2002年11月10日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書Iコリント1章18〜25節より
メッセンジャー仙台福音自由教会高橋勝義執事
仏教と儒教は日本文化に大きな影響を与え、私たちの生活の中にも深く入りこんでいます。釈迦はガンジス上流のシャカ王国の王子として生まれました。彼は「人はなぜ苦しむのか」と思い悩み王子の位を捨て修行僧となり難行苦行を始めます。生死病苦は一体どこからくるのか?それから逃れる道はあるのかと求めるのです。そしてそれら苦しみの原因は、自分の思い通りにしようとする“欲”からくる事に彼は気がつき、難行苦行を止めてしまいます。釈迦は瞑想の中から、あらゆるものをあるがままに見て、あるがままに受け取る事が自分の“欲”からの解放であると悟ったのです。これが釈迦の教えであり、その教えを土台としているのが仏教であります。
孔子は釈迦とは対照的にとても貧しい家に生まれました。当時の中国は戦国時代でした。国も人々の心も乱れており、孔子は戦乱の世にあって「人は如何に生きるべきか」を求め諸国を流浪します。彼が人々に生きる指針を表したのが「論語」であり、この教えを土台にしているのが儒教です。国が乱れ、人心が乱れていますから、君子は君子らしく、家臣は家臣らしく、父親は父親らしく、子は子らしく生きる事を説くのです。そうするならば秩序ある世の中に戻るであろうと考えたのです。当然「人を愛し、思いやる事」の大切さも教えています。孔子は故郷の呂国から招かれ、自分の信念に従い国を作り上げます。全てが順調に進んで行きましたが国は5年で崩壊してしまいます。実は民衆はこの教えに息苦しさを感じ、その結果孔子を批判するようになりました。釈迦と孔子。とても素晴らしい人物ではありますが、人間の力によって考え出されたものには限界があるように思います。
十字架のことばが神の力となる
「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」(17〜19節)
旧約の時代にアラム王に仕えた有能な将軍ナアマンがおりました。彼は君主に重んじられ尊敬されておりました。ところがらい病に犯され、それが彼の大きな悩みでした。そんな時にイスラエルの若い娘から「サマリヤにいる預言者エリシャの所に行くように」と聞き、早速出掛けて行きます。エリシャは神様から将軍ナアマンが来る事を知らされ、使いを送ります。その使いに「ヨルダン川に行き体を7度洗いなさい。そうするならばあなたの体は元通りになる」と語らせました。この言葉を聞いたナアマンは怒り立ち去ってしまったのです。使いの言葉は彼にとっては、愚かで馬鹿馬鹿しく聞こえたのです。なぜならば「彼がきっと出て来て、彼の神、主の名を呼んで患部の上で手を動かし治してくれる。」とナアマン自身が語っています。つまり、しるし(奇跡)を求めたのです。自分の目前で劇的なしるしをもって治してくれると期待したのです。しかし彼が聞いた言葉は、「ヨルダン川で体を7回洗え」という事でした。彼の考えからすれば期待は外れたのです。そして憤慨して立ち去ったのでしょう。その時に、しもべ達が近づいて彼に語ります。「わが父よ。あの預言者がもしも難しい事を命じたのならあなたはきっとなさったではありませんか。ただ彼はあなたに『身を洗って清くなりなさい。』と言っただけではありませんか。」自分の将軍に「何とか治って欲しい」という思いから、諭した訳です。
私たちも大きな問題がある時に、「こんなに大変な事をすれば解決します。」と言われたならば必死になりますね。でも簡単な事を言われると馬鹿馬鹿しく思いそれをやろうとはしないのではないでしょうか。ナアマンは部下の助言に従い、神の人エリシャが命じた通りにヨルダン川に7度身を浸しました。すると彼の体は清くなり、幼子の肌のように綺麗になったのです。
これと同様に、十字架の言葉は救いを受ける者にとって、神の力と愛を味わい知る事となります。拒めば神様の愛も、力も知る事ができません。しかし十字架の言葉は簡単に受け入れられる内容でないのです。皆さんも教会に初めて来た時の事を思い出して下さい。「神が人となった。その人は私たちの罪の身代わりとなって死んだ」と言われましたね。確かにイエス・キリストが十字架に掛けられ死んだのはまぎれもない事実です。しかし「その二千年前の出来事と今の自分とどのような関わりがあるのか?」と誰もが思うのではないでしょうか。
