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「希望のある人生」

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2002年12月15日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ2章1節〜20節より
牧師 吉田耕三

イタリアの詩人パピニが人間の生活に必要な物が3つあげています。1つ目が「健康」、2つ目が「食物」、そして3つ目が「希望」だそうです。希望が有りさえすれば、私たちはいろいろなことがあってもそれを乗り越えていくことができます。ですが希望を無くしてしまいますと、すぐになえてしまい弱ってしまいます。ある年のキリスト教世界大会で、迫害の中にある国から来ている人もおりました。ですが皆が口々に「イエス・キリストこそ世界の希望です」と言ったのです。誰にとっても、どんな人にとってもキリストこそ希望です。私たちはもっと本当の希望の源、希望としてのキリスト、あるいはこの恵みを味わっていくことが必要ではないかと思うのです。今日はクリスマスのメッセージ「希望ある人生」と題してご一緒に学ばせていただきたいと思います。

時満ちて・・・馬小屋に生まれた方

「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅命が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向って行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(1〜7節)

ここから、「クリスマス」が単なるお伽話ではなく、歴史上の出来事であり気休めではなく、私たちが信頼に足るものであることを現わして下さっていると思います。『皇帝アウグスト』とは通称で、本名はカイザル・オクタビアヌスです。クレニオが総督であった時の『最初』の住民登録です。この時に、皇帝から「住民登録をせよ」という命令が出たために、ヨセフとマリヤはベツレヘムの町に行ったわけです。イエス・キリストがどこで生まれるかは、多くの預言が何百年も前から成されていたのです。本来ならば彼らはナザレに住んでいたのですから、そこでお腹が大きくなったのであれば、ナザレで生むのが当然でしょう。身重で旅など、しないでしょう。ですが皇帝の命令ですから仕方がなくベツレヘムの町に行ったのです。それは短い時間そこに滞在するだけでした。ところが、その短い時間の中にイエス様の誕生があったのは驚くべきことではないでしょうか?時間的に少しずれていたならば、ベツレヘムではなくナザレで生まれる予定でした。でも「ベツレヘムで生まれる」ことは神様の時計、時満ちてこの出来事が起きたのです。物事は偶然にいろいろなことが起きるのではなく、1つ1つの事柄が神様の遠大な計画なのです。これはヨセフとマリヤだけのことではなく、私たちにも言えることであると思います。私たちの生活の小さなことに至るまで神様は御手を置いて下さるのです。ナザレかベツレヘムか知っておられ、その時を定めておられたのです。

ですがもっと不思議なのは、そのように定められていたイエス様が生まれたのが馬小屋であったことです。「救い主が生まれる」ことは何百年も何千年も前から預言されていました。そしてそれがベツレヘムであることもはっきりと記されています。ある日東方の博士たちが、ヘロデ王の元にやってきて、『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか』と聞くと、ヘロデ王は自分の地位が危うくなるのを恐れ、祭司長たちや学者たちを集め、キリストがどこで生まれるのかと問いただしました。彼らがすぐに「ユダヤのベツレヘムです」と答えられるほど知られていました。それならばそれらしく、イエス様の誕生を迎えればいいでしょう。ところが誰もいないばかりか、イエス様の生まれた場所は馬小屋でした。「王」が生まれるに相応しい場所でしょうか?イエス様がベツレヘムで誕生するのに、神の御心があったように、馬小屋で生まれることにも明らかに神の御心があったことをしっかりと心に留めておきたいと思います。イエス様はその生涯を通して神様という方を指し示していると思います。ですからこの馬小屋で生まれたことも神様の心を現わしていたのです。すなわちイエス様は美しい宮殿ではなく、汚物の臭いもあり美しくも素敵でもない場所、そこに生まれさせることが神の御心でした。それは救い主はそのような人々を救うためであったからです。もし皆さんの中に「私みたいな者は教会に相応しくない」とか「私は汚れているから」と考える方がおられるならば、その方こそイエス様の側におられる方です。イエス様はその人のためにこの世に来たことを知って下さい。ここに希望があるのです。「立派な人だったら神様の恵みがある」とか「素晴らしい事をしているから神様の祝福がある」これは分かりやすいです。でも神様は醜くて「そんな所に行きたくない」と思うような人の所にともにいて下さるのです。私たち自身が自分で「もう嫌だ」とへどが出るそんな自分。その私たちのためにキリストはお生まれになって下さった。「それならこの私でも該当する」「それなら私でも恵みを受けることができるかもしれない」と希望を持つ事ができるのではないでしょうか?「こうしたら、あのようにしたら、あなたは祝福されます」、良い様に聞こえるかもしれませんが、ある方にとっては希望を砕くことでしょう。素晴らしいかもしれませんが、「自分にはダメだ。ついていけない」。と思うかもしれません。でもそうではなく、イエス様は馬小屋に生まれました。私たちの心も家畜小屋のように汚物が転がっていませんか?妬む心、嫉妬する心、人を蹴落とす思い・・・。これが私たちではないでしょうか?そこにお生まれ、真の希望を与えるためにキリストは来て下さったのです。私たちはこの希望のメッセージをクリスマスにいただくことができたらと思うのです。さてそのベツレヘムのすぐ側で羊飼い達が夜番をしていました。

