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「力を着せられるまで」

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2002年12月29日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ24章44節〜53節より
牧師 吉田耕三

いよいよ2002年最後の礼拝になりました。約2年半学んできまたルカの福音書も最後の部分になりました。ここもイエス様召天前の最後のメッセージとなりました。「最後」が重なりましたが、それに相応しい深さや重さをともに受けとっていけたらと思います。

最後のメッセージ

「さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇に書いてあることは、必ず成就するということでした。」(44節)

 イエス様が十字架に掛かり、死んで墓に葬られ3日目に蘇られ、40日間人々に現われました。『わたしについてのモーセの律法と預言者と詩篇に書いてあることは、必ず全部成就するということでした。』と話されました。旧約聖書に書いてあった預言は必ず行われます。例えば「イエス・キリストはベツレヘムの町で生まれる」「銀30枚で売られる。」「私たちの罪の身代わりとして十字架に掛かり死から蘇られる」。全てが何百年も前から預言され、事実その通りのことが起きたわけです。このことをもう一度、再確認をしたのです。さらにイエス様は、思い出させるために、 

「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたはいと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(45〜49節)

 「3日目にイエス様が蘇った」、このことは前もって預言されていたでしょう。と確認するわけです。そしてこれがエルサレムから、あらゆる国の人々に伝えられるでしょうという預言します。そしてあなたがたこそがその証人であると言うのです。皆さんは大切な役割をどんな人に任せますか? 頭もきれて、何でも良くできて「この人なら大丈夫」という人に託すでしょう。イエス様も自分の命を掛けて勝ちとった救いの御業を全世界に宣べ伝える働きを託そうとされています。いざとなると逃げてしまう様な弟子達です。だからこそイエス様は1つの事を命令します。『さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたはいと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』。これは「聖霊」のことを言っています。「その力を受けた時に、あなたがたは神様の証人となって全世界に福音を伝えていく者になるのです」。と言ったのです。 

「それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」(50〜53節)

 ベタニヤで弟子たちから離れ天に帰って行かれました。彼らはその事を覚えいつも喜びをもって神様を褒め称えていました。ここから使徒行伝に移って行きます。使徒行伝には 

「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。」(1章1〜2節)

と書かれています。ルカ福音書と使徒行伝はルカという人物が書いています。ルカの最後の部分はイエス様が天に帰られた時の事を言っていると分かると思います。この中で私たちは大きく2つのことを教えられていきたいと思います。

神様の愛にふれて・・・悔い改める

イエス様が地上での生涯の終わりに「これだけはしっかりとつかんでおきなさい。」と宣教のわざを託すべく弟子たちに言った内容の第一は「悔い改め」です。『次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』。聖書は厚い本ですから、大事な言葉がたくさんあります。けれども、あえて「これだけは忘れてはならない」点は、罪の赦しを得させる「悔い改め」ということです。私たちはここに焦点を合わせさせていただくということなのです。「悔い改め」は多くの祝福と恵みを与えてくれます。神様に自分の罪や弱さを告白するのです。「私はその様な者でした。愚かな者でした」と1つ1つ告白すると解放され自由になっていきます。自分が変えられていく恵みをたくさんいただけます。そういう訳で「悔い改め」をよく理解させていただくことが大切であると思います。

『聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、』とあります。実は素晴らしい神様の真理、御言葉も神様が心を開いて正しく受け取らせていただくのでなければ、あまり意味も力も持たなくなってしまうことがあるのです。「悔い改め」とは、神様の大きな愛に触れて自分の間違いに気づき「ごめんなさい。本当にあなたの元に立ち返って来ます」と心を変えていくことなのです。でもそれは「大きな愛に触れて」です。怒られてとかいじめられてではありません。本当に酷いことをたくさんしてきたにも関わらず一切責め立てず「それを赦す」と言って下さっているわけです。このことに触れる時に、私たちは「ごめんなさい。もうそのことをしたくありません。」という気持になってくるのです。でも私たちも考えてみたら、イエス様が「赦して下さる」と言っても、年中それを裏切り神様を悲しませることばかりをしていると思いませんか?「もうお前なんかダメだ。お前なんか死ぬしかない」と言われても仕方がなのです。

