2002年11月17日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ガラテヤ3章7〜14節より
牧師 吉田耕三
ある年の子供祝福式が終った後に、一人の主人会の方が「あのように子供達が祝福されるのを見て羨ましくなりました。私もその様な祝福を受けたいと思いました」と言いました。神様は私たちを祝福して下さると約束して下さっています。最初に聖書から『わたしの名によって祝福する者を、祝福する』と読みました。でも「祝福」という言葉は分かったようで分からない、と疑問を持っている方が結構いるのではないでしょうか。広辞苑には「幸福を祈ること」と書かれていました。二番目の意味として、「キリスト教で神から給わる幸福」という言い方をしていました。「祝福」とは神の愛が注がれる事だからです。ある方は時々「自分ばかり嫌な事が起る。悪い星の下に生まれて来たのだ」と言ったり、反対に「あの人はいつも幸運でいいね」と言うかもしれません。それらが有る無しは別にして、神様はどんな人をも祝福すると言って下さっている事を知って頂き、その祝福を是非ともご自分のものと受け取って下さったならと思ってやみません。今日はこの「祝福」がどのようにして私たちのものになっていくのかをご一緒に学ばせて頂きたいと思います。
アブラハムの祝福が私たちに
「神はまた彼らを祝福し、このように紙は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1章28節)
神様はまず人類を造ったその時に祝福をしました。しかし最初の人類であるアダムとエバが神様に逆らい、せっかく備えられていた祝福を「私は要りません。自分の力で頑張って生きますから」と拒んでしまったのです。同じ事を結構私たちもやっている事はないでしょうか。「神なんて弱い者が頼るものです。祝福など要りません」その結果として与えられるはずの祝福がやって来なくなってしまうのです。その一方で神様を求める者達にこの祝福が受け継がれていきました。人間が堕落し悪くなる一方であった時代、ついに神様が大洪水により人類を滅ぼそうと決められたのです。その時にノアだけは神様を信じていました。そしてノアの家族は洪水から救われ祝福の約束を下さいました。
「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」(創世記9章1節)
神様のお言葉通りに、今や全世界が神様の祝福が満ちた地になっています。でも完全ではありません。そういった祝福がもう一度備えられるようになっている訳です。そしてこの祝福が顕著に現われたのが「アブラハム」です。この人は本当に神様を信じました。
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章1〜3節)
神様はすごい約束と祝福をアブラハムに与えました。知らない土地に行けと言われ「はい」と従ったアブラハムの信仰の故に彼自身を祝福し、彼の子孫を祝福したのです。続けて読みますと、アブラハムの息子イサクは種を蒔いて百倍の収穫を得たと書かれています。更にイサクの子供ヤコブは何も持たずカナンの地に行きましたが、帰る時には多くの家畜、大勢の奴隷、莫大な財産を持って故郷に帰ってくる事が出来たのです。神様は本当に祝福を与えて下さいました。アブラハム自身も金銀や様々な物が豊かに与えられていたとも書かれています。この祝福はダビデやソロモンに引き継がれ、イエス・キリストに繋がっていくのです。
人間は神から離れ罪に陥ってしまった結果、ノアの洪水の大悲劇を通りましたが、神様はアブラハムを見つけ、彼の子孫を祝福しました。これがユダヤ人です。ですからアブラハム以前にはユダヤ人はいません。そして神様はユダヤ人を祝福し、イサク、ヤコブ・・と続く子孫に約束の言葉を下さった訳です。でも残念ながらイスラエルの民をこの神様を捨てるようになってしまったのです。そして神様の祝福も風前の灯火となってしまいましたが、イエス・キリストが救いをこの地上にもたらして下さった事により、今私たちも祝福にあずかっている訳です。ですから、本来はイスラエル人が受けるはずの祝福でしたが、イエス・キリストによって、今度は「私たち」が受ける者とされたのです。このことが今日のガラテヤ書に書かれています。
「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。」(7〜8節)
アブラハムに『あなたによってすべての国民が祝福される。』といわれています。アブラハムはユダヤ人です。そのアブラハムの子孫イエス・キリストを通して全世界の人がこの祝福に与るというのが、このことばの意味です。その祝福が今私たちに届いているのです。
私が神様を信じた時に母に「お母さん。イエス様を信じなければ天国にいけないから、イエス様を信じてね。」と言いました。その時母は、「心配しなくても大丈夫よ。そんなに悪い事ををしていないから」と言ったのです。そんな風に考える方がいると思います。確かに警察に捕まる様な罪は犯していないかもしれません。しかし神の基準で罪を犯した事がない人が本当にいるでしょうか。嘘をついたり、人を妬み、嫉妬したり、悪い事を考えたり。いざとなると平気で人を裏切り、意地悪をしたり、実行をしなくても心で思ってしまっている。殺人を酷い行為と思いますが、私たちの心の中では人を殺した事もあるのではないでしょうか。そういう私たちが「私は何の非の打ち所もありません。私は天国に行けます。」と簡単に考え過ぎてはいないでしょうか。
