2003年1月1日 元旦礼拝 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書第1歴代誌4章9節〜10節より
牧師 吉田耕三
「ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。ヤベツは、イスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」(4章9節〜10節)
皆さん、明けましておめでとうございます。1年の初めの時を礼拝で始められるとは幸いだと思います。神様は『初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖のです。(ローマ11章16節)』と言っていますが、私たちがこの1年、神様に被い守られ祝福されて過ごす、初めの時とさせていただけたけたことを感謝したいと思います。
その中で年頭の言葉には何がふさわしいかと考えた時に「ヤベツの祈り」としました。昨年の祈祷会で少し学びました。それで今日のタイトルを「続ヤベツの祈り」とつけました。日本は今までに経験したことがないような景気の落ち込み、不況、リストラ、賃下げなどがごく普通に起こるようになってきています。日本が戦後経験したことのない状況下におります。そればかりか、あらゆる面において闇が深くなっていくような世界ということができると思います。その中にあって私たちはいかに生きるべきか?昨年は『神の国とその義とをまず第一に求めなさい。(マタイ6章33節)』をご一緒に学ばせていただきました。それがまず第一です。今年はそれに続き「ヤベツの祈り」。「神様私を大いに祝福してください。本当に私があなたの祝福の基として、あなたの光を輝かす者として、私を大いに祝福して下さい」という祈りを大胆にしていきたいと思うのです。実はこの「ヤベツの祈り」がどのような中でなされた祈りであったのかを覚えたいのです。前回祈り会で学びましたのは、「一見すると『自分勝手な祈り』に思えますが、神様はその「ヤベツの祈り」に応えられたのです」とお話しをさせていただきました。
もう1度9節を読んでみます。『彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。』。要するに「悲しみ」からこの祈りが出て来ているのです。赤ちゃんが生まれるのは、嬉しいことですね。何もしなくても笑顔が出て来ますし、周りもそれによりなごませられます。じっと見ているだけであっという間に1時間たってしまったりと、そんな祝福が注がれるわけです。ヤベツの母親は、『「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。』のです。この状況を少し思い巡らして下されれば、と思います。よりによって自分の子供にそんな悲しい名前をつけるでしょうか?「痛み」とか「悲しみ」という意味です。普通なら子供が元気になって欲しい、明るくなって欲しい、飛び立って欲しいなどの願いを込め名前をつけます。しかしヤベツの母は、彼に「ヤベツ」とつけざるをえなかったのです。本当に悲しみでありました。その悲しみが何であったのかは、全く記載されていません。ご主人がいなかったのかもしれないし、それよりももっと悲しいことがあったのかもしれません。「痛み、悲しみ」という言葉をつけることしかできない、それにより何とかそこから立ち上がっていこうとしたのではないかと思います。
このヤベツが、『イスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。』。この中から気づかされることがいくつかあると思います。ヤベツに与えられた祝福は、小さな祝福ではなかったと思います。この歴代誌を見てみてください。人の名前が列挙されています。この中でヤベツが祈りをし、そして祝福されたというのは特筆するべきことです。創世記で『イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。(創世記26章12節)』とイサクに与えられた祝福が書かれています。ですから書き残しておく様な祝福がヤベツの上にもあったと言えると思います。私たちもいろいろなことを祈ったりしますが、神様が応えてくれたことを覚えていますか?『主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103編2節)』と先ほど司会者も祈って下さいました。「何一つ」忘れるな、です。皆さん頭に何1つ覚えていないということが結構あるのではないですか?実に私たちは何と忘れっぽい者でしょうか?祈っても祈ったことすらも忘れているということもよくあります。
私もクリスチャンになった時に、「祈りのノート」を作りました。応えられなかったので飽きっぽい私は、続けないでそのうちどこかにいってしまいました。何年か後にそのノートが出て来ました。見つけた時には(ごく当たり前)と思っている事柄が、自然の成り行きと思っていた事柄が、ノートに全部祈りの課題として書かれていました。「お願いです。神様こうして下さい。」と祈っていたことでした。それが時とともに、すっかりと忘れてしまい、「自然にこうなっていったのだ」と思いこんだわけです。皆さんもそうではないでしょうか?ある方は「辛い事があって『どうしてこんなに辛い事ばかりが続くのか』と思っていたら、『どうぞ私を砕いて下さい』と前に祈っていました」という方も結構います。私たちは忘れてしまっているのです。しかしヤベツの場合はその程度のものではなかったのです。忘れっぽい私たちでも、大きな物であれば忘れられないでしょう。そういう出来事がヤベツにあったということです。
