2002年10月27日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ15章1〜17節より
牧師 吉田耕三
年数というものは、自然に流れていくものです。しかし同時に、神様が与えて下さったを良き事を忘れてはならない、と聖書が語っている事をも覚えたいと思います。今から13年前に北中山(現在の教会より1km程度の場所)のコンラッド宣教師の自宅で家庭集会が始まりました。コンラッド夫妻、ベラ宣教師、そして私達夫婦でした。それから13年が経ちましたが、これを人にたとえるならば「子供から大人に変っていく時期」といえるかもしれません。形だけでなく中身も成熟に移っていく時期に来ていると思います。私達は新しい年に向かいどの様に歩むべきか、神様に御言葉を求めて祈る中で、ぶどうの木のたとえを思いました。今日は、私達がもっと大きな実を結ぶためどう歩んでいくべきなのかを、この御言葉から学ばせて頂きたいと思います。
豊かな実を約束する剪定
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」(1〜3節)
「ぶどう」は聖書の中では特別な意味があります。イスラエルの事を神様が「純粋種のぶどうの木」と言った箇所があります。神様がエジプトから連れ出し、カナンの地に良い純粋なぶどうが生えるようにと植えたのに、そこからできたのは腐れぶどうであった。本物ではなく偽物であった、というのが旧約聖書で言われている事です。イスラエルの民は神様が願ったようにはならなかったけれども、イエス・キリストは『まことのぶどうの木』、神様の純粋な実を実らせるぶどうの木であると語っているのです。そして『わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。』とあります。枝を広げすぎると実は多くは実らず、幹を切るとそこから枝が伸び、実が生るのだそうです。その作業をするのが「農夫」である父なる神様です。
私達はイエス様(ぶどうの木)につながる「枝」です。神様は私達を通して豊かな実を結ばせようとしておられるのです。そのために神様は様々な配慮、剪定をしているということなのです。『父がそれを取り除き・・』という言葉を見て「私は余り実を結んでいないから取り除かれてしまうのかしら」と思うかもしれません。ぶどうを育てていると、去年の枝がたくさん残っています。それを取り除かないと、どこが新芽か分らなくなってしまいます。この箇所はそういう事を言っている可能性もありますし、最近出版された「ヴァインの祝福」の著者は『取り除く』という言葉は「吊り上げる」という意味にも取れると言います。枝を棚に吊るす事で収穫量が全く違うのです。地に這ってしまうぶどうを、棚に吊るし、泥や汚れを払い落とし病気から守るという事を言っているのではないかと書かれています。どちらであるかは分かりません。しかし、いずれにしろ神様は『もっと多くの実を結ぶために』、私達一人一人に様々な刈り込みを入れて下さっているのです。「神様はなぜこんなに私に嫌な事ばかりを次々と起こすのだろうか。私を嫌いなのだろうか。」と周りを責めたり神様に責任をなすりつけたりする。私達は神様が刈り込みをなさるという事をしっかりと受けとっていく事が大事ではないかと思います。
「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておわれるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです。」(ヘブル12章5〜8節)
神様は私達を「訓練する」「切りこみを入れる」と言っています。何かの痛みや悲しみや「なぜ?」と思えること、それらは神様が切り込みを入れて豊かな実を結ばせようとしているという事なのです。問題はそれを私達が受け取っているかということです。もし「なぜこんな事をされるのだろう」と思うことしかできないならば、結果として私達は豊かな実を結ぶことができないのです。農夫がぶどうに実がならないような細工をするでしょうか。農夫は切り込みをいれて収穫を倍増させる工夫をします。神様も同じです。皆さんから豊かな実が結ばれる事を願い、切り込みを入れているのです。皆さんが出会っている苦しみや困難を、そのようにして受け取る姿勢を持って頂ければと思います。そうするならば私達は実を結び始めるのです。この事を聖書が語っているのを覚えたいと思います。
さらに『あなたがたは、わたしが話したことばによって、もうきよいのです』とあります。私達は汚れた存在ではなく、イエス・キリストを信じた時点で「聖い」のです。だからもっと豊かな実を結ぶ為に神様が訓練をしていらっしゃるのです。ヨハネ13章にはイエス様が弟子達の足を洗っている記事が出てきます。
「ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」(ヨハネ13章7〜10節)
このみことばを別の言い方で表しますと「日々、罪の悔い改めが必要である」ということを言っているのです。事ある事に神様の清めを頂く事は大切ですが、全体としてはもう聖いのです。「特別な人だから」ではありません。全ての人は実を結ぶ用意ができているのです。問題は、実が結べる様に自分を整え委ね備えるという事です。ではどうしたら良いのでしょうか?