ですから、パウロが「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」と引用したように、十字架の言葉は人間の知恵(理性)に対して挑戦をしているのです。パウロはこの世の知恵を語ったのでもなく、また彼自身が作り出した話しを語った訳でもありません。神様の啓示について語ったのです。神様の啓示とは、自然や、心、歴史を通して神を知る事ができるように、神様の御業が現わされている事を指しています。例えば詩篇の作者はこのように記しています。
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19篇1節)
私たちも雄大な自然を見た時に、その素晴らしさに圧倒されて「もしかしたらこれは何か大きな力によって造られているのではないであろうか」と感じる事があると思うのです。私たちは自然、心、歴史を通して神様を知る事はできるのですが、ただ一つ分からない事があるのです。それは“救い”です。「神様がいるのではないか?」と感じる事はできても、“救い”についてははっきりと分からない。ですから神様は特別にイエス・キリストを地上に送り、私たちの為に“救い”を明らかにして下さったのです。この十字架は作り話しではなく、歴史上に起った事実に基づいています。それは、「神が人となり地上に下り、処女マリヤから生まれ、私たちの全ての罪を負って死に、3日目に復活し、天に帰られた」という事です。この十字架の言葉を信じる者は救いを受け、神様の言葉を味わい知る事ができる歩みへと移されるのです。十字架は神様が私たちを愛している証しでもあります。ですからパウロは神様の知恵と私たちの知恵を比べ、
「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかしユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された人々にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(20〜25節)
釈迦は自分の“欲”が苦しみを生み出す原因であるから、あるがままを受け取るれば苦しみから解放されると言ったのです。孔子はこの世の秩序に従い、人を愛し思いやる事の大切さを教えました。けれども釈迦も孔子も「なぜ人は苦しむのか?」「なぜ秩序に従って生きなければならないのか?」の根本的な問題には何も答えていないのです。
さてギリシヤ人の知恵はどうでしょうか。哲学はギリシヤから始まりました。哲学とは「知恵を愛する」という意味です。民主主義の原型もギリシヤから始まりました。共和制政治による国家作りが始まり繁栄をしました。しかし各国の利害が絡んできた時に、結局国は乱れローマ帝国により滅ぼされました。ここにも人間の知恵の限界があるように思います。それでは真の神を知っているイスラエル人はどうでしょうか。イスラエルの民はこの地上の他民族よりも多くの神様の奇蹟を見てきました。またその奇蹟により救われ、守られ今日まで来ています。しかし彼らは、自分達を導き、救い出し、守ってきてくれた神様を捨ててしまったのです。
私たちは1度奇蹟を見ると、問題が生じた時に、それ以上の奇跡を期待する弱さがあります。パウロはこれらの事を踏まえて、『ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追及する。』と言ったのです。パウロは十字架の言葉がユダヤ人にとってはつまずきであり、異邦人にとっては愚かであったとしても、この十字架こそが私たちを救いに導き、新しい命を得、神様の力と知恵に満たされる歩みに導かれる事ができることを知っていたので、大胆に語った訳です。神様は、この十字架の言葉が、この世の知恵や知識からすればどんなにか愚かであったとしても、逆説的なその「愚かさ」を通して信じる者を救い、この世の知恵や知識を虚しくされたのです。皆さんも「本当に処女から生まれたと信じているの」とか「3日目によみがえったなんて馬鹿馬鹿しい話しを信じているの」と言われた事はありませんか。
「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また聖霊によるのでなければ、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(Iコリント12章3節)