「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしてながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(8〜14節)

羊飼いたちは見下されていた人たちでした。理由はユダヤ人にとっては律法に従うことが大事であり、「従っていない者は、神様の祝福をもらえない」と考えられていました。羊飼いたちは聖書の教えに忠実に従い「汚れた物に触れたら、手を洗う」とか「安息日は仕事をしてはならない」。毎回羊に触れる度に手を洗う事が出来ますか?安息日に羊番をしないでいたら羊はどうなりますか?ですから「羊飼い達は律法を破っているから神様から遠い人たち」と見下されていたのです。また彼らの生活はどうであったでしょうか?私たちもたまに草原に行きますと(素晴らしい)と感動しますね。でもそれが毎日であったらどうでしょうか?その野原で毎日暮らしていたなら素晴らしいとも思いません。目の前には羊が鳴いているだけです。「何だかつまらない。何か面白いことがないであろうか」と思っていたかもしれません。彼らはむなしさを感じていたかもしれません。あるいは「自分は神様に近くない」と劣等感を持って歩んでいたかもしれません。ところが救い主の誕生のニュースは、神様から遠いと思われていた羊飼いたちに一番最初に知らされたのです。自分の生活に満足しきれないで、あきたらないでいた彼らに神様の光が照り輝いたのです。そして『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』という言葉を聞いたのです。周りが神の栄光で照らされたのです。羊飼いたちはその驚くべき出来事を見たのですが、彼らは『ひどく恐れた』と書かれています。素晴らしい出来事ですが、それを素直に「神様のもの」と受けとめられないと怖くなってしまうのです。でも神様は彼らを励ますためでしょう。もう一度そこに天使が現われ素晴らしい歌声がそこに響きました。『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』素晴らしい賛美の言葉です。そしてその賛美が消えるとまた元の真っ暗な静寂に戻りました。

希望の子を心に迎え入れる

「御使いたちが、彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごを捜し当てた。それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。しかし、マリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話の通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていった。」(15〜20節)

彼らは驚きましたが、天使の言葉を覚えていたのです。ベツレヘムにどうやって行ったのか分かりませんが、神様が導いたのでしょう。彼らは馬小屋に着き、語られた通り飼葉桶に寝ておられる赤ちゃんを見たのです。自分たちは「神様から遠い」と思っていた彼らに、神様が語られただけではなく、事実であった事を知りました。ということは「この方は救い主」であり、自分たちも神様の恵みと愛に与りました。このことはここにいた羊飼いが一生忘れる事のできない出来事ではなかったでしょうか?会う人々ごとに「自分は本当に御使いに会い、救い主誕生の言葉を聞いた。その言葉は事実であった」と何度も何度も語ったのではないでしょうか?喜びに溢れ神様が自分に触れて下さった喜び、希望を彼らは持ち続けたのではないかと思います。神様は「特別な素晴らしい人」ではなく、泥臭い汚れた醜い者を救うために来て下さった。私たちに必要なのは、「こんな醜く汚く酷い私です。でもどうかこの私をお救い下さい。」と神様に心を開くことではないでしょうか。羊飼いたちはこの知らせを聞いた時に、本当かどうかを見に行きました。私たちも「神様、どうか私を救って下さい」と一歩踏み出すことが必要です。考えてみれば私たちは弱く汚れ、神様に近づく事ができないようなことを日々しているのではないでしょうか?でもこんな私を救うために来て下さりました。これがイエス様が伝えて下さったメッセージです。私たちはこの方を思い浮かべる時に、希望が出てくるのです。こんな私の内にも神様はわざを成して下さるのです。何の変哲もなくマンネリ化した生き方で「人生こんなもの」と諦めかけている私たちに命と喜びと希望を注ごうとされておられます。

「ヨハネ10章10節 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10章10節)

 もしあながたこのお方に心を開いてお任せしていくならば、あなたの内にこの希望が、喜びが現実のものになるのです。 

「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」(ローマ15章13節)

あなたの内に望みがありますか?希望がありますか?喜びがありますか?『聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。』そのためにキリストはこの世にお生まれになって下さったのです。必要なのはこの方に私たちが心を開くということなのです。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)

『わたし』とはイエス・キリストのことです。『戸』とは心の扉のことです。もし私たちが心の扉を開くなら、そして「イエス様、私も救いが必要です。弱い者です。愚かな者です。罪深い者。希望のない者。虚しい生き方しかできない者です」と正直に神様の前に出、「こんな私を救って下さい」と心を開けばそれで良いのです。あなたが心の扉を開くがどうかです。「救って下さい。私の心に喜びと希望を満たして下さい」と心開いて主の恵みに与りましょう。イエス様を信じてきた人も、もう一度主の前に心を開いて救い主としてお生まれになった方を受けとめていきましょう。

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