2002年12月22日 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書イザヤ9章1節〜7節より
牧師 吉田耕三
クリスマスは今や世界中で祝われています。ではクリスマスはどんなお祝いであり、どんな意味で幸いなのでしょうか?司会者に『苦しみのあった所に、やみがなくなる。』『やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。』と読んでいただきました。クリスマスとは正にそのようなときです。この地上に生きる全てのものに注がれた大きな喜び、大きな光、希望なのです。神様は今も生きておられ私たちひとりひとりを本当に造り変えたり、生まれ変わらせたり、新しい喜びや希望に生かすことができるのです。そのことを私たちに伝え、それを受け取るのが「本当のクリスマス」なのです。おいしい物を食べ、良い物を着て、それも悪くはないでしょう。しかしその心が本当に豊かにされてこそ、真のクリスマスということができると思います。
1818年クリスマス・イブの日。ある町でイブの集会の準備中にオルガンの音が急に出なくなりました。牧師になりたての25歳の青年は祈りながらある歌詞が思い浮かび、それを書き写し、オルガニストに「曲をつけてくれないか」と渡しました。その歌が「きよしこの夜」です。このような経緯からできた曲は人々に深い感動を呼び起しました。ある時にオルガン修理が来た時にも、「きよしこの夜」を歌っていました。すると彼も歌を覚えてしまい家に帰ってから楽譜にした、それが世界中に広がっていった有名なクリスマス・ソングなのです。思いがけない事柄から、大きな祝福に変えられることができるのです。神様は私たちの闇さえも光に変える事ができる方なのです。聖書の言葉にこうあります。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8章28節)
神様は皆さんが今持っている、暗闇、苦しみ、悲しみが大きな祝福に変る秘訣をイエス・キリストが持っていることを知っていただけたらと思うのです。
闇の中の光
「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。」(1〜5節)
ここはイスラエルの歴史が分からないと少し分かりづらい箇所かもしれません。イスラエルの民とは、アブラハムの子孫です。アブラハムは歴史上の人物であり、彼は本当に神様を信じ従った。神様はアブラハムにこう言われました。
「仰せられた。「これは主の御告げである。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22章)
神様に従うイスラエルの民は祝福を受けたのですが、同時にイスラエルの民に警告も与えました。「もしあなたが神様に従うならば祝福を受けるが、神様を捨てるならば、呪われてしまう。」彼らはある時は神様に従いましたが、多くの時は神様から離れ自分勝手な道に歩み、その結果「神様の警告」の道を実際に体験しなければならなかったのです。その1つがイスラエル王国が他国から攻込まれ、イスラエル人たちが連れ去られてしまったということです。今日の箇所はアッシリアに連れて行かれた時のことです。神様の祝福がそこから離れてしまったと思われたのが、ゼブルンとナフタリの地です。ところがその地は神様の素晴らしい祝福と恵みを受ける事ができたというのです。『やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。』。これはマタイ伝4章に記されている、イエス・キリストが宣教を始めたときのことです。素晴らしいニュースが「神様から見捨てられた」と思われていた地で始まったことを預言した言葉です。
それはどういうことでしょうか?『彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。』とあります。人々はそのことの故に本当に喜ぶようになり、生きる希望のなかった人に生きる希望が、友達のなかった人に神の子イエス様が友となってくださいました。愛してくれる人がいない人が「本当に愛された」という確信が宿り、喜びと希望と命があふれ出るようになった。
なぜでしょうか?『あなたの彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。』。神様が私たちのさまざまな重荷を取り去り、砕いて下さるからです。私たちはさまざまな苦しみを持っています。過去の失敗、罪責感、人間関係、病気、経済的な悩み、将来の不安・・・さまざまな重荷があります。それに対して『ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれる。』というのです。これはイスラエル人がミデヤン人と戦った時のことです。ミデヤン人10数万人。対しイスラエル人は3万人強です。多勢に無勢で勝ち目がないと思われました。その時に、神様はギデオンに「その数では多すぎるから、戦いが怖い、と言う者は帰しなさい」と語ります。すると1万人しか残りません。神様はそれでも「まだ多すぎる」と言い、次の選抜をします。
「そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民は、みなひざをついて水を飲んだ。そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民は、みなそれぞれ自分の家に帰らせよ。」(士師記7章5〜7節)
神様がこの300人で10数万の敵を打ち破る勝利の戦いが、ミデヤンの戦いです。その戦いと同様に、その重荷がどんなに苦しく酷いものであっても、神様はそれを打ち破るというのです。それも『打ち砕かれたからだ。』。もう既になさった過去のことであると言うのです。『戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。』。この意味は平和になるので武具は焼かれるということです。これが預言です。それは1人の嬰児を通してなされるのです。
光の子を迎え入れる