実を実らせるための養分
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木であなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(4〜5節)
ぶどうの木から切り取られてしまった枝は枯れていくだけです。イエス様に結びついていなければ、私達は実を結ぶ事はできないのです。もっと頑張り、もっと様々な事をして実を結ばせようと思うかもしれません。でも『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない』とイエス様は言うのです。あなたは「私は何でもできます」と言うかもしれません。しかし、完全に純粋に人を愛し、人に仕える事ができますか。自分の利益のためであればするかもしれません。しかし、真実にそれを行う力は私たちにはないのです。イエス様から日ごとにその命、その養分を頂く事なしには到底できません。私達に必要なのは、いつでもイエス様に結びついている、繋がっているという事なのです。
「だれでも、もしわたしのとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(6節)
私達も、その時にはあまり感じないかもしれませんが、イエス様から離れているならば段々と心は枯れてきて、命の力は干からび、何の役にも立たなくなります。私達は主にしっかりと結ばれている事が大事です。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(7節)
「とどまる」とは具体的にどういう事であるのでしょうか。これは、神様の言葉を私達に「留める、結びつける、自分に当てはめる」ということです。そのようにして御言葉をしっかりと自分に結びつけてから欲しいものを求めなさい、というのです。もし私達の中に御言葉が息づいて、御言葉により確信を持つならば、私達への祈りの応えは非常に速やかに、豊かに与えられるようになっていくのです。御言葉の中に生きるとは、豊かな実を結ぶ為の秘訣なのです。私達は神様に大胆に求めていきたいと思います。
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(8節)
神様は私達が実を結ぶことを待っています。そして、実を結ぶことが神様の栄光を現わすことになるのです。この「栄光」という言葉には色々な意味があると思います。救われる方々が起こされるという事もあるし、聖霊の実が結ばれるという事もあるでしょう。しかし、大切なことは、「ちょっぴり結ぶ」のではないということです。私たち一人一人が「多くの実を結ぶ」ことが期待されているのです。そのように神様がご訓練して下さっているのです。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(9〜12節)
神様は私たちを剪定されているのです。その事を疑ってはなりません。主の訓練を疑わないならば、神様の戒めを守るということになるのです。私たちにとっては、神様の戒めを守り、愛の中に生き、真理の中に生きることが喜びなのです。私たちが神様の使命を果たしていると感じるならば喜びであり、力であり、命なのではないでしょうか。私たちはこの愛の中に、主の約束の中に、主の御言葉にしっかりと立ち、「神様は愛のゆえにこうしているのだ」と受け取っていく事が大事であるということです。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは、主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それはあなたがたが行って多くの実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」(13〜17節)
イエス様は12節、17節で『あなたがたは互いに愛し合うように』と言っています。特に12節では『わたしがあなたがたを愛したように』と書かれています。イエス様は『人がその友のためにいのちを捨てる』ように愛して下さいました。事実、命をかけて愛して下さったのです。「私が命を捨ててあなた方を愛するように、あなた方も互いに愛しあってほしい」−これはイエス様の惜別の言葉です。もしあなた方がそのようにし始めるのならば、あなた方はイエス様の「友」であると言うのです。喜んで主の戒めに留まろうと決断するならば、イエス様は「わが友よ」と喜んで迎えて下さるのです。
そして「あなた方が豊かな実を結ぶためにあなた方を選んだ」とも言って下さいます。救いの確信がない方は「疲れてしまって信じ続けられない」と思う時があるかもしれません。その時にも主が私達の手を握って共にいて下さいます。そして私達が実を結ぶようになるために日々導いて下さるという事を忘れないで下さい。神様は実を結ぶようになることを期待して下さっているのです。それには何が必要でしょうか。
第一は「刈り込み」です。この「刈り込み」をどのように受けとっていますか?様々な出来事のゆえに「何故神様はこんな事をするのであろうか。もう神様は私の事を愛していないのではないだろか。」と疑い、怒り、反抗した事があったのではないでしょうか。聖霊は悲しむ方でもあります。私たちの「ごめんなさい。私が間違っていました」という言葉を待っているのです。そうするとき、聖霊は喜んで赦して下さいます。でもその前に私たちは「神様の愛を疑わない」という事を明確にする必要があります。私たちの目には愛とは思えないかもしれません。でもそれはもっと大きな実を結ばせる為にそうされているのです。様々な痛みや苦しみを通して、神様だけを大切にし、神様だけを求める事が出来る様になっていくのです。私達の所有欲や金銭欲等を神様は扱っていくでしょう。それを神様のご訓練として受け取ることです。今までしっかりと握っていた物が訓練されるなかで、段々と色褪せて見え、自然に手から話す事ができるようになると前出の「ヴァインの祝福」にも書かれています。
私たちは、神様の訓練を受ける必要があるのです。受けた時に「これを私への訓練と受けとめます。今まであなたの愛を疑ってきました。神様は私を守ってくれていないと思ってきましたが、そうではなく、本当に実を結べる様に今まで導いてくれていました」と認めるようになります。それゆえに神様の戒めに喜んで従うことができ、私達の内に喜びが溢れていくのです。私たちは気がつくと豊かな多くの実を結ぶ者に変えられいる、と聖書は語ります。私たちはその愛の中に留まっていき、それにより神様は実を結ばせて下さるのです。刈り込みの苦しみが永遠に続くことはありません。私たちの不必要な部分が切り取られた瞬間からその訓練は終ります。人のせいや神様のせいにしているとこの訓練は長引きます。
そしてもう一つは、主の中に「留まる」ことです。これが実を結ぶ秘訣です。皆さんは神様に留まっていますか。どの程度神様と交わりを持っていますか。皆さんが誰かと親しくなる秘訣はその人と話したり交わりを持つ事でしょう。そうするうちにお互いが良く分かってきますし、信頼もできるようになってくる。私達は、形式的に「今日は聖書も読んだ、祈った」というのではなく、「愛する方と共にいたい」という交わりを大切にしていきたいものです。その時に私たちは豊かな実を結んでいくのです。一朝一夕にできるものではありませんが、ぜひ「主との交わり」と言えるディボーションを心がけていきましょう。
神様の刈り込みを主からのものとして受け取る。そう受け取れないことがあると思います。でもそれを正直に神様に言って下さい。「これがあなたの刈り込みですか?痛すぎます」と。その時に神様の実を多く結び、大きく成長していく事ができるでしょう。私達一人一人がこの実を結び始めていくならば、教会はもっと麗しい群れとなっていくのではないでしょうか?この愛の中に留まり、愛を実践していく者となりましょう。自分の力ではできません。養分(=御霊の力)を頂かなければなりません。御霊に満たされていくことです。その時に私達もそれが出来る様になっていきます。豊かな実を結ぶお互いにされていきたいと思います。