第2番目にヤベツが祝福がされる事は当然と思われなかったと思われます。9節に『ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。』と書かれています。なぜ「ヤベツが祝福された」と書かれるだけでなく、ここでわざわざ兄弟のことが書かれているのでしょうか?もしかしたら、本来なら兄弟が祝福を受け良き目を受けるはずではなかったのでしょうか?ところがヤベツが重んじられたのです。意外なこととでもいいましょうか?これも特筆するべき事柄であったと思います。普通の流れではない祝福。あえて言うならば彼には反対の祝福されない兆候が見てとれたのではないかと思われます。
そして3番目に祈りを通して思われる事は、ヤベツはその逆境が、苦しい辛い出来事が彼の祝福の基となっていた事に気づかされるのです。彼は『呼ばわって言った。』。祈り叫び求めざるを得なかった状況であったと思います。普通に暮らせるのではなく、祈らなければ大変なことになってしまうのです。生きていくことができない、せっぱつまった状況が彼の内にあったと思うのです。そしてその1つ1つがみな覆されて、『そこで神は彼の願ったことをかなえられた。』。窮地の中で祈った祈りこそが見事に応えられ、神様の祝福と変えられていったと教えているのではないかと思います。
このことは私たちにも大いに学ぶことができる内容ではないでしょうか?私たちはついつい色々な問題を挙げて、神様から祝福されない理由としてしまっていることがあるのではないでしょうか?「私はこういう状況だから」「こういう環境だから」「こういう星の元に生まれたから」「だから私はうまくできなくも当然。失敗しても仕方ない」とマイナスに物事をとらえてしまう危険性があると思います。今のこういう世の中です。ですからマイナスに考える事がごく普通だと思います。さまざまな理由をつけて「仕方がない」と言うのです。私もあまりよく知りませんが、英語では「仕方がない」という言い方はほとんどしないそうです。この教会の初代宣教師であったコンラッド師は、アメリカに帰られてからも英語風に「仕方がない」という言葉を連発していたそうですが。それだけ日本語の中では「仕方がない」は頻繁に使われているということではないかと思います。もし神様がいなければ「仕方がない」かもしれません。でもこの逆境の時に私たちは「仕方がない」ではなくて、ヤベツの祈りに変換していくものとなっていきたいのです。逆境こそ正しく神様の大いなる祝福の現われに変えられていくのです。そこそこの生活をしていれば、「神様は守って下さったかどうか知らないけど」となるかもしれませんが、でも私たちが大きな逆境の中にあれば、必死になって祈らなければならないでしょうし、そのことが大いなる神様の祝福とならざるをえないのではないかと思うのです。そういう意味でさまざまな困難、苦しみ、問題があればあるほど、それこそが大いなる祝福の現われの場所であるととらえ、神様に求めていく者とされたいのです。
皆さんが苦しみや戦い、困難を覚えられた時には、ぜひ詩篇を読まれるといいと思います。本当に私と全く同じ気持だと思うと思いますし、そこから励ましと慰めを受ける事もあるかもしれません。
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり、山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。」(詩篇46編1節〜3節)
いかなる困難試練があっても、神がわれらの避け所であるならば、何を恐れる必要があるでしょうか。何を恐れおののく必要があろうか?神こそ我らの避け所である事にぜひ思いを向けて欲しいと思います。さらに
「私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。主は私の口に、新しい歌、われらの神への賛美をさずけられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」(詩篇40編1節〜3節)
どうしたら『主はわれらの避け所』となるのですか?『切なる思いで主を待ち望んだ』、これがキーワードです。私たちの問題は『切なる思いで主を待ち望む』か「仕方がない」と言って諦めてしまうか、ここが大きな違いです。あきらめてしまえばそこまでです。それ以上の祝福は与えられないでしょう。でも『切なる思いで主を待ち望む』ことができたなら「ヤベツの祈り」が私たちの祈りに変わっていくのです。昨年「ヤベツの祈り」という本が売れ、ヤベツ効果とでもいいますか、多くの方から「このように祝福されました」という報告があったようです。それだけを聞いて実践した方もいたようですが。「三日坊主」という言葉がありまして、3日経っても応えられないと「やめた」とすぐに諦めてしまうのです。結果としてその祝福を十分に、いただくことができないことも、ままあるようです。しかしもし私たちの思い、求めが切なるものであったならどうでしょうか?そう簡単に止めることはできません。先程ヤベツがそれほどの窮地であり、苦しみであったのは、そこまで彼が必死に求めていく1つの助けになったと思います。ヤベツは、神様を求めなければ、1日を生きることができるかどうかも分からない状況であったのです。物質的にであったかもしれないし、精神的にでもあったかもしれません。毎日祈り戦って主の御顔を呼び求めざるをえなかったのです。その祈りは高く、高く神様の前に積み上げられていったのでしょう。