厳密に神様の前に出るならば、誰も聖い者はいません。もし正しさで神様の前に到達しようとするならば、他の事を全部守っていたとしても、一つ失敗すればそれでもう駄目なのです。そういう意味では自分の行いで天国に行ける人は誰もいないでしょう。だから神様は私たちの罪汚れを一つ一つ言うのでなく、全てをひっくるめ、過去のことも、現在のことも、将来やってしまうことも含めて、罪の無かった神の一人子イエス・キリストに全部負わせ、このイエス・キリストを十字架に付ける事により私たちの罪を赦そうとされたのです。私たちが「私には色々な罪がある。その罪の為にイエス様が全部背負って死んで下さった。イエス様、ごめんなさい。私を赦して下さい」とこのようにへりくだり、自分の為にイエス様が十字架に掛かり罪を赦して下さった事を信じる信仰があるならば、あなたは祝福に与る事ができるのです。
「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(14節)
アブラハムの祝福『すべての国民』が祝福を受けるのは、イエス・キリストの十字架により罪が赦されるからであり、キリストを信じる信仰により神様の祝福に与ることができるのです。この「祝福」とは具体的に言いますと、私たちが神様の霊(御霊)を頂く事ができるという事なのです。だから私たちは自分ができない事ができるようになるのです。この神の御霊はイエス様を信じているあなたにも与えられていると受け取っていますか。聖書では自分に神の御霊が宿っているかどうかの判断の仕方が書かれています。
「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(Iコリント12章3節)
皆さんは「イエスはのろわれよ」あるいは「イエスは主」と言えるでしょうか。もし神の御霊が宿っていなければ、心の底で神に敵対していますから、「イエスはのろわれよ」と言えるのです。ところが色々な疑いが出て来たとしても「やはりイエス様は神様です」と言えるならば、あなたの内には聖霊が来て下さっているのです。もし心配な方はイエス様を自分の罪から救い主として、過去、現在、未来の罪の為に十字架に掛かり死んで下さり罪を清め赦して下さったと信じて下さい。これだけであなたの中に聖霊が宿り、新しい希望が与えられる人生が始まるのです。
さて、聖霊が与えられているという事は、既に神の物とされ、「この者は天国に行ける」という証文が聖霊なのです。ですから聖霊が宿っているならば、私は間違い無く天国に行けると知って下さい。アブラハムの契約の祝福が皆さんの内に来ているのです。御霊を受けているとはそういう事なのです。その結果として私たちは信仰により、約束の御霊を受けるようになりました。さあ、その約束の御霊を受けた私たちはどのように歩むべきであるのでしょうか。
御霊に満たされ神の祝福を頂く者となる
「神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」(使徒3章26節)
私たちは、なぜこのような祝福を受けたのでしょうか。それは私たちが邪悪な生活から立ち返るためなのです。私たちには相変わらず悪い心があり、悪い思いが出て来ます。そういう心に打ち勝ち、「勝利の歩み」をするために、神様は御子を遣わして下さいました。そして私たちはその様な邪悪な生活から抜け出し勝利を与えられるのです。どんな人でも邪悪な生活から変るために神様は祝福を下さっているのです。しかし、たとえ御霊が与えられていたとしても、そのことを認めていない状況ですと、神様の祝福を中々受けられません。たとえば、御霊によって歩んでいたはずのアダムとエバでしたが、いつのまにか神様から離れる道に入っていたのです。良い事をしようと思ったつもりで、段々悪い事をしてしまったのです。
人間は幸せと平和を求める一方で、人殺しの道具をも発展させていきました。良かれと思いながら良くなっていない。神様から離れて生きるとはこういう事です。ところがこの神様にもう一度頼りお任せして生きると、出来なかった事ができるようになるのです。邪悪な心や行いから段々と解放されていくのです。私たちは救われただけで満足しないで、御霊に満たされて歩む。邪悪な歩みから解放されて新しくされる生き方に進もうではありませんか。神の祝福をもっともっともらうこと。これが大事です。さあ、具体的にはどういう事でしょうか。
「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(ヨハネ13章4〜8節)
「それで、主であり師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしがあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことにあなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」(ヨハネ13章14〜17節)
