2002年11月24日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ24章1〜43節より
牧師 吉田耕三
私たちは毎週日曜日に礼拝を捧げていますが、これはイエス様の復活以来である事はご存知でしょうか。それまでは土曜日安息と言って、土曜日に礼拝を守っていました。当時は安息を守らない者は、石打の刑という厳しい律法があったのです。それが、日曜日に礼拝を守るようになったのはイエス様の「復活」の故です。日曜の朝ごとに皆が集まり、大声で「ハレルヤ!主はよみがえられた」と言い、喜びを持って捧げる。それが礼拝です。私たちはそうなりたいのですが、現実にはなかなか「復活」が自分のものにはなりません。頭では信じていますが、生活の中で生かされていないのです。今日は、ルカ24章のみことばを通して、信仰を持って立ち上がっていく者にされていきたいと思います。
間違った捜索場所
「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」女たちはイエスのみことばを思い出した。」(1〜8節)
つい2、3日前にイエス様が人々の前にさらし者にされ、十字架の上で無残な死を遂げました。悲しく寂しい時を通ったわけです。イエス様が十字架で亡くなったのが午後3時です。安息日は夕方から始まりますから、2〜3時間の間にイエス様を墓に葬らなければならなりませんでした。安息日は一切の仕事をしてはならなかったために、通常行う「油を塗る」事もできず、一旦墓にいれました。そして、安息日が空けてまだ暗いうちに彼女達は墓に向いました。現在のようにあちらこちらに明かりのある時代ではありません。暗い道を、彼女達は心寂しい思い、悲しい思い、複雑な思いで墓に向っていきました。ただ「愛するイエス様に油を塗りたい」とその思いだけで向いました。
しかし彼女達には一つの問題がありました。イエス様が葬られたのは岩に横穴を掘った墓で、入口には大きな思い丸い石が立掛けてあります。「あの大きな石を女だけでどうやって動かせるであろうか」と不安を持っていました。しかし、行ってみると石が横によけられていたのです。不思議に思い、中に入るとイエス様の体もありません。そして体を包んでいた布だけがそこに落ちていました。彼女達は『途方にくれた』と書かれています。
突然そこに眩いばかりの衣を着た人が現われました。彼女達にはこの方々が人間ではないと分かったのでしょう。ひれ伏して顔を地面に伏せていました。すると『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか』と言うのです。皆さんこの言葉を覚えておいて下さい。私たちも結構同じ事をしていませんか。イエス様はもう生き返っている、勝利している訳です。それなのに一生懸命にいない所を「イエス様もういないのであろうか?神様は死んでしまったのだろうか。私は見捨てられてしまったのだろうか」と捜している。捜す所が違うのです。私たちはしばしばイエス様を敗北者の中で捜そうとしますが、そこにはおられません。
また、『人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう』この言葉に彼女達はハッとしました。イエス様は何度も語っていたのですが、それがすっぽりと抜けてしまっていたのです。サタンは御言葉をすっかり忘れさせてしまうのです。サタンがアダムとエバにした最初の攻撃は『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか(創世記3章1節)』と、神様の言葉に疑いを持たせようとしたものでした。その言葉を聞いてしまった彼らは、サタンが『あなたがたは決して死にません(創世記3章4節)』と神様の言葉を完全に否定しているのにも気がつかず、その否定された事の方を正しいと思ってしまったのです。私たちは、御言葉が抜けてしまわない様に、いつも御言葉を思い出すべきです。
御使いから指摘されて、女たちはイエス様のことばを思い出しました。ここで100%信じられたのかは分かりません。でも「そうか!」と思い出し、ホッとする思いが出てきたとは思います。今までの絶望と悲しみから光と希望を持ち始めたのではないかと思います。
「そして墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが使徒たちはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」(9〜12節)
女たちはイエス様の話していた言葉が抜け落ちていたのですが、もっとひどいのは弟子たちです。彼らは『たわごとと思ったので、彼らは女たちを信用しなかった』のです。弟子ですから、本来は信仰深い者達のはずです。弟子すらこうであるなら、私たちはもっとひどい状態であるという事は想像に難くないと思います。そう、これは私たち自身の姿なのです。すぐに不信仰に陥ってしまう。本来なら大喜びで感謝するべき事を絶望的な事のようにしか感じられない。女達がイエス様の言われていた事を天使達から聞かされ、その一部始終を話されても悔い改め様としない彼らの姿。その中で、ペテロは違ったようです。
「しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。」(12節)