ある方が「日本の教会は議論する教会。台湾の教会は賛美する教会。韓国の教会は祈る教会だ」と言われました。確かにすごいです。朝3時か4時くらいに信徒が教会に集まり出すのです。早天祈祷会は5時くらいから始まるのですが、その前に来て既に祈っているのです。朝から教会でゴーっという音が聞こえました。何の音かと思いましたら、祈りの声でした。ものすごい祈りの渦とでも言いましょうか。「だから天から恵みが下らざるえないのだ」と言った方もおります。私たちが切なる思いで主を待ち望むことができたなら、確かに変っていくのです。私たちの生活も教会も家庭も全てが変っていくことができるのではないでしょうか?そういう切なる祈りをせずに、「仕方がない」、これは危険用語です。神様の恵みを失わせる言葉かもしれません。よく言いますが、左右前後が閉ざされていても上だけは開いているのだ。私たちは切なる思いでこの方を待ち望む。これが幸いだということです。その時に驚くような祝福が注がれていくのです。神のすさまじい御業がそこに成されていきます。私たちはこの年ぜひともこのような恵み、苦しみのある所に幸いが祝福が注がれる経験をしていく年にならせていただければと思います。
「 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終ることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5章3節〜5節)
パウロは『患難さえも喜んでいます。』といいます。なぜですか?その患難が私たちに忍耐を与えて下さるからです。「神様が必ずここから助け出して下さる」と戦ったわけです。窮地の中で、苦しみの中で、悲しみの中で神様が確かに応えて下さる経験を積んだのです。その結果彼の中に忍耐が生じてきました。それが次の困難に出会っても「神様がこれを乗り越えさせて下さる」と信じ待ち望ませて下さるのです。そしてこの忍耐こそが、品性を生み出すというのです。豊かな中身の人格を築かせます。そしてそれは「必ず神様が成し遂げてくださる」と希望を抱くのです。多くの苦しみを通り乗り越えてきた人は、色々な窮地にあっても「大丈夫」といえるのです。「なぜ大丈夫なの?」と聞くと、「分からないけど大丈夫。必ず何とかなる」と言う方がいます。確かにその苦しみを越えてこそ、希望を持つ事ができるようになります。そしてその希望は失望に終ることはないのです。なぜなら私たちに与えられた聖霊により、神の愛が私たちの心に注がれているからです。神様が愛する私たちに無駄な試練や苦しみを与えるはずがあろうか?という事です。私たちがそのことを期待し待ち望んでいるならば、神様は必ずそれを益にして下さります。このような信仰による戦いに勝利していきましょう。こういうことです。神様は「ヤベツの祈り」に対して、『そこで神は彼の願ったことをかなえられた。』。これは一朝一夕になったのではありません。苦しみを越え、切に求めていく事により神様からの大いなる祝福がそこに注がれていったのです。私たちも祈り戦う者としてこの1年を過ごすことが出来たらと思います。考えてみればあの問題、この問題、沢山あります。それらを主の前に祈り、「主は必ず益として下さる」と確信に変るまで祈っていきたいと思います。詩篇40編の作者は『私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。主は私の口に、新しい歌、われらの神への賛美をさずけられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。』
これは既に解決したというよりも、信仰により神は必ずこれを乗り越えさせてくれる確信に立たせていただいたということだと思います。祈りにおいて神様は平安と確信を与えて下さいます。そこまで切に求めていく祈りがどこまで私たちにあるでしょうか?祈りの応えが貧弱な理由はここにあるかと思います。もっと切に主を待ち望んでいくお互いになっていきましょう。天から豊かな溢れる祝福がこの地上に注がれると思います。実際の生活の中で多くの方が祈りの祝福を語っています。
ジョージ・ミラーは2,000人の孤児を祈りだけで養いました。人には求めを一切言わずに神様にだけ必要を祈りました。彼もその初期においては簡単に応えをいただいた訳ではないのです。ある時は祈ったけれども応えられなかった経験を通っています。でも諦めませんでした。その中で切に求めてついには、彼が上を向いて下を向いて、前を向くと祈りが応えられたというほどにまでなりました。それは彼が主を見上げてそこに立った時に、それは成ったのです。それほど彼は祈りの達人という言い方が適切かどうかわかりませんが、彼は神様に確信をもって立つ事ができていました。そしてついに多くの物をいただくことができたのです。私たちはこの地上に生きていますが、この地上に知らない秘密を持っています。それは神様との交わりです。そしてそこから人の知らない多くの恵みと祝福を受けることができるわけです。これを無にしておくことはないと思います。せっかくクリスチャンになっていながら、この特権を使わないでいることが結構あります。先程言いました「仕方がない」がその理由です。逆境を祈りをもって戦うことにより神様の祝福に変えていただく。ぜひこの1年このことを求めていただきたいと思います。