2002年11月3日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ23章50〜56節より
牧師 吉田耕三
十字架のメッセージは私たちがいつも心して聞かなければならないメッセージです。毎月私たちは聖餐式を行いますが、これは私たちが十字架をいつも思い起こす様にと教えて下さっているのです。前回は「十字架の表と裏」と題して十字架に際しての様々な人の姿を学ばせて頂きました。今日はその後の出来事です。
イエス様が十字架に掛けられたのは朝の9時でした。十字架に掛けられた時に最初に語られた言葉が『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』でした。でも、この言葉を耳にしても人々は感動していない態度が見受けられます。『民衆は立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」』こんな言葉しか出てこないのです。唯一、共に十字架に付けられた強盗の一人はイエス様のその言葉を受け取り、神様を信じた事が記されています。
十字架刑では、釘を打たれる時に激しい痛みが走ります。しかしもっと苦しいのはその後です。長い人は十字架上で一週間生き延びる人もいたそうです。徐々に苦しみながら死んでいくのです。さて、イエス様が十字架に掛けられてから3時間経ちました。
神の救いの開始
「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。」(44〜45節)
ピラトもこの現象を見て恐れました。「日食だから恐れるには及ばない」とある人は言ったそうですが、ある学者は「この季節に日食が起こる事は考えられない」ことを記しています。実はこの時期は満月の季節でしたので日食が起ることはあり得ませんでした。それでは、この出来事は何を表しているのでしょうか。
「そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、」(ルカ21章25節)
聖書的に言いますと、「終末」は十字架によって既に始まっているという事ができるのです。その現われの一つが「太陽が暗くなった」ことでした。このことは、十字架によって動き始めた神の終末の時計が進んでいる事を現わしていると思います。
さらに象徴的な出来事が起こりました。当時のイスラエルの神殿には聖所と至聖所が作られており、その間には必ず幕が張られていました。その幕が真二つに裂けたのです。これは何を意味しているのでしょうか。祭司は通常「聖所」で儀式を行います。ただし、年に1度の大贖罪の日には大祭司が「至聖所」に入り、罪の贖いの儀式を行います。つまり、至聖所は大祭司だけが、年に1度だけ入ることのできる場所でした。その至聖所の幕が切って落とされたとは、誰もが直接神様の前にまで行けるようになったという事なのです。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(Iペテロ2章9節)
このみことばは、私たちのことを言っているのです。『王である祭司』−私たちは神殿で仕える祭司とされているのです。十字架以前は、祭司は聖所までしか入れませんでした。しかし「幕が切り落とされた」ことで、「神の救いが現わされた」のです。
キリストの叫び
「イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」(46節)
読み方によれば(十字架に負けて死んでしまうしかない。だから神様に委ねるしかないのだ)という敗北の言葉に聞こえなくもありません。しかし、
「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10章18節)
とあります。「私は十字架に掛けられたのではなく、自ら十字架に掛かり死ぬのだ」と言われているのです。ルカが言いたかった事は、「神の終末、神の救い、再臨のキリストはすぐに来ます」という事ではないでしょうか。キリストが再臨される時には、私たちの体は栄光の体に変えられるのです。今の私たちは、魂は救われていますから天国に行けますが、体は未だに罪を犯す、弱い体です。しかし、この体が栄光の体に変えられて、罪を犯す事もなく、疲れる事もなく、病気になる事もなくなるという、「真の救い」が来たのです。
さらに、幕が切り落とされた事により、何も恐れる事なく誰でも神様に近づけるようになりました。キリストはまず『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』と叫ばれましたが、しかし、次には「父よ。あなたにいっさいをお委ねします」という積極的な言葉が発せられました。これは、勝利を得た祈りであり、受けるべき罰を受けたという事を意味しているのです。
さらに驚くべきことが起こりました。
「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが行き返った。そしてイエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。」(マタイ27章51〜54節)
全地が暗くなり、大きな地震があったのでしょう。墓から死者が出て来てイエス様の前に復活した人が現われたのです。本当に驚く事が起きたのです。さて、この出来事を見た人々はどの様な反応をしたでしょうか。
「この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。しかしイエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。」(47〜49節)
ある人は胸を叩き悲しみながら帰って行きました。百人隊長は『この人は正しい方であった』との告白に導かれました。また女達は遠くから見ていました。その中には、アリマタヤのヨセフがいました。
私たちにできること−主への応答
「さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。この人は、議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた。ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。そして、戻って来て、香料と香油を用意した。安息日には、戒めに従って、休んだが、」(50〜56節)