実際に見に行ったのはペテロとヨハネだけです。これだけの事を聞いていながら、見に行こうともしない他の弟子たち。これが私たちの不信仰の姿です。そしてその不信仰が神様の恵みから、私たちを遠ざけているのです。せっかく神様がなして下さっているわざも、主が復活して下さっている事も分からないのです。
不信仰が目をさえぎる
「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかし2人の目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」(13〜16節)
この弟子たちは、イエス様と共に歩んでいました。エマオに行く途中で復活の事を話していた、まさにその中にイエス様が来られたのです。それでも気が付きませんでした。思い込んでいる彼らは、イエス様が生き返るなんて考えられないし信じられない。よみがえったイエス様の顔を見ても、イエス様とは思わなかった。「絶対生き返る事はない」と信じていますから、生き返ったイエス様に会ってもその事が受けとめられないのです。
「するとイエスは言われた。「ああ愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスはモーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、「いっしょにお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは彼らには見えなくなった。」(25〜31節)
イエス様は以前、同様のメッセージをされ、弟子たちもそれを聞いていました。でも、彼らは、イエス様が語られていると見抜く事が出来なかったのです。そして食事の時にパンを裂き祝福された時に初めて「この方はイエス様である」と気が付いたのです。その瞬間にイエス様は見えなくなりました。イエス様は忍耐深く、彼らが分かるまで一つ一つ語り続けた訳です。そして彼らがイエス様がよみがえった事が分かった時に、使命を終えてそこからいなくなられたのです。
「そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心は内に燃えていたではないか。」すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、「本当に主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだ思った。」(32〜36節)
話だけを聞いたがまだ疑いを持っている、その彼らのただ中にイエス様が現われたのです。これだけ「イエス様に会った」という話を聞いて、現実に目の前に来られても『霊を見ているのだと思った』のです。これでも復活した事を本気になって受け取ろうとしていない。「これほど不信仰なのか!」と思いますが、これが私たちの姿でもあるのです。今日はここから大きく二つの事を学ばせて頂きたいと思います。
まず第1は不信仰の姿です。これは私たちが日々歩んでいる姿ではないでしょうか。宗教改革をしたマルチン・ルターは改革をしていく上で仲間が殺されたり、迫害にあったりと悲しい出来事もあるなかで、ある時奥さんが喪服を着て彼の前に立ちました。彼は「また誰かが死んだのか」と聞くと彼女は「ええ。あなたの信じる神が」と答えたそうです。彼が落ち込み、何の希望も持てなくなったのを見て「あなたの神はもう死んでしまったようだ」と皮肉をもって励ましたかったのでしょう。
あなたの神様も時々死んではいないでしょうか。困難や苦しみばかりを見て、すでにそれに打ち勝っている方を、死人の中で捜している事が多いのではないでしょうか。「私はこれができない。こんなにも弱く、惨めで罪深い者だ」イエス様はその私たちの為に十字架に掛かって下さり御霊を与えて下さいました。愚かな弱い私たちだから、御霊と神様の力によって歩めるように、と復活の力を持って臨んで下さっているのです。でも私たちは復活されたイエス様を見る事をしないで「私にはできない。弱い、弱い」と死人の中に主を捜す生き方ばかりをし、復活の喜びを味わっていない。私たちがよみがえられたイエス様を見上げる時に、生きる喜びと命が漲ってきます。私たちは神様を信じるという事をもっとはっきりとしていきたいと思います。聖書の始めから終わりまで言っている大事な事の一つは「信仰」です。「信じ」て「仰ぐ」のです。自分の罪ではなく、死んでよみがえった方を仰ぐのです。死からよみがえられた。不可能が可能になる。できない事が神にはできる。その事を信じるべきだという事です。
「イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10章27節)
この証拠が復活です。私は弱いし私にはできない。でも主は人をよみがえらせる事ができるし、赦す事ができるし、救い出す事ができる。この事をもっとしっかりと受け取る事が大切ではないでしょうか。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなけれなならないのです。」(ヘブル11章6節)
神様に喜んで頂く為に良き事をし、奉仕をし、献金をする。それも喜ばない訳ではないでしょうが、聖書にはっきり書かれているのは「主を信頼する」事です。神様は本当に信頼に足る方です。「私は愚かでも神様にはできない事がない。神様は私をお見捨てにはならない」と信じるのを喜んで下さいます。この私にも神の力が注がれると信じる事です。そうする時に私たちの内に力が発揮されるのです。その時に神様は私たちを通しても素晴らしい業を成して下さるという事です。