「これらのことを知ってそれを行うならば、あなた方は祝福をされる」−これが祝福の秘訣です。パレスチナは砂漠地帯ですし、サンダルしか履いていませんから、足は泥だらけです。その弟子達の足をイエス様は洗われました。そして、ペテロの所に来たとき、ペテロハ「決して私の足をお洗いにならないでください。」と言いました。彼は「他の弟子達はあなたに足を洗わせましたが、私はそんな資格もありません」と、イエス様に謙遜さを喜んでもらえるかと思って言ったのかもしれません。でもそれに対してイエス様は、「もしわたしがあなたの足を洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と答えられます。イエス様はここで弟子達の足を洗いましたが、その行為にはもう一つの意味がありました。
「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」(ヨハネ13章1節)
弟子達に本当の愛を現わされた。それがこの「洗足」なのです。弟子達がイエス様が自分の足を洗って下さった事を思い出した時に、彼らの心は熱くなった事でしょう。その愛の行為を心に刻み込まなければ自分の弟子として歩むのは難しい、という事をイエス様は知っていたのでしょう。私たちにも必要なのは、このイエス様の「犠牲の愛」です。何一つ罪を犯した事が無く、汚れた行いを何一つした事のないお方が、汚れに満ちた私たちの罪を全て背負い、十字架で打たれ殺された。これが神の愛です。神様が私を、あなた愛している事の現れなのです。この事を私たちがしっかりと覚える時に、私たちも隣人の足を洗おうと思うのではないでしょうか。
私たちは時々「何で私がこんな事を言われなければならないの」とか「なんでこんな目に合わなければならないの」と文句を言う事があります。しかし、「足を洗わせてもらおう。その人の痛み、問題を私も共に担う者にさせてもらおう」という願いは、「イエスさまはこんな私の足も洗って下さった。こんな私に愛を現わして下さった。」と感じて、初めて出てくるものではないでしょうか。そしてこの愛を受け取った人は、その隣の人にも愛を現わす事ができるのです。聖書はこの事を指して「あなたがたがこれらのことを知っているなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです」と書いています。私たちが隣人の足を洗い始める時に、神様の祝福が注がれるというのです。私たちも足の汚れを共に関わり、一緒に担う者にならせてもらいましょう。
「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6章27〜28節)
これが最終的な祝福を受ける秘訣なのです。迫害する者や敵を愛しなさい、祝福を分け与えなさいという事なのです。私たちは「祝福を与えなさい」と命じられています。なぜなら「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだから」です。私たちは周りを祝福する時に、自分自身が祝福されていくのです。ですから神様はアブラハムに言ったように私たちを「祝福の基(もとい)」とすると言っているのです。神様は私たちを永遠の御国へと既に定めて下さっているのです。
「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8章16〜17節)
「なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となるためです。」(ローマ8章29節)
神様の霊を頂いた私たちは、皆イエス様の姿に似るようにと、あらかじめ定められています。ですからイエス様の再臨の時は喜びの時です。私たちの心も、体も、本当に神の似姿に変えられる時だからです。大いなる祝福が私たちに与えられているのです。ですからまだその祝福を知らない方に分け与えてください。分け与える時に神様からの祝福がどんどん注がれるのです。「自分」は出来なくていいのです。自分にできないから御霊が与えられたのです。「あの人を愛せるようにしてください」と祈る時に徐々にその愛が与えられていきます。その愛は段々と周りをも引き入れて包みこんで下さるのです。それぞれの家庭の中で、学び舎で、職場で、社会で『あなたがたは地の塩、世の光』であるのです。あなたが神様によって生きるのならば、「やらなくちゃ・・」ではなく、自然にできるようになるのです。
神様はアブラハムを祝福の基とし、祝福を受け継ぐイエス・キリストを信じる全ての者を祝福して下さいました。そして神の聖霊を与え、私たちが神にあって生きられるようにして下さったのです。ですから私たちも大胆に「愛を行える者にして下さい」、「迫害する人の為に祈れるようにして下さい、迫害する方に『祝福を与えて下さい』と祈れるなりたいと思います。私たちも今置かれている場で、祝福の基とさせて頂こうではありませんか。神様は祝福を既に与えて下さっています。もしまだその祝福を頂いていないと思われるならば、どうぞ今「イエス・キリストを罪からの救い主です」と祈って頂けたらと思います。そしてこの祝福に生きるお互いにされていきたいと思います。