それにも関わらず神様は忍耐して期待して下さるのです。「あなたは何時か神様のために役立つ時が来るのだから」と待っていて下さるのです。この神の愛に触れる時、私たちは「イエス様ごめんなさい。あなたに従っていきます」という気持になるのではないでしょうか?イエス様は「分かっているよ。そのための全ての責めは私が十字架で受けたのだから安心しなさい」といつも赦し励まして下さるのです。このイエス様の十字架を見上げ赦しを覚えて立ち返っていくのです。イエス様は『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。マタイ11章28節』と言って下さっています。私たちにはできないのです。こんな私たちにイエス様は「それでいいのだよ。私の所に来なさい。」と言って下さり、それにより罪の赦しをいただくことができるのです。このことが第一です。「どうせ私はダメなんだから仕方がないでしょう」。これでは本当の意味で神様の愛に触れることはできません。私たちに居直った心があるのであれば、イエス様の言葉通り『聖書を悟らせるために彼らの心を開いて』と「私の心を今開き、この事が分かるようにして下さい。神様の愛が分かるようにして下さい。こんな酷い私ですが、もう一度やり直し立ち上がらせて下さい。」と神様の元に立ち返るのです。何度失敗しても、また神様の元に立ち返ってくるのです。これが第一に私たちが、いつでもどんな時でも忘れてはならない信仰の秘訣です。

イエス様お入りください

そして次に『わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。』。イエス様が私たちの罪の身代わりとなり死んで下さった故に、私たちの内に送られた「聖霊」のことです。この「御霊」があなた方に望み力が与えられるまでは、エルサレムに留まるようにと言われました。聖霊はまだ来ていないのでしょうか?イエス・キリストが天に帰られた10日後、ペンテコステの時に驚くべきことが起きました。

「五旬節の日になって、みなが1つ所に集まっていた。すると突然、天から風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。」(使徒2章1節〜3節)

彼らは、今までできなかったことができるようになったのです。今や聖霊は注ぎ出されていますから、悔い改めてイエス・キリストを信じる者は誰でも受ける事ができるのです。問題は聖霊により力が与えられるまで待ち望むことが必要です。別な言い方をしますと、私たちは日ごとに、朝ごとに神様の力を待ち望む事が必要だということです。聖書を読み、心開いて御言葉が私たちの内に生きて働くようにへりくだった気持で読ませていただくのです。私たちは「分かっている」という気持ちで読みますと、新しく学ぶ事ができないのです。『人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだしらなければならないほどのことも知ってはいないのです。コリントI8章2節』とも書かれています。「神様、私にはまだ分かりません。教えて下さい。私の心を開いて下さい」、これが大切です。それをされるのも神様です。

では次に何をすればよいのでしょう?イエス様を信じている私たちの内に聖霊様は来ています。その方に委ねる作業が次に必要になってくるのです。朝静まり「今日1日さまざまな仕事がありますが、神様あなたがこの事をなさって下さる事を信じます。あなたに委ねます。」という気持になれるまで神様の前に静まる事が大切なのです。これが「ディボーション」(=熱中する)という言葉です。神様との関係に熱中するのです。「神様どうか今日の1日あなたとともに歩めるように、私に力を下さい」と毎日静まり祈ることが大事です。それにより私たちは力をいただくことができるようになってくるのです。

では具体的に私たちはどのように明け渡し委ねてけばよいのでしょう。多くの方がイエス様をお迎えし玄関までは入れるのですが、玄関から先のどの部屋にも入れないのです。玄関に入れたことすら忘れ、自分勝手にやる事もあるのではないかと思います。クリスチャンとして中々この力を体験できないというのは、これが理由です。神様の力は御霊によるのです。ところが御霊様を心の王座にお迎えしていないから私たちが神様の力を体験できないのは当然です。救われてはいますが、神様の力を実生活の中で味わうことがないわけです。私たちは「それぞれの部屋」が汚くても、酷くてもその部屋に「イエス様来て下さい」とお迎えすることが必要なのです。1つ1つの部屋を明渡していくときに不思議に力が出てきて、今までできなかったことが、だんだんとできるようになってくるのです。