ヨセフは前からイエス様を信じていたのですが、公にはしていませんでした。しかし十字架上で命を掛けて『彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』と祈って下さるイエス様を見たとき、堂々と自分の信仰を告白しないわけにはいかなかったのでしょう。そこには様々な危険がありました。彼はサンヘドリン(当時のイスラエルの最高議決機関)の議員でした。議員達はイエス様を十字架に掛ける事を願ったのです。ですから、そのイエス様に組みするような行動には、大きな反対が予想されますし、自分の地位が奪いさられる事さえあるかもしれない。でも彼はそんな事に躊躇してはいられず、主の弟子である事を告白し、イエス様の遺体の下げ渡しを願ったのです。ユダヤでは死者をそのまま放置するのは、呪いの印でした。このままイエス様を野ざらしにはできない。彼は自分のために石の墓を作っていました。彼はそこにイエス様の遺体をそこに埋葬したのです。
私たちは、今日の聖書箇所から、2つの事を教えられたいと思います。1つは、私たちにとって「十字架」はどういう意味があるかという事です。私もイエス様を信じて1年位は隠れクリスチャンでした。私はバイブル・キャンプで神様を信じたのですが、その時には家族には言えませんでした。キャンプには行きたいのですが、「信じる」ということに「どうもなあ」と思いました。2度目のキャンプの時は気持に蓋をして、「どんなに集会が祝福されても信じるとは言わない」と決めて行きました。しかし、いざキャンプに行くと非常に心が満たされ、神様がおられる事を強く感じられるのです。集会が進むにつれ、段々と御言葉が私の中に迫って来ました。
「私はイエス様に反対してはいないけれども、イエス様を公に告白しない事は、イエス様に唾を吐き、拳で殴り、槍で突き刺している兵士と変らないのだ」という事をその時に教えられたのです。その時に「もしかしたら家を追い出されるかもしれないがそれでもいい。この方に従っていこう。その時はその時で神様が良くして下さる」との思いで、もう一度「本当に信じます」と告白をした時に、不思議な平安がありました。ある意味でその時から神様の恵み、神様の力を味あわせて頂く事ができるようになったと思います。ヨセフは十字架を目の当たりにして、自分の立場を明確な態度に示す必要がある、と感じたのでしょう。私たちもこの主の十字架を自らの目の前にはっきりと指し示される者でありたいと思います。この事がはっきりと分かる時に、私たちもヨセフのように、また迫害に立ち向かう弟子達のように変えられていく事ができるのではないかと思うのです。
次に教えられたいのは、「十字架での罪の赦し」です。ミス青森に選ばれた女性がおりました。たくさんの人から祝福を頂いたのですが、ある一人の女性が彼女をトイレに呼び出し、硫酸を顔に掛けたのです。「なぜこんな事になったのだろう」と昨日までは皆に祝福されて有頂天でいたのに、次の瞬間には奈落の底に落とされた悲しみ。何度も死のうとしたそうです。しかしそれもかないませんでした。しかしそのとき、窓から十字架のネオンが見えました。不思議にそこに行ってみたいという気持が起こされたそうです。教会に行った当初は、メッセージの意味が分からなかったそうです。でも続けて通う内に段々と分かってきたのが自分の罪でした。「自分に対して酷い仕打ちをした彼女を恨んでも憎んでも当然だ」と思っていたけれども、自分の中にある「恨み」や「憎み」こそが問題であり、そのためにイエス様が十字架に掛かって下さった事が、段々と分かってきたのです。
程なくしてイエス様を救い主として信じた彼女に、洗礼式のとき牧師が聞いた言葉が「あなたには多くの事を聞く必要はないと思います。ただ一つの事を聞きます。あなたはあなたに硫酸を浴びせ掛けた人を赦しますか?」この一言であったそうです。暫くの沈黙後に、彼女は顔を上げ、「はい。私もイエス様によって自分の傲慢な罪を赦して頂きました。ですから私もその人を赦します」と言いました。彼女のその言葉は真実でした。彼女は洗礼式の後に硫酸を自分にかけたその人に「私は今まで、あなたの事を憎んで当然、恨んで当然と思い、そのようにしてきました。でも聖書を通してその様な心こそが本当の自分の問題であり、それらの傲慢こそが問題である事を教えられました。その罪の為にイエス様が死んで下さった事が分かります。ですから私はあなたを赦します。あなたが私にその様な事をされたのは、私の中にもあなたがそうせざるえない事をしてきたのでしょう。その様な傲慢さがあったのでしょう」と手紙を書き送ったそうです。
刑務所の中でそれを読んだその方は「嘘だ」と思ったそうです。その様な事が有り得るはずがない。でも何度も何度も同じ内容の手紙が送られて来て「あなたの出所を待っています」と書かれてもありました。彼女の出所当日には和歌山まで迎えに行ったそうです。その後東京で彼女達は同居する事になりました。そればかりか、硫酸を掛けた側の人は看護婦になりたかったそうですが、その学費を、硫酸を掛けられた彼女が出し、そうして看護学校を出た人は看護婦として働いておられるそうです。このような赦しを実践した彼女は、東北地方の牧師夫人であるという話しを聞いた事があります。
もし私たちがこのイエス様の『父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分では分からないのです』という祈りが、自分の為の祈りである事が分かったのであれば、私たちもまた、彼女のようにすることができるようになるのではないでしょうか。私たちがこの事を本当の意味で受け止め切れないでいるために、私たちもまた赦す事ができない事があるかと思います。確かにそうではないでしょうか。気がつかないで、力がなくて、知らないで、それがどんなに傷つける事になるか分からないで、平気で多くの事をやってしまっている。
私たちは、キリストからこのように祈られる以外には、どこにも救いがないのではないでしょうか。事実、イエス様は私たちのために、そのように祈って下さいました。だから私たちが今ここにある訳わけす。だとするならば、私たちもまた「この人を赦します」「あの人を赦します」とできるようになるし、また「そうさせて下さい」と祈っていく事が必要ではないでしょうか。
十字架を見たアリマタヤのヨセフは自分ができる事を行いました。ユダヤの安息日は夕方6時位には始まります。3時間の間に全ての終えなければなりません。通常は体を洗ったりするのですが、それをする時間すらありません。安息日が終ったなら香油と香料をつける用意だけはしました。私たちもイエス様の十字架を見て、自分にできる事は何かを応答していく事が出来たらと思います。
あなたにとって、「十字架」は何でしょうか。多くの人のように、ただ通りすがりのものにしかすぎないでしょうか。イエス様は行きずりの人にしかすぎないでしょうか。それともあなたを新しく造り変え、新しい方向に向わせる力ある方となるのでしょうか。十字架がもっと鮮明に分かり、主の言葉に従う者、「彼らにこの罪を負わせないでください。」と祈ったステパノのように、私たちもまた主の道に従う者とされていきたいと思います。