もう一つ注目したいこととして、イエス様はなぜ何度も現われたか、ということです。それは、イエス様は何とかして私たちを励まそう、強く立たせようとしていることの現れなのです。
「彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義を打ち立てる。」(イザヤ42章2〜3節)
葦(アシ)は背が高く伸びる植物ではありますが、折れると弱い植物です。ところが神様は痛んだ葦、既に弱っているものを折る事がないだけではなく、もう一度生き生きとした状態に戻して下さいます。また『くすぶる燈心』とは、「風前の灯火」の信仰状態です。「これでも信じていると言えるのか。救われているといえるのだろうか。」そんな折れた葦を青々と茂らせ、消え入りそうな燈心に赤々と火を灯して下さる。有るか無いかの信仰をまた立ち上がらせて下さる。弟子達はこのことの良き例です。
彼らは一般的に言えば信仰深いと見られる人達でした。しかしこの彼らの不信仰の姿。ならば私たちがどんなに不信仰でも神様は「そうだろうね」と言って下さるのではないでしょうか。そしてそこからまた私たちを立たせて下さる。このことは大きな励ましではないでしょうか。今のあなたの状態がどのようなものであるか分かりませんが、その状態からもう一度赤々と燃え立たせて下さる。そして主の愛に生きる者に変えて下さる。その時には不信仰に留まる者ではなく、そこから立ちがる者となりたいと思います。
「そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わせることができるのです。」(ローマ11章20〜23節)
このみことばは、直接的にはユダヤ人の事を言っています。彼らは、不信仰になってしまった為に、遂には国をも滅ぼされてしまいました。今は信仰により神様に近づく者(クリスチャン)が起こされましたけれども、彼らも不信仰をやめれば、また接ぎあわされるというのです。反対に私たちも不信仰になれば神様から切られてしまう。しかし、これは「救われない」という意味ではありません。不信仰になってしまった時には「ごめんなさい。不信仰になっていました」と言えばいいのです。なぜならイエス様は私たちの過去の罪だけでなく、現在の罪、将来の罪にわたって、全ての罪の救い主となって下さっているからです。けれども不信仰になっていると御霊の力が消え、生きる力も喜びも愛もなくなってしまう。ですから、不信仰を続ける事はクリスチャン生活を続けるにあたり非常に危険です。救いの喜び、確信がなくなってしまうのです。ですから悔い改める事が必要です。
「肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども。もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もし死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ10章8〜11節)
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4章13節)
「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11章24節)
私たちが「イエス様が死からよみがえった事を信じる」とはどういう事かといいますと、「この方は私の罪をも赦す事ができる、私をも生かす事ができる、と信じる事なのです。このことを信じていく時に、私たちは大いなる主の御業を見る事が出来ます。聖書は多くの箇所で信じて立つ事を教えています。その時に弱い私たちに神様がその事をさせて下さるという事なのです。
10月号の百万人の福音にボブ・デュランさんの記事が載っています。彼はベトナム戦争で地雷により両足を失いました。その事故の少し前に神様を信じクリスチャンになっていました。本国に戻った後は大リーグに入るための契約も進んでいた中での事故でした。
彼は両足を失っても生かされているということは何か意味があるに違いないとそこから神様にあって私にできる事があると歩み始めました。何を始めたかといいますとウエイト・リフティングです。55kgの体重で137kgを持ち上げました。当時の世界記録です。ところが、ルールでは靴を履いていなければ失格だと決まっていたために、世界新を出した彼の記録が認められなかったのです。障害の中ですごい事を成し遂げたのに記録も優勝も認められませんでした。しかし彼はそのことを通して「神様は違う事を自分にさせようとしているのだ」と感じ、「神様にあって求めるならば何でもできる事を人々に伝えるのだ」と、両手だけでアメリカ4500km横断の旅を始めました。歩いても走ってもこれを成し遂げる人はそう多くはないでしょう。でも彼は「神にはできない事がない」事を人々に知らせたいと3年8ヶ月をかけ12州を横断したのです。障害を持つ方々の為に献金をする人もいましたし、その途上で彼の行動を通して350人の人がイエス様を信じるようになったそうです。
最初の内は「私は頑張ってやっている」と思っていましたが、そのうちに「神様の助けなしではできない」と思うようになり、最終的に横断を成し遂げた時には「神様がさせてくれなければ出来なかった事です。100%神様がして下さったのです。神にはどんな事でもできるのです。という確信に至りました。」とお話しをされています。私たちもデュランサンと同じ様に「事をなして下さる神様」に大胆に近づこうではありませんか。