このために神様はときどき私たちを弱さの中に閉じ込めることがあります。私たちが「自分が本当に弱いのだ。これは自分の罪だ」と認めることができるようになるまで、私たちの弱さや醜さを教えられることがあるわけです。例えばあなたの前にどうしても赦せない人がいるとするならば、今神様はあなたに「人を赦すことができない人間である」ことを教えているのです。ですから自分の力で人を赦そうとするのではなく、「神様、私は赦せません。だからあなたが赦せる人にさせて下さい」とお委ねすることなのです。気が付くと自分の中からその力が出て来るのです。問題は弱さを認め明渡し委ねていくことなのです。弱い部分や酷い部分に関しては「神様でも直すことができないのではないか」と考えてしまいます。その部分を解放するためにこそイエス様は来て下さったのだから、「イエス様が来て下さったことを感謝します」と受け取ることが大事です。

そして反対に強い部分に関しては「この部分にはイエス様を必要としていない」と思っています。その部分もどんなに弱いかを示すために色々な出来事を起こすこともあります。自分で得意と思っている分野もまた神様に明渡させていただく者になっていくことが大事なのです。そうする時に私たちはあらゆる分野において強くなり力を受けるのです。強いと思うからイエス様を入れないのです。私たちが自分の弱さを認め「イエス様入って下さい。私では手の施しようがありません」と委ねると不思議にその部屋がきれいになっていくのです。御霊に明渡し委ねる、これが力を受ける秘訣です。ぜひそのように歩んでいただきたいと思います。

ひとりの牧師は「自分には力がなく弱々しい」と思っていました。ある集会でメッセージをすることになりました。とにかく力がないから「神様助けて下さい。あなたにお委ねしますから」と祈りメッセージを語りました。話し終った後で、「この中でイエス様に命を掛けて生涯従っていきたいという方はいますか?」との呼びかけに全員が立ち上がったそうです。彼は「多分言葉の意味を勘違いしたのであろう」と思い、もう一度座らせよく説明して「イエス・キリストに生涯を捧げていく方がいますか」と再度聞いたら、やはり全員が立ちあがったのです。彼は自分には何の力もないと思っていたのですが、その日聖霊様の力が聴衆に大きく強く働いたようです。神様の御業は今私たちを通しても働いていくのです。私たちに必要なのは「この方に委ねていくこと」です。皆さんの中で「自分には聖霊が来ているかどうか分からない」という方は、まずイエス・キリストの死が私の罪のためであったと信じることです。そして「イエス様ごめんなさい。私は罪人です。私の代りにイエス様が十字架を受けて下さった事を感謝します」とイエス様を罪からの救い主として、自分の弱さからの救い主、「主」として信じることです。そうするならばあなたの内に聖霊が来て下さいます。

「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(第一コリント12章3節)

聖霊様が来ていなければ、平気で「イエスは呪われよ」といえるのです。しかし聖霊が来ていると口では言えたとしても、心の中では、「それは違う」という気持が強くなってしまうのです。「イエス様を救い主である」と思えるなら、皆さんの内に聖霊が与えられている証拠です。ですから必要なのは1つ1つを任せ、委ね明け渡していくことです。

そのことができていない方は、「今イエス・キリストを救い主として信じます」と祈っていただければと思います。その時に聖霊が来てくださいます。私たちは主に明渡していくことにより力をいただくクリスチャンになっていきましょう。この力により、あの弱々しかった弟子たちが強められ、世界伝道に立ち上がっていったのです。全世界で何十億の人が神様を信じています。聖霊の働きによるのです。私たちも弱い者ではありますが、明け渡していく時に強くされていくのです。悔い改めと明渡し、この作業を忘れないようにしたいと思います。新年に向けて力強い歩みをしていく者となっていきたいと思います。

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