聖霊の導きなくしては、誰一人イエス・キリストを救い主として信じる事はできないのです。あなたは自分で信じたかのように思っているかもしれませんが、実は、聖霊によって導かれたのです。それは、私たちの意思や感情を無視して行われたのではなく、むしろ「助けられた」のです。もし「自分で信じた」ならば自分で頑張らなければなりません。ところが信じるように導かれたのであれば、その後の歩みも導いてくれた神様に委ねればいいのです。これも神様の知恵ではないでしょうか。
信仰が強い時には「自分で信じた」と頑張れるかもしれません。しかし弱い時には「本当に自分は信じているのであろうか」と思う事だってある訳です。でも神様自身が導いて下さったと知れば安心ではないでしょうか。この世の知恵ではなく、神様の不思議な知恵の中にあるのです。しかし、実際に問題に直面した時に全てを神様に委ねる事ができないのが私たちの現実です。まさに『神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い』と語られる通りではないでしょうか?。
では人はなぜ苦しむのでしょうか。聖書ははっきりと「人間が神から離れ、神に従わず、自分勝手な歩みをしたからである」と語ります。しかし神様はご自分に逆らっている私たちを救うべく、そのまま放っておく事がでできなかったため、十字架の言葉を備えたのです。あなたに新しい命を得させ神の力によって生きるためです。ですからパウロは『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です』と、はっきり、力強く語るのです。
私たちは思いもよらない困難やサタンからの誘惑、また神様の訓練に出会う時もあります。この時こそ私たちを慰め、励まし、具体的な助けを与え、生きて働く神様の力を味わう絶好のチャンスであり、同時に信仰が試される時でもあります。私は、釈迦が「あるがままを受けとめる事ができるとすれば欲からの解放を得られる」と言った言葉はクリスチャンこそができるのではないかと思います。というのは、パウロが
「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8章28節)
全ては神様のご支配の中にあると信じているならば、その「あるがまま」をあるがままに受け取る事ができるのではないでしょうか。問題が起った時に「不幸だったね」「偶然だから仕方ない」「境遇だから仕方ない」という言葉で解決しようとしますが、それで解決できているでしょうか。それは一つの「諦め」でしかないのです。あるがままをあるがままに受け取る。自分の目には「どうしてこれが益になるであろうか」と悲しい出来事と見えるかもしれません。しかし神様ははっきりとそれが『益となる』と語ります。どんな益かは分かりません。神様のご支配の中に生かされている事を受け取り、「仕方ない」ではなく、「そこに神様の働き、御業がある」と受け取る事ができるのではないかと思います。
これは同時に私たちに対するチャレンジでもあるのかと思います。口では簡単に言いますが問題にぶつかった時にそんなに簡単にできるものではありませんね。素直に「そうか。それを受け取ろう」ではなく、「私から見ればとても『益になる』とは思えません。どうしたら『益』になるように見えるのですか」と、普通はそう思います。そしてすぐに解決を求めます。でも神様は解決をすぐに与える場合もあれば、遅らせる場合もあります。また自分の願い通りの解決方法の場合もあるし、全く予想もしていなかった解決方法かもしれません。その時は、私たちはそれを受け入れ難く感じるでしょう。ですからこの事は大きなチャレンジでもあるのです。だからこそ、あるがままを受け取る事は、本当に“神様のご支配”を自分がどれだけ真剣に受け取っているのかを問われてもいるのです。
また、神様との関係が修復されると、本当の秩序も回復され人間関係も修復され秩序が保たれていくのです。十字架の言葉はこの世の知性からすれば本当に愚かで馬鹿馬鹿しく聞こえます。しかしそれを信じ受け取る者にとっては神の力です。とするならば、この十字架の言葉を恥じるのではなく、堂々と人々に証しする事ができるのではないでしょうか。皆さんは十字架の言葉を語る時に、恥じながら語りますか。それとも喜びながら「本当に神の力です」と言って語るでしょうか。『神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い』のです。ところで神様の力があなたの生活のただ中に現わされているでしょうか?もしも現わされていないとするならば、どこに問題があるのでしょうか。十字架の言葉が私たちの生活の中に神の力となれるように、日々歩んでいきたいと思います。