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な預言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(6〜7節)
その素晴らしい御業は、ひとり子によって起りました。その者は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。』本当に平和をもたらす者となりました。イザヤは紀元700年前の人物です。イエス・キリストが生まれる700年前に預言された言葉です。イザヤは将来起ることを仰ぎ見てそのように預言したのですが、「過去形」で書いています。はっきりと必ず起る時に、こういう書き方をするのです。しかし私たちはこのことを本当に過去のこととして見ています。イエス・キリストの誕生は誰ひとり疑うことのできない事実であるのは、ご存知と思います。「紀元前」BCとは、「BeforeChrist」キリスト以前。AD「AnnoDomini」とは「主の年」という意味です。それだけなくこのお方は十字架刑に掛かって下さったことを私たちは知っています。その十字架こそが全ての災いの勝利なのです。
聖書では、この世界は元々神様がお造りになったのですが、人間(アダムとエバ)が誘惑に乗ってしまい、この地の支配を悪魔に売り渡してしまったと記されています。ですから直接的には悪魔の支配下にあるわけです。ところが、イエス・キリストは十字架により、悪魔を打ち破り壊しました。ですから今の時代イエス・キリストを信じる者には、真の神の力がひとりひとりの内に働くのです。ですから悪魔の支配下から、悪魔に打ち勝つ勝利がそこに現われてくるのです。一番分かりやすいのは「罪」です。私たちは罪から解放されています。でも私たちは人を赦すことも中々できません。妬む心や嫉妬心など一切が私たちの心から取り除けられたら、どんなに住みやすい安らかな生き方ができるでしょう。しかしそう思ってもできません。
「良い事」を結構多くの人が知っています。教会が教えなくても「良い事」を知っています。でも問題はそれができない。良いことと分かっているならば実行したらいいではないですか。ところが「こうしたら良い」と思うことを私たちはできなくなっているのです。自分自身が自分の思い通りにならないのです。何かの奴隷になり支配されているのです。はっきり言えば私たちは悪魔の支配を受けているのです。だから自分の力で一生懸命そこから逃れようとしてもなかなか逃れられないのです。ですがキリストはその私たちの重荷を打ち破るために来て下さったのです。あなたがどんな重荷、苦しみを持っていたとしてもこのお方を心の真中に迎えるならば、この方は私たちの内にあってその力を与え、変え始めて下さるのです。ですが一気に変るわけではありません。中には一気に変る人もいますけれど。ですが聖書は語ります。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5章17節)
徐々にではあっても、私の内にも、神様は造り変えの業をなさって下さります。皆さんもこのイエス・キリストを迎えいれたならば、このことが起ります。そして大切なのは、迎え続ける必要があります。「迎え続ける」とは、信じるのは1度だけで良いのですが、心の王座に迎え入れ、神様を第一にして歩むことです。そうでなければ、いつの間には喜びが消えていってしまうのです。いつでも喜びにあふれるクリスチャンとなっていきたいですね。イエス様を心の王座に迎え続ける時に神様はあなたの闇や重荷がどんなものであっても、それを打ち破り、あなたの内に希望と喜びと力を与えて下さります。問題は私たちが心を開いてこの方を受け入れるか否かです。イエス・キリストは言いました。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16章33節)
私たちもさまざまな患難、苦しみ、悩みを持っているのではないでしょうか?問題は「本当に私には闇と苦しみがある」ことを認めるとともに、『わたしは、すでに世に勝ったのです』と、その中でイエス・キリストが十字架に掛かり、それに勝利を成し遂げ砕かれたことを信じることです。
それがどんな問題であったとしても、乗り越えられない問題はないのです。神様はどんなマイナスもプラスに変え、どんな闇の中にも光を輝かせる事ができるのです。問題はそれをあなたがイエス様の前に持って行き、イエス様が十字架により勝利して下さったことを受け取るかどうかです。受けとるならばそのことがあなたの内にも起るのです。あなたにも新しい生涯が始まるのです。世界中のクリスチャンは皆その経験を持っています。私たちはこのイエス・キリストを2000年前の自分とは関係ない人と思い浮かべるのではなく、2000年後の私たちの人生をも造り変え、私たちの悩みや重荷を打ち破り、乗り越えさせていただく方として受け入れることです。私たちがただ神様にすがっていくならば、どんな中からでも私たちを引き上げて下さるのです。
あるビジネスマンがおりました。多くの借金を抱え、一家心中のニュースを見ると「明日はわが身か」と考えていました。ある時に聖書の言葉『あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(第1コリント10章13節)に触れました。一家心中しかないと考えていましたが、神様が耐えられない試練を与えられないばかりか、脱出の道も備えてくれるのならば、その神様に賭けてみようと思い、本気になって神様に賭けてみました。その時から彼の内に新しい光が与えられました。まず第1にしばらく全くなかった平安が心にやってきました。そして冷静に考えると、1つ見逃していた道があり、そこから道が開かれ、会社も再建する事ができました。
私たちも同じ御言葉の約束を持っています。方法や内容は違うでしょう。しかし神様にあって不可能はありません。必ず脱出の道はあるのです。問題はその方に「私も闇の中にいます。罪を持っています。恐れを持っています。不安でたまりません。どうぞイエス様こんな私を救って下さい」と心の王座にお迎えすることです。これがあなたの力となるでしょう。そして生涯の勇気と希望と喜びがそこから涌き出てくると思います。