヤは「先祖が悪い」と言うこともできたのです。しかし先祖の罪はむしろ自分の罪として受け取り、罪の告白をしました。ここから彼は主の約束に期待し主に懇願するのです。
「しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じなったことばを、思い出してください。『あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行なうなら、たとい、あなたがたのうちの撒き散らされた者が地の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れてくる。』と。」(8〜9節)
「ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の間に、あわれみを受けさせてくださいますように。」そのとき、私は王の献酌官であった。」(11節)
彼は悔い改めと同時に、「立ち返るならば神様は元の所に戻して下さる。」この約束に信頼し神様に願うのです。というのは、ネヘミヤは今奴隷の身分です。奴隷にもかかわらず、神様の約束を信じ、神様の御言葉に期待し、主がなして下さる事を信じてこの祈りを捧げる訳です。その祈りを終えた時に、彼は王の前に出て願うのです。
「王に答えた。「王さま。もしよろしくて、このしもべをいれてくださいますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある町へ送って、それを再建させてください。王は言った。—王妃もそばにすわっていた。—「旅はどのくらいかかるのか。いつ戻ってくるのか。」私が王にその期間を申し出ると、王は快く私を送りだしてくれた。」(ネヘミヤ記2章5〜6節)
奴隷が王に願い事をするのは大変な事です。にも関わらず彼は自分の思いを素直に王に願っています。神様の不思議な計らいにより、アルタシャスタ王はネヘミヤの願いを聞き入れ、彼は早速エルサレムに帰ります。エルサレムはネヘミヤにとり、宝以上のものでした。そのエルサレムが廃墟のままなのですから、彼は嘆き悲しんだのです。しかもエルサレムを元通りにしたいという思いが与えられ、自分の置かれている状況を顧みず、主の約束に信頼し主に懇願したのです。エルサレムは主の住まいであり主を礼拝する所です。神の民であるネヘミヤが主の宮を再建したいと願うのは当然かもしれません。では新約の今に生きている私達にとっての“主の宮”とは一体何でしょうか?
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリントI 6章19〜20節)
ここにははっきりとあなた自身が「主の宮」であると語られています。「主の宮」ならば、あなた自身が「主の住まい」です。果たして主の御力が私達を通して現われているでしょうか? 廃墟になっている事はないでしょうか? 今朝主はあなた自身が「主の宮」となっているのかを問い掛けているのです。では、私たち自身が「主の宮」となるためには、どうすれば良いのでしょうか?主の宮である事の備え
「悪魔の策略に対して、立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(エペソ6章11〜18節)
『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』とある様に、私達の力では到底勝ち目はない事をはっきりと自覚するべきです。もしも自分の力で立ち向かおうとするならば、エルサレムが廃墟となったように、私達もサタンの餌食になってしまうでしょう。身も心もぼろぼろになり、信仰も危うくなってしまいます。しかし、私たちはそれでも自分の力に頼ろうとするのです。ところがサタンは「欺く者」という名前も持っていますから、私達のプライドを傷つけない様に、実際にはサタンが勝っているのに、さも私達が勝ったかの様に思わせる事があるのです。その時に私たちは自分が「主の宮」となっている事を見極められなくなってしまうのです。更に「偽りの勝利」でも、自分は「勝った!」と思っていますから、勝利の喜びがいつのまにか傲慢に変わってしまうのです。このように、サタンはあなたが御言葉に信頼し従う事をやめさせ、神様から離れさせようとするのです。自分の力で勝ったのなら「私もまんざらではない。戦えるのだ」と神の武具を身につけないのではないでしょうか?あなた自身が「主の宮」であるためには、『神のすべての武具』を身につけ歩んでいるかどうかを点検し、もし破損している部分があるなら大至急修復する必要があるのです。あなた自身が「主の宮」であること、そして「主の宮」は絶えず悪魔から攻撃をされている事も忘れないで下さい。敵はあなたよりも遥かに大きな力を持っているのです。あなたが自分の力で戦うならば、すぐに廃墟となってしまいます。悪魔に勝つ為には『神の武具』を身に付ける必要があるのです。『腰には真理の帯を締め』すなわち御言葉に堅く立つ。これが戦う基本です。それから『正義の胸当て』を着け、『平和の福音の備え』を履く。これで戦う準備ができました。準備ができた所で、敵が放つ全ての矢を跳ね返す事のできる『信仰の大盾』で色々な誘惑や攻撃から守られます。しかし、守るばかりではなく、攻撃をしなければなりません。その際には『救いのかぶと』をかぶり、『御霊の与える剣である神のことば』を受け取らなければならないのです。自分の力に頼る事をせず、どんな時にも神様の御言葉により祈る事が必要であるという訳です。そのためには『絶えず目をさましていなさい』といわれています。自分のためだけではなく『すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし』、他の人の為に祈ることも勧めています。一人だけで戦うのは辛いでしょう。でも兄弟姉妹がお互いに共に戦うのです。主にあり戦っているのですから、その事を共に分かちあい祈り合う事が大切なのです。その時に真に神様の栄光を現わす事が出来る様になっていくのです。サタンは私達の弱い部分をよく知っています。その弱い所につけ入ってきますから、くれぐれも気をつける必要があります。さて、あなたは「主の宮」となっているでしょうか?もしも「主の宮」となっていないとするならば、どこに問題があるのでしょうか?またどこを修復する必要があるのでしょうか?今朝主は一人一人にあなたが「主の宮」である事を覚え、その宮がどうなっているのかを問い掛けておられます。自分の姿を正しく見る事ができる様に、主の前に応答